龍馬も篤姫も自分が幸せかどうかなんて考えなかっただろうな・・・反対に不幸だとも思わなかっただろう。そんなことを考える間もなく、次から次へと目の前に難題が表れ、それらの対処だけで精一杯生きて光を放っていたに違いない。彼らは現代の人々に尊敬され、勇気を与え、これからも生きた証が語り継がれる。今幸せかそうでないかと考える自分に気がついた時、きっとそんな事が頭の隅をかすめる時には、ほっと一息ついていて他人と比較し、客観的に自分を見ている自分がいるに違いない。それに反して、かっこいい人生とか、人に感動を与える人生なんて、休む間もなく愚痴を言う間もなく比較する暇もなく自分に向かって来る問題に対峙し続けなければならない。それも大変だな。だから自分が幸せだとか不幸だと思えることが幸せだと思えれば少し楽に生きることができるかもしれないが・・・そんなにうまく自分を納得させられない。 自分は龍馬になれないし、なりたいとも思わない。だからたまに空を見上げて自分が幸せだと深呼吸し、どうしてうまくいかないんだろう・・・と地面を見詰めて不運を嘆きながら、私は極々普通の私の人生を生きていくと思う。そして、私はそれで充分満足しようと思う。 |
2週間振りで山道を通った…と言っても、通勤のために利用したのではない。6月26日の豪雨での崩落復旧にはどうやら3ヶ月が必要らしい。今日は明日予定される歴史研究家との史跡調査の下見のために久しぶりでこの道に入った。進入口に誘導員の姿は無く、道の半分を塞いで掲げられた通行止めの看板の横を抜けて車を進めた。当然のことながら、対向車は見当たらない。町からの車はこの道に入れないのだから…。途中、湖の近くにある外人墓地を訪ねた。年間無休で開いている筈の売店も、その横の食堂にも人の気配がない。私は、これまで何度もここを訪れたが、人も車も全く気配のない湖は初めてだった。耳に入る音は鳥のさえずりだけ…。風の音も存在しない。崩落事故が、私に贈った癒しのひと時…。 崩落事故で誰も傷つかなかったことを祈った。 <つづく> |
外国人墓地に向かって歩いて行くと、100m程先の入口付近で3人の管理職員が忙しなく働いており、そのなかの中年の1人の男性の仕事覚えが悪いためか・・・先輩らしき人が、静寂を破るやけに辛らつな罵声を浴びせていた。近寄りがたい雰囲気の中、歩を進めた。私は彼らにぶっきらぼうに「この近辺に戦争中に敵国外国人の抑留施設だった場所があったことをご存じないですか?」と尋ねた。すると大声を出していた男が「少し戻った公衆トイレの横の管理事務所で聞いて!」と素っ気無く言い放たれたので、引き返して関係者以外立ち入り禁止(ビデオ撮影中)と書かれた入口の門扉を抜けて事務所の建物の中に入った。扉の開いていた事務所の外から大きな声で、同じ質問を繰り返した。職員同士で顔を見合わせていたが、やはり誰も知らないようなので、諦めて引き返そうとしたところ、1人の年配の男性が「近くの寺に行けば分かる人がいるかも知れないなぁ…。」と言うので、礼を言って事務所を出た。その一言を頼りに車で寺に向かった。山門の手前で車を降り、頂上の見えない急勾配の石段を登り始めた。鳥のさえずりが徐々に小さくなり、かわりに自分の呼吸の音が大きくなってきた。足に酸素が不足してくる気だるさを感じたが、本堂まで一気に上りきり息を整えてから参拝をすませた。寺の関係者の気配を探ろうと耳をすませていると、少し離れたところから落ち葉を掃き集める音が聞こえたのでその方角を目指した。寺の血縁者か檀家の娘か分からなかったが幼さの残る女性に“抑留施設”のことを聞いてみた。すると彼女は社務所に入って行き住職を引き連れて戻ってきた。残念ながら住職も覚えが無かったものの、やりとりの一部始終を見ていた落ち葉の袋を運んでいた彼女がお父さんと呼ぶ人が、「そこやったら実業学園の先の1人しか通れないトンネルを抜けた先にあると思うよ!」と横から声をかけてくれた。 住職、彼女、彼女のお父さん・・・それぞれに礼を言って石段を下った。少し先が開けた気がして足取りは軽やかに変わった。 この日仕事の打ち合わせの時間が迫ってきたので、町に入る道と反対の方向に一旦迂回して町へ向かうもう一つの道に入った。 その日の夕方“実業学園”に電話で問い合わせた。しかし「そんな施設は誰も知りません。」と一言…さて、明日はどうするか、直接訪ねてみるか、諦めるか・・・ さて、明日はどうするか・・・ <つづく> |
