今朝、冷蔵の荷物を発送するため、宅配便の事務所にむかって、いつもと逆の方向に向かった。受付を終えて駅に向かって歩いていると小学生の集団がこちらに向かって歩いてくる。ふと、私の住んでいる町が学習塾の町だという事を思い出す。 夏休みだと言うのに、みんな頑張っているんだ…と、思うと同時に、どうして一般の親は他の子供と同じことをさせるんだろう?と言う思いが湧いてくる。 学習塾に通わせることは、激しい競争社会に身を投げるのと同じことで、そのなかに入ったら、大抵の人間は限界にぶつかって将来挫折するに違いない。 教育とはそんな残酷なものではなく、子供自らが興味をもって自分の意志で、一生を通してやりたいことを見つける手伝いをすることではないのか? みんなと同じことをすることが、得意ではない私は…そう思う。 ともかく、今朝出会った子供達が健やかに夏休みを過ごすことを祈りたい。 |
北陸のある会社の代表取締役を任されていた兄は本社の名を受け今年の春解任された。まだまだ働き盛りの年齢だし、本人もどこかから誘いがあれば働きに出るつもりでいたが、いまだに無職である。北陸にいた当時は単身赴任だったので、義姉はやりたいことをやっていたようだから、大きな子供が帰ってきて、さぞかし勝手が変わったに違いない。 それでも、二人は親に反対されるなか、粘りに粘って結婚までこぎつけたから、余所の夫婦よりは愛情は深いように思う。 母の家にチョコレートを土産に持ってきたから分かったのだが、つい先日、二人で北欧に旅行に行ってきたらしい。正確に言うと二人だけではなく、長女と3人連れだったようだ。しかも夫婦の旅費の半額は長女が持ったと言うから、よくできた子供である。 夫婦には3人子供がいて2人が男だが、そのうち長女が一番優秀で阪大工学部の大学院を卒業して、今は若くして都市計画の仕事をしている独身貴族である。反して残りの二人の子供は、いたって普通である。 私は、論理だって物事を考えることが苦手だから、男二人のほうが親しみを感じる。私の子供はというと、やはり直感型で私に似ている。さすがに私の子供だ。 私の子供はいつまでたっても私の旅行費用は出してくれそうにない。 そう考えると兄夫婦の海外旅行を、ちょっとだけ羨ましく思うのだ。 |
昨日、私の近親者から、私の考え方・行動がおかしいと顔しかめられた。 そう言われても、その時には他の選択をする心とお金の余裕が無かったわけで、私にはそうせざるを得ない理由があったのだ。彼はそれを理解してもおかしくない立場なのだが、一般常識で私を推し量ろうとしている。 私と彼との関係が深いから、彼はそこまで踏み込んで私のふるまいがおかしいと言ったのだろう。私にすれば関係が深いから私の考え方を分かってほしいと願うのだ。 どうでもいいことなら、互いに離れれば済むことだが、そうはいかない関係だから、後日改めて私の考えを伝えようと思う。 その時に大切なのは、彼が、私の振る舞いがおかしいと思う気持ちを、理解しようとする気持ちをもつことだと分かっている。 自分の気持ちを伝えることは難しい。 どんな場合でも、自分と異なった考え方、見方をする人を完全否定することは避けたいと…つくづく思う。 いろいろな考え方があるのだ。自分の信念は大切にしたいが、相手には相手の信念があることを踏まえて人間関係を築きたいと思う。 |
相手が勉強不足だとか言って話を聞かず、“自分が正しくてお前が間違っている。”なんて互いに言い続けていたら、その隙に乗じてお隣さんが横に置いてある獲物を抱えてどこかへ行っちまうわな…。 動物的直観のある者や知恵のまわる者は、今一番大切なものが過去の歴史認識ではなく、命の糧の獲物だと言うことは誰に言われなくたって分かるさ…。 相手が間違っていると叫ぶだけなら、駆け引きでもなんでもありゃしない。 そこのところが分からない人はリーダーには向いていない。 ●先ず、第一に互いに認識の違いがあることを認め合う ●次に、互いに相手の認識の事実根拠に耳を傾ける ●次に、認識の違いを埋めるために、別枠で時間をかけて、話し聞く時間を作る ●短時間で、その手順をとったうえで、両者の未来のために、最善の今なすべきことを話し合う ●そこで合意したことを実行する この順番以外に、分かりあえる方法はないと思うんだけど…。 どうして、自分が正しいとだけ言い切るんだろう? なんて人間はおろかな生き物だ。 |
今朝、ある老人と話をしていると、“死”についての話になり、彼女が近づいてくる死に怯えていることに気が付いた。私にとって“死”とは、恐いものではなく嘆きの対象となるものではなく、単なる現象であって、いつでも受け入れられるものだから、そのことを彼女に話をするのだが、トンチンカンにしか理解しない。 神様がお願いを聞いてくれることなんかないんだよ…とか、一瞬自分の経験した死の概念のなかを抜けると、蛍光灯の明かりが消えるようになにもない世界に行くんだよ…とか言ってもポカンとしている。私も見てきたように言うが、私の概念のなかで言っているだけなんだけれど…。 だいたい死に関する概念は地獄にかぶせておぞましいいものだという事も、死は天国への扉だという事も、宗教が都合よく解釈して教えたもので、私にすれば単なる現象でしかない。 死に至るまでの時間には、痛みや苦しみはあるが、死をむかえれば何も感じない。 私は、そう思うんだけれど、大抵の人達は、宗教的概念で死を捉えている。 説明しても分かってもらえないしなぁ…。 もう、この話は止めとこう。 |
私の尊敬する学者が、自分の物事の進め方をメールしてきた。 私の進み方の基本は実践というか、peak to peak styleです。 一段登って、開ける展望、それを重ねてゆくスタイルとでもいうものです。 目の前には、疑問符をつけた看板を置きながら、例えば緑の景観って何だろうといったことをぶら下げて行きます。 昨日の・・・・館での出会いも、peakそのものでした。そこからまた、何が見えてくるか、 本当に楽しみです。 私に、メールしてきた理由は、今進めていることを絶対に成し遂げる…と言う強い決意の表れだろう。 いっしょに事業に臨む私に、その覚悟があるかを問うてきたようにも思う。 心してかからなければならない。 |
昨日、ある会合で尊敬する歴史研究家に私の名刺をお渡しした。じつは、以前…研究家のほうから声をかけていただき先方から名刺をいただいたのだが、ちょうどその時、名刺を切らせていて自分の分をお渡しできなかったことがあった。 それ以後、ある講演会でもお会いしたが、挨拶に近づく聴講者の相手に忙しそうで気の弱い私は近づけなかったのである。 昨日も遠くの方から研究家のほうから声をかけていただき、飛んで行って、頭を深く垂れ、やっと名刺をお渡しすることができたのである。 昨日は研究家としまし歓談する時間があった。その会話は実に興味深く楽しかった。そのなかで私は自分のことを“私は研究家ではありません。論理的なことが苦手な直感型の人間です。”と、自己紹介した。すると“私もそうです。好きなことをやっているだけですから…。”とお答えになった。 その言葉を聞いて、私は研究家のことがさらに好きになった。 きっと、彼は名声ではなく金儲けでもなく、これからも純粋に興味のあることを追いかけ続けるのだろう。 私も“やりたいことをやっている。”と、答えられる人生を生きていきたい。 今後の今後の彼の研究発表が待ち遠しい。 |
今日、私の尊敬する農学者の講演会がある。私が彼女に出会ったのは今年の1月…、聴講者として彼女の講演会に行ってからのことだ。その3ヶ月後、私が彼女の家を訪ね交流がはじまった。私と彼女は全く違うタイプの人間だ。彼女は論理的思考力が高く、私は直感力の方が突出している。互いを高めるために話し合うには論理的な面と直感的な面が両方必要だという事は分かっている。そして、自分に足りない物を相手が持っていることを分かりあっている。 彼女は多くの学者がそうであるように、営利を目的とすることなく純粋に物事に向かう。今まで信念を貫いて目標に辿り着いてきた。 そんな彼女の姿を見て、多くの協力者が表れ、サポーターになりブレインになっていく。 私の、そのサポーターの一人である。 本日、彼女の研究が公になり、町づくりの大きな原動力になっていくことが予想される。 これからも、私の出来得る限りの協力を惜しまないだろう。 彼女は70才半ばの、私のアイドルなのである。 |