今朝、車で会社に向かう途中…、片側二車線のセンター側で信号待ちのため停車していた私の車のガラス窓をコツコツとたたく音がした。 スピードを落として停車するまでの間、分離帯に人の気配はなかったので、不思議に思って横を向くと、どこから表れたのか、作業服を着た40才くらいの男性が身をかがめて運転席を覗き込み何かを話しかけてくるのだ。窓を開けると“すいませんが○○駅まで、乗せて行ってもらえませんか?”と、言う。 彼の言う駅はさほど離れてはないのだが、乗せていくとすると15分ほどの寄り道になる。 それより、普通見ず知らずの人の車に乗せてもらうより(車の通らない山の中ではあるまいし)タクシーに乗るだろうし、少なくとも身内が危篤なので急いでいるのです…とか、理由を言うと思うのだが、そこのところは一切触れずに、ただ乗せてくれとだけ言われても、了解できるわけもなく“急いでいるので…”と、断った。 その後、彼はあっと言うその場を離れ、気がつけば2台後ろの車の窓ガラスをたたいている姿がサイドミラーにうつっていた。 さて、もしあの男を招き入れていたらと思うと、車の中でナイフを突きつけられていたかもしれないし、ひょっとすると車の下りしなにお礼と言って1億円もらえたかもしれない。 今となっては、どうでもいいことだけど、どんな理由で彼が車に乗せてほしいといったのかを知りたい気もする。 私は“狐”です…くらい言ってくれたらすっきりするのだが…。 |
昨日夜遅くまで、ある学者と話をした。一生を自分の研究に捧げるその研究者は、研究のために公的機関からの資金援助を勝ち取るために、その研究の重要度を知らしめるためのプレゼンテーションをする機会が多々あり、分かってもらえないと研究が続けられないと言った。 研究者というものが、机に一日中向かい研究に没頭し、人間関係を作ることが苦手な人種だと勝手に思っていたが、人間界では、どんな人でもコミュニケーションが必要だと理解した。少しでも自分の思うとおりに生きたければ、無人島に渡って一人で生活するか、今の世界で自分の思いを伝えるための努力を精一杯するかしかないのだろう。 私はビジネスにおいては負け犬だ。新しい事業を始める気力はないし、自分の部下を持ちたいとも思わない。その理由がビジネスの失敗という経験から煩わし人間関係から離れたいと言う気持ちがあったのだが、思いなおして他人とのコミュニケーションを大切に生きたいと思う。 だがしかし、それでも私は自分の部下を持ちたいとは思わない。 |
昨日、街の自治会に対して大手コンビニの出店説明会があった。私の街は住商観が混在する地域であり、昔の建物が今でも残り、いまでも多くの歴史的資産を有する。 コンビニはまさに便利であり私自身も利用しているが…。 この20年の街の商業的変遷をみると、コンビニができたために、成り立たなくなって町から出て行った飲食店のことを思い出す。 いかに日本人の味が全国…平均化されてきているか…考えてしまう。美味い店、不味い店等いろいろあった時代が過ぎ去って、平均点より少し上くらいの味に慣れてしまい、みんな、なにが美味くて、なにが不味いのかが分からなくなってきている。それ以上もそれ以下も望まなくなってしまったように思う。そして店主とのface to faceの関係がなくなり、日本全国どこにいっても同じ挨拶しかかえって来ない。画一化・便利に…という発想がいかに地域の文化を壊していくか…? 昨日の会合ではコンビニ本部の営業担当者と設計者が出席した。 彼らに対して、便利になることや、そこそこの味の弁当よりも、通行人と車輛の安全確保と環境美化のために、住人は真っ向から出店反対の意向を示した。私は、ただ両者のやりとりを見ているだけだったが、住人がえらく頼もしく見えた。町を守ろうとする目的で団結できる町は素晴らしいと思う。 この意向を、コンビニ企業はどれだけ聞き入れるのだろうか? 昨日の会の後で、私はますます自分の街が好きになっていると思った。 |
今日は、街の夏祭りがある。露店の出店参加者が少ないということで、私の所属する団体に白羽の矢が当たり1ブース出店することになった。そして私が、子供たちに箪笥取っ手(木製)を接着して着色してもらい駒を作ってもらうコーナーを担当することになったのだ。 このコーナーのアイデアは、会員の一人が、人づてに聞いた駒作りのアイデアを自分で検証せずに、すでに仕入れを済ませチラシや看板も作成してしまったわけで…。一昨日私が見本で作ってみると、組み合わせを変えていろいろ試してみても、満足に回る駒が一つもできないことが分かった。 だから、今日は会場に行きたくない。 朝から雨が降っている。今日の1時に決行か明日へ順延かが決まる。 天気予報ではこれから雨が強くなるし、中止になってほしい。 今日は朝から消極的な私がいる。 |
夏祭りの日、私達の主催するゲームブースの隣に、輪投げのコーナーがあった。 ペットボトルを二つに切り、下の部分にお菓子を詰め込んだ棒状の袋を突っ込んで、それに投げた輪が入れば、そのお菓子がもらえると言うゲームだ。100円で5投でき、輪が入ったお菓子は全部もらえる。投げるラインから近いところに10cmほどの長さのお御菓子が置かれ、一番遠くに50cmほどの沢山お菓子の入った長い袋が置かれていた。 最初のうちに遠くにおかれた一番大きなものを狙い、4投目くらいから確実に近くのお菓子を取りに行く人や、最初から近くのお菓子だけ狙って確実に持って帰ろうとする人等様々で、横目見ていると面白かった。 気が付くと知人の学者が輪投げにチャレンジしていた。70才に近い彼女は、最初から目標に据えた遠くのお菓子だけを狙い続けた。そして最後の1投も迷うことなく同じ目標を狙って見事に全部外れた。笑ってはいるけれど悔しさが見て取れた。 私は、ひょんなことで研究者魂をみたように思った。最初の目標、推測を最後まであきらめずに全うする。ふらふらするようじゃー研究なんて続けられないのだろう。 あとで私の感じたことを彼女に言ったら、苦笑いしながら“もう一度やろうかしら…。”と彼女は言った。 なんでも、じっと見ていると、いろんなことが感じ取れ、面白いものだ。 |
童話のなかに、小さな鼠が像の脚の爪を見て、それが動物だと分かるけれども全体の大きさや形が分からない…なんて話があったように思うけれど…。物事の本質を見極めるには、自分の普段の生活の尺度ではない、少し離れたところで俯瞰する必要があるように思う。 事実認識というものは、互いに嘘をついていないという前提で、そもそも自分が正しいから相手が間違っているという論法には無理がある。 そこで、私は“巻き寿司”をイメージしてみた。同じ巻き寿司のなかに卵焼き・シイタケ・胡瓜・菜の花が入っていたとして、それを切りとった一個だけを見てみたら、卵が入っていないところがあったり、シイタケと菜の花の量が逆転しているところがあったりするのは当然であるし…、自分にあったった寿司の一個だけを見て、他の寿司が自分のものと同じ寿司でないと言い張るのも妙な話である。要するに自分が食べた寿司を、食べていない寿司も含めて同じ寿司だと認識をすることが自然だと思う。 意見・考え方の違うもの同士は物事を俯瞰できる位置に自らを置かなければならない。 少なくとも、それができる人がリーダーになるべきだと思う。 |
一人を助けるために、多数を危険にさらすことが是か非かという話が昔からある。 アメリカ海兵隊は戦場で仲間(死体も)を一人も見捨てないという掟があると聞いた。仲間が敵に囲まれ動けなくなったら、どんな状況でも救出に向かうと言うのだ。だから兵士はどんな危険な任務でも命をかけて戦場におもむく。 私が一人のために大勢を犠牲にするかと問われたら…その場になってどう答えるか分からないが… 犠牲を0で乗り切ることを目標とするのではなく、当然犠牲はあるものとして考え、犠牲をどのよう少なくするかと考えるべきだと思うので、地球上のすべての人間を救うことのできる知恵を持った人以外は、見捨てられても仕方ないように思う。 今朝、電車に乗って通勤した。いつも思う事だが100km以上の速度を出して走行中の満員電車がカーブを曲がりきった直後に線路上に横たわる自殺志願者を見つけた時に、運転士は急ブレーキをかけるのだろうか? もし、急ブレーキをかけたら、状況によっては大勢の死傷者が出ると思うのだ。だから、そんな場合は極端なブレーキはかけてはならないと言う運行上の裏マニュアルがあるような気がするのだが…どうだろう? 鉄道関係者に知り合いはいないが、誰かにきいてみたい気がする。 一人の人間の命は地球より重いと言う考え方もあるが、地球1個と地球10個とでは重さが違うとも思うのだ。 |
一昨日、マダムの主催“チェロの演奏を聴いたあとで食事会”と言うイベントに参加した。奏者は毎年この時期…、夏休みで帰国してくるモスクワ音楽院の学生であり、今年で3回目である。 私は、毎年彼の演奏を聴いているのだが、クラシックに造詣は無い私でも、彼が毎年上手くなっていくのは分かる。 演奏が終了し食事タイムになった時、彼は私達の席に座った。私達の席のメンバーは私と同じように音楽が専門ではないようで、音楽とは異なる話題で場をつないだ。 そんななか、彼が誰に話しかけるでもなくポツリと言った。 “モスクワ音楽学院には現在40人近くの日本人がいます。毎年増えて来ているんですよ。訳の分からない金持ちの子供が…。” 私は、彼の話を聞いて、彼の言うところの訳の分からない金持ちとは、どんな人達か想像してみた。ところが、うまく想像できない。彼くらいの金持ちの子供は理解できるのだが…。 彼は、自分のことを金持ちの子供だと思っていないのだろうか?…なんてことが、頭をよぎった。 |
オーストラリアから一通のメールが届いた。キャンベラの国立図書館の研究員の女性の近年の研究が、国際赤十字社とスイス政府の支援を得て本になったと言うので、その全文を送ってくれたのだ。 全文英文である。英語が得意ではない私はまだ読んでいない。 そもそも彼女と初めて出会ったのは、4年前の日本で行われた彼女の講演の時だった。講演が終わってすぐに名刺交換し、翌日彼女の宿泊するホテルのロビーで面談した。その数日後、このたび完成した本のための現地調査として半日かけて、国内で埋もれた歴史となりつつある敵性外国人収容所跡地を巡る調査活動に同行した。 道のない道を進み、落下の恐れがあり通行を禁ずると表示のあるトンネルを抜け、辿り着いた先には、僅かに70年前の施設跡が残っていた。 あの時に木々の間から見上げた青空や鳥のさえずりを思い出した。 彼女は、着実に研究をつづけ、形に残している。 私も、頑張らねば…と、思った。 |