朝起きると雨だった。不案内の山の中での移動が予想されるため家を出る前に、雨具の他、タオル、着替えと共にスイスアーミーの万能ナイフ、消毒薬に簡易包帯、おにぎりやお茶をリュックに詰め込んだ。10時に町の百貨店前で二人の研究家と合流した。昨日までの情報を伝え、どのルートで巡るかを確認した。本日のミッションは大きくは二つである。一つは、日本で歴史のなかから消滅しようとしている戦時中の敵国外国人の抑留施設跡(すでに施設はないはずである)に自ら立つという実地体験をすること…。このことについて少し説明しておくと、抑留施設というものは収容所とは異なる。収容所は捕虜(軍人)を閉じ込める施設であるが、抑留施設は一般市民を隔離する施設である。本日訪ねる場所は、戦争が始まるまでに日本から脱出できなかった一般市民の隔離施設である。この施設の情報はすでに日本から消滅しつつあり、今回オーストラリア在住の歴史研究家が当時その施設に収監されていた外国人の英語の日記や回想録のなかから存在を知り、研究調査しているもので、今後いつの日か本日の調査内容が彼女の発表する論文のなかの数行を飾るに違いない。もう一つのミッションは、身寄りなくカナダで永眠した一人の女性の墓を外国人墓地に墓参することである。3人の話し合いの結果、崩落事故のあった道がまだ通行できないため、谷に沿って山の温泉へ向かう街道を通ることになり、その途中に昨日私が電話した“実業学園”があることから、行き着けるかどうか不安が残るなかを第一目標として“抑留施設”へ向けて車は出発した。街道を反れ森のなかへ続く小道へと右に曲がり、しばらく進むと対向車を交わす余裕のない道が続くため一旦停止して進むか否か話し合ったが、ともかく学園まで行って話しを聞こうと山道を登り続けた。こんな偏狭の地に学園(養護施設)と名のつく施設があることが不思議でならない。ただそれを確かめることはこの度の目的にはない。なんとか学園までたどり着き、彼女(オーストラリア在住の研究家)と私とが職員に話を聞くため車を降りた。私は昨日電話で「施設のことは誰も知らない。」と素っ気無い返事をもらっていたので、今日はこのミッションの主人公である彼女に質問を任せた。すると「この山道を、街道からここまでと同じ位の距離を真っ直ぐ行った所にトンネルがあり、その向こうに施設があった筈だけれど、数年前にトンネルが閉鎖されていて今は行けない。」彼女は、質問を続けた。「トンネル通らずに先に行く方法はありませんか?」「トンネルの右側に山道があり、そこを行けば向こうに行けると思う。しかし最近通る人は無いと思うので、もし行くなら気をつけて行きなさいよ!」昨日の電話での対応とまるで違う答えが返ってきた。いくらフェーストゥフェースの力だと納得しようとしても、それだけではないようだ。歴史研究家が持っている損得抜きの粘り強さもあるだろう。いいものを見せてもらったと思った。大収穫を得て、車は悪路を登り続けた。目の前に工事用資材で封鎖されたトンネルらしき穴が見えてきた。 <つづく> |
トンネルは聞いていたよりも大きく、車一台だけなら通れそうであった。左手の100数十メートル先に、そう古くない2段になった砂防ダムがあり、この場所が谷筋になっていることと、たまに人が訪れることもあることが伺えた。右手に急斜面が立ち塞がるが、よく見ると人が通れそうな小道があり、私が先頭を切って上り始めた。思ったよりも急斜面で雨に濡れた地面は私たちの神経を尖らせた。頂上付近では生い茂る草で足元が見えなくなった。かなり古い時代に設置された道標(文字の判別できない明治時代のものもあった。)を頼りに進んで行くと、石の周囲を瓦で積み重ねて作られたモダンにデザインされた(昭和に作られたであろう)洋風の門柱が見つかり、私たちが目的地に近づいた事を知った。山を下って行くと光が差し込む平地が広がり、思った通り当時の建築物はなかったが、明らかに花壇であったであろう石積みやモダンな石彫りの花器の破片が見つかった。人里離れたこの場所で外国人が少しでも心豊かに生活しようと花を育てた様子が思い浮かぶ。今は誰も遊ぶ者もないブランコもあったが、この地は抑留施設であった前後に少年院としても使用されたことがあったらしく、ひょっとすると当時の子供たちの遊具だったかも知れない。広場の片隅にそう古くない2台の車を見つけたので、誰か人がいるのかと近づいたがすでにナンバーは外されており、トンネルが閉鎖されるまでに乗り捨てられたものであろう。たまに森林管理局の人たちが管理のために訪れている様子を感じ取れるが、この地は一般市民の来訪を拒絶し続け、抑留施設としても少年院としても、いつか完全に忘れ去られる運命にあると思った。 現代日本人の記憶から消えつつある戦争の記憶を、木立の間から覗く雨雲を見ながら歴史研究家とともに追体験している私は不思議な満足感を感じていた。 同行者が年配女性であり滑りやすい山道の岐路は返って危険であるとの判断から、閉鎖されたトンネルの端の僅かに人一人が入れる隙間を抜け100m程先に明かりが見える真っ暗なトンネルに私が先頭で入っていった。衝撃での崩落を避けようと全員沈黙のまま歩ききった。トンネルの外へ出た時、再び私たちの時計が動き始めた。 <つづく> |
次の目的地、外国人墓地を目指し、街道を急いだ。外国人墓地は当初、居留地の直ぐ横を流れる川の河原に造られたが、その後大水で何度か水に浸かったりしたものだから、暫くして新しい遺体は川から少し離れた所に埋葬されるようになった。しかしその後都市計画の一環で、それまでの二つの墓地を統合し自然環境に恵まれた現在の山の中に移転する案が持ち上がり計画は実行された。1961年に移転が完了し、現在の墓地には2500柱が永眠している。移設完了直後は一般市民も自由に訪れることができたが、いたずらや盗難が相次いだため、外国人遺族から苦情が出たこともあり、一旦は完全に市民の見学は中止されたが、議会で問題となり現在では月に2日だけ、申込抽選によってガイド同行(自由に見て回れない)での見学が許されている。ただ今日は、観光気分の見学ではない・・・。日本を愛し日本で永眠した(戦中及び戦後の戦争裁判ではオーストラリア軍の将校として従軍した)オーストラリア人の一人娘で、カナダで生活し近年亡くなった身寄りのない老婆が、縁故関係のない存命中の在日外国人有志の口添えでカナダを離れ両親の眠る同じ墓に近年、埋葬された。オーストラリア在住の歴史研究家は、数年前にカナダを訪れ彼女が入所していた老人施設に面会を試み、戦争前の家族との生活を訊ねたようだが、お土産で持参したユーハイムのお菓子(本人も日本で食べたことがあるのだろう)以外は、彼女の昔の記憶は蘇らず、歴史の証人に出会えたという成果だけを持ってカナダを後にした。この度の墓参は、彼女の行く末を見届けたいと言う研究家の純粋で強い思いで実現した。 尚、補足しておくが、上記オーストラリア人、ハロルド S.ウィリアムスは日本での1900年代前半における欧米人の生活実態を研究するうえで数多くの貴重な資料をオーストラリアの大学に寄贈した。それらは“ウィリアムスコレクション”と呼ばれ、優れた歴史研究資料として知られている。 二つのミッションを無事終え墓地を後にした。3人は雨の降る湖畔を臨むベンチに座りおにぎりとサンドイッチでの遅い昼食をとりながら、各自の研究についての深い会話を交わした。(私は聞き役に回った。)雨音だけが響く森の一角での真剣なやりとりがやけにくっきりと私の心に刻まれた。 <おわり> |
以前にも書いた事があったが、私が最近出会う人はそれぞれの道でのエキスパートの人達が多く、会話の内容も私自身の血肉になっていくような良い意味での大きな刺激を受けている。この人生の変化がなにによってもたらされたかと考えてみれば、仕事環境の変化、心のなかのゆとり、どんなことが起こっても不思議はないという良い意味での覚悟、なにがあってもなんとかなるという楽観的発想等・・・いろいろ思いつくのだが、理由を一つに絞る事は難しい。ただ、長い(?)人生のトンネルのなかで、仕事のマンネリ化、心の中のあせり、次に何が起こるのかと言う不安、こんど良くないことが起こったらどうしようという悲観論を持つ自分を情けなく思い自己嫌悪に陥りながら、悩みもがきつつ、光を信じて生きた結果が今に繋がったことは確かに思える。今出会えるエキスパートの人たちと話ができるのも、全ての経験の積み重ねが引き起こしたと考えることは間違いなさそうだ。 さて、明日はどんな素晴らしい人に出会えるだろうか・・・ 今まで受けた痛み苦しみの記憶を忘れてしまわないように日々を過ごし、出会いのある明日を楽しみに生きて行きたい。 |
梅雨明け宣言の出た昨日・・・予想通り朝の山の遠景は85点程度にくっきり見渡せた。山上より市街、内海、その対岸に拡がる山並みを撮影するには、なかなかの日和・・・私の顔はほころんだ。喜びの後ですぐに失意が襲う。例の山の頂にたどり着くことができたとしても、あと200m程で町に抜けるというところで、6月26日の崩落現場から、来た道を引き返さなければならない。通行止めの後遺症が私にボディーブローを見舞う。迂回するとなると通勤に1時間余分にかかる。この1時間の障害を私は克服できなかった。例の世界的カメラマンなら迷うことなく天が与えたシャッターチャンスをものにするだろう。所詮私は素人・・・“無理なことは無理”と納得しようとするが、少し治まらない感じ。今日のチャンスを逃して365分の1のチャンス(?)が消えていったかもしれない。チャンスが無くなったわけではない。チャンスは常にまたやってくる。大切なのはそのとき自分のものにできるかどうかと、その時の自分の備えと意思の問題・・・。 私は、例のカメラマンの半分くらいの心意気で365分の1のチャンスを待とうと思う。しかし、今日も結構視界はよかったなぁー。 |
今日の朝も遠くの山が幾分近くに見えた。いつもより1時間早く家を出て、市街を見下ろす山に向かった。結局本日は365分の1の日和ではなかった。 私は単純だと思う。昨日このブログを書いた後にI・M.ペイの次世代におくるメッセージという文章を読んだ。私の内にさらに上を目指す心意気が介在していた。気持ちが昂っている今朝は山の頂きに立たずにいられなかった。 その文章をご紹介しておく。 この世には自然の流れというものがあります。 優れたデザイナーになるには運も必要です。 なかにはル・コルビジェやフランク・ロイド・ライトのように、 人一倍運に恵まれた人間もいる。 生まれながらにして偉大な建築家はいません。 ではなぜ彼らはそれだけ偉大になったのか。 それは限界を押し広げるか否かということだろうと思います。 人によっては、力を出し惜しみして限界に達する前でやめてしまう。 けれども私は自らの限界に挑む人間でありたい。 I・M.ペイは素晴らしいと思う。そして私は自分が単純だと思う。子供の頃にテレビで見たヒーローに自分が成りたいと思ったように、私は今、I・M.ペイに近づきたいと思っている。 |
ギターの先生に批評をいただいた。“今のあなたのレベルでは、言うことがない。”素直に喜んでいいものだろうが・・・少しひねくれたところのある私は、考えてみた。習い始めて2ケ月めでのこの評価・・・最高の褒め言葉だととれないことはないのだが、まだまだ上には上があるよ!とも言われたようで・・・ただただ“そうなんだ”と思うだけだった。私は自分を何様だと思っているのだろうか・・・たかが2ケ月習ったくらいで人よりうまいと思っているのだろうか・・・いえいえ、そんなことはありません。 私は、自分が人より物覚えが悪く、どんくさいということをちゃんと知っています。ただそれが分かっているから人よりたくさん練習することが多く、従っていつのまにか人よりうまくなっていることもよくあるのです。人より劣るところを自分で理解できていることが私の救い・・・強さ・・・個性・・・。そんな弱点を与えてくれた神様に感謝・・・。 先生の前では、私は教えられたこと以外はやらない。ひょっとすると、いまのところ先生が思っているより私の実力のほうが勝っているのかも知れない。でも高が知れてるけどね! 昨日の続きから言うと、それよりこれから限界をどこに置くかだよね!プロにならないとしても・・・。 “あなたの今のレベルでは、言うことがない。”この言葉を誰かに言ってみたいな・・・全然知らない人から突然こう言われたら、この人誰なんだろう・・・って思うよね。冗談だって後でネタ晴らしすることを前提に誰かに言ってみようかな…全く私の専門外のジャンルの人に・・・やっぱりやめとこう!悪乗りのきついおっさんだと思われる年齢だし・・・。 |