私には互いが犬猿関係の二人のどちらとも親しく付き合っているケースがいくつかある。彼らの多くは、最初は互いにある程度友人関係で、場合によってはとても親密な関係の場合が多い。そしてもう一つの共通点は利害関係にあるという事だ。 犬猿関係になるための手順を整理すると…、先ず利害抜きの親しい関係であることから始まる。そのうちに意気投合して利害関係が発生し、しばらくすると相手の、それまで見えていなかった常識外れの言動や行動が目に付き始め、そうなると相手のすべてに嫌悪感をいだくようになる。こんな手順である。 相手との関係を完全に切ってしまいたいと思っても、利害関係があるから離れられない。そこで犬猿関係が生まれるのだ。 私は、親しく付き合う人とは利害関係を持たない。逆に利害関係を持つ人とは必要以上に親しくならないように付き合うことを鉄則としている。 それを心がけたらいつでも客観的にいられるし、離れられるし、煩わしくもない。 私に親友と呼べる人間が一人もいない理由は、そんな鉄則をもっているからだろうか? |
話の途中で“何を言っているのか訳が分からん!”と言う人がいる。じつは、私は昨日もある人から言われてしまった。 私は未熟だから“何が分からんのか分からん!”と言い返した。 話し合いというのは、自分の思いを伝え、相手の言い分を理解することだと思う。話の途中で“何を言っているのか訳が分からん!”と、言ってしまうとそこで話が中断してしまう…そして言った方は黙ってしまうのだ。この言い方は話し合いにおける禁じ手だと思う。分からない側は分からないところが何かを伝えることが大切で、分からないと言われた側は、相手が理解するまで根気よく説明することが大切に違いない。 世の中…こんな簡単な話し合いの常識が通じないことが多い。相手が分からん奴だと思って喧嘩し、裁判し、戦争まで引き起こす。 私は分からんことは分からんと言うが、“何を言っているのか訳が分からん!”だけは言わずにおこうと思う。 相手の言い分をしっかり理解して、自分の主張を展開できる人間を目指したい。 |
昨日午後1時から他団体との4人だけの小さな会議があった。私は遅れそうなのでメールでその旨連絡を入れ、1時15分頃に会議場所に到着した。てっきり始まっていると思ったら、メンバーの一人が見知らぬ男女と話をしていた。彼は私に気が付き、残りの二人は遅れるので揃ったら電話すると言われ、私は時間潰しに外に出た。連絡があったのが1時40分…。心のなかで、だったら1時30分の約束でいいじゃないