トンネルは聞いていたよりも大きく、車一台だけなら通れそうであった。左手の100数十メートル先に、そう古くない2段になった砂防ダムがあり、この場所が谷筋になっていることと、たまに人が訪れることもあることが伺えた。右手に急斜面が立ち塞がるが、よく見ると人が通れそうな小道があり、私が先頭を切って上り始めた。思ったよりも急斜面で雨に濡れた地面は私たちの神経を尖らせた。頂上付近では生い茂る草で足元が見えなくなった。かなり古い時代に設置された道標(文字の判別できない明治時代のものもあった。)を頼りに進んで行くと、石の周囲を瓦で積み重ねて作られたモダンにデザインされた(昭和に作られたであろう)洋風の門柱が見つかり、私たちが目的地に近づいた事を知った。山を下って行くと光が差し込む平地が広がり、思った通り当時の建築物はなかったが、明らかに花壇であったであろう石積みやモダンな石彫りの花器の破片が見つかった。人里離れたこの場所で外国人が少しでも心豊かに生活しようと花を育てた様子が思い浮かぶ。今は誰も遊ぶ者もないブランコもあったが、この地は抑留施設であった前後に少年院としても使用されたことがあったらしく、ひょっとすると当時の子供たちの遊具だったかも知れない。広場の片隅にそう古くない2台の車を見つけたので、誰か人がいるのかと近づいたがすでにナンバーは外されており、トンネルが閉鎖されるまでに乗り捨てられたものであろう。たまに森林管理局の人たちが管理のために訪れている様子を感じ取れるが、この地は一般市民の来訪を拒絶し続け、抑留施設としても少年院としても、いつか完全に忘れ去られる運命にあると思った。 現代日本人の記憶から消えつつある戦争の記憶を、木立の間から覗く雨雲を見ながら歴史研究家とともに追体験している私は不思議な満足感を感じていた。 同行者が年配女性であり滑りやすい山道の岐路は返って危険であるとの判断から、閉鎖されたトンネルの端の僅かに人一人が入れる隙間を抜け100m程先に明かりが見える真っ暗なトンネルに私が先頭で入っていった。衝撃での崩落を避けようと全員沈黙のまま歩ききった。トンネルの外へ出た時、再び私たちの時計が動き始めた。 <つづく> |