最近、通勤で電車に乗るようになった。携帯のアプリの万歩計を見ると、車通勤時には1日に5,000歩弱の歩数だったのが、最近は10,000歩を越えることもある。私の歩幅が一歩60cmとすると…、それでも日に6km程しか歩いていない。 朝散歩している老人達とあまり変わらない運動量である。 体幹を鍛えるトレーニングもするにはしているが、私の年齢ではまだ運動不足に違いない。 今年2月まで通っていた田舎のスポーツクラブのプールを退会してから、体重が増え始めた。食べる量と飲む量が増えたのに対して運動量が足りていない。 このままでは、思ったより早く、首が前傾し、背中が曲がり、足が上がらなくなり、歩幅が狭くなり、そのうち…なにかにつまずいて、転んで、寝たきりになってしまう。 都会の家の駅近くには、大きなスポーツクラブがある。 近いうちに、訪ねてみようと思う。 |
“A級戦犯”…って、なんだろう? ポツダム宣言六條に基づき、極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項により定義された戦争犯罪に関し、極東軍事裁判(東京裁判)により有罪判決を受けた者である。 裁判後の話(ある質問のベストアンサーから) 昭和28年8月3日衆議院本会議で 「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」 を社会党も含めた満場一致で決議しました。 また、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」および「恩給法」の改正が行われ、「戦犯」 の遺族も戦没者の遺族と同様に遺族年金・弔意金・扶助料などが支給され、さらに受刑者本人への恩給も支給されるようになりました。 この結果、「戦犯」と言われた人たちはすでに犯罪者とは見なされず、A級戦犯で絞首刑になった東条英機元首相ら7人も「刑死」ではなく「公務死」の扱いにされ、彼らの名誉回復がなされています。 さらに、昭和30年7月19日 衆参両院の本会議で「戦犯赦免に関する決議案」を圧倒的多数で可決し、国際的にも、サンフランシスコ講和条約第11条にもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は昭和31年、BC級戦犯は昭和33年までに全て赦免・釈放されました。この時 釈放された「A級戦犯」だった2人、禁固7年だった重光葵氏は鳩山内閣の副総理・外相となり、終身刑だった賀屋興宣氏は池田内閣の法相を務めています。またA級戦犯元被指定者の岸信介は内閣総理大臣にまでなりました。 「元A級戦犯」が閣僚となった際にも、中国はもちろん諸外国からとりたてて異議はありませんでした。 |
私の町が開港してまもなくのこと…、明治維新政府の名を受け摂津警護の任に向かうため、居留地北方を行進していた500名の備前藩士隊列の前を二人のフランス人水兵が横切った。その行動に怒った数人の藩士が槍で水兵を突くと言う事件があった。逃げ帰った水兵の報告を受けた指揮官は港に停泊中の欧米軍艦に待機していた水兵を上陸させ、備前藩士の追撃命令を下したと言う。幸い互いの鉄砲や大砲の砲撃はあったものの死傷者はなかったが、この事件を機に欧米の列強は居留地と港に停泊中の日本艦船を占拠し続けた。 維新政府から、この事件の解決を委ねられた東久世通禧及び伊藤博文らは、交渉の開始にあたって欧米列強の外交官や軍人を前に国際法に乗っ取って事件の決着をつけることを提案し、日本に対して、いいなりに決着を付けようとした欧米人達に日本の国際性、外交力を知らしめたとされる。もし、この国際感覚をもった冷静な交渉力がなければ、ひょっとすると大きな戦争に発展したかもしれない。日本も他のアジアの国々と同じように植民地化していたかも知れないと言う歴史家もいる。 当時の日本人は若くして語学が堪能で法律や化学、経済学等を学び、欧米人と対等に交渉ができたのだろう。だからこそアジアのなかで唯一欧米と対等に交渉できるアジア人の国になったのだ。 海外との交渉において、相手の言いなりにされるから交渉の場に参加するべきではないと怯える現代の政治家は、あまりにお粗末だ。そんな人は政治家になるべきではないと私は断言する。 |
消費税の税率が上がると消費が冷え込むと言うが、上昇することより、お金を使わず貯め込むことが良くないのであって、経済ド素人の私にすれば税率がupしても、みんなが消費を控えないで使い続ければ決して悪いほうへは向かわないと思うのだが…、お金の回るムードや仕組みを作るのが政治家の仕事だから、その努力をすることなく、ただただ税率の上昇反対を訴える政治家にはついていけない。 転がりはじめた車は、自然に止まるまで動きにまかせるしかないと思うのだが…。下手に止めようとすると大怪我をすると思う。 私には、経済に関する知識と経験が不足している。もうこの手の話をするのは止めておこうと思う。 |
観光バスの待機場で町の物産店が並ぶ元小学区の講堂で、8月10日に私の知人のオリーブ博士が講演会を行う。そのフライヤーは私がデザインした。私はプロのデザイナーではないが、自分ではプロの仕事を脅かす仕事をすると思っている。 私は集まった聴衆にインパクトを与えるため、講演に先立ち数分間の動画を流したいと考え、そのために必要な映像を撮るために、一般客の邪魔にならないようにと…、映像のセミプロの息子を連れだって開館40分前に裏口から入り許可を受けるべく元小学校の管理室を訪ねた。 管理室では、事前に話がない…と、すげなく門前払いされた。そこで前日に話を通してくれたはずの担当者に電話してみたが、東京出張に出てしまい通じない。結局開館時間が近づいてきて出直すことになった。 そうこうするうち、オリーブ研究家から、“本日は、私の講演のために息子さんといっしょにビデオ撮影…有難うございます。”と、メールが入った。 どのように返事しようかと思ったが、“今日は事情があって撮影できませんでした。木曜日に再度チャレンジします。楽しみが先に延びただけだと思っています。”と答えた。 自分で送り返したメールを読み返してみて、なにかうまくいかなかった時に、“楽しみが先に延びただけ…。”とか、“夢をみる時間が少し長くなりました…。”と、考えてみるのは、しゃれているなと思った。 それにしても、息子のほうから“お父さん、出直そう。”と言ってくれたのは救いである。 |
“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”と言うことわざがある。 坊主が憎くなれば、着ている衣もなにも、その関係する全てが憎くなるという言う意味だと思うが、こういうことは一般には多々あることだ。 好きだった時にはなんとも感じなかった相手の話し方や体臭、口臭やオーデコロンやらが、鼻につき始めると全てがうざとくなっていった…と、言う話を良く聞く。 大抵の場合、その問題の兆候はずっと前からあったはずなのだが、相手が騙すつもりで、よほどうまく隠していたか、それとも自分が相手の気になる部分を見ようとしなかったからに違いない。 私はと言うと、ひょっとすると誰かから憎くなった坊主のように嫌われているかも知れない。しかし、私には誰一人として袈裟まで憎くなった人はいない。 それは、どんな人にも良い部分と悪い部分を見出すことができるからだろうと思うのだが、誰でも両面を持っていて、概してそれは背中合わせの事も多い。人間なんてそんなものだと思いながら、誰に対しても深い関係にはならないようにしている。 自分を傷つけないための防御手段だと言われればその通りだろう。他人を恨んで生きていくよりずっとましだと思うのだが…どうだろう? |
私の子供の頃には、1年に一度くらい送電線への落雷やらで短時間の停電があって、夜中に蝋燭を灯して時間を過ごすこともあったが、最近ではとんと経験がない。震災の時には確かに停電したが、あれは朝だったし私の家は数時間後に復旧したから電気では不自由しなかった。(それより水道の復旧には半年近くかかったから大変だったな…。) それに、原子力発電所の稼働が止まって夏の電気不足が叫ばれた時も、なんとかなったし…。 本日早朝、電線の地中埋設化工事に伴い私の会社のあるビルが午前1時~5時までの4時間停電した。誰もいない館内で電力関係者が工事したわけだが、朝来て充電状態のパソコンを立ち上げるといつものようにはいかなかった。警備会社か夜間に出動した旨のお知らせが入っていたり…、おそらく停電に伴い一瞬異常電圧が流れたせいだろう。それに館内のタイマーが狂ってしまって調整が必要だったし、当然あるはずのものが無くなると、いろいろと慌てることが出てくる。 たまに、自分が過去に経験した、苦しかったことや辛かったことを、思い出すのも大切かも知れない。 昔、自分の手に無かったものが手に入った喜びと、それはいつまでも自分の下にはとどまらないということを思い起こしてみるのもいいものだ。 今年は電気料金も上がったし、今ある電気に感謝して使いつつ、暑い夏を乗り切りたい。 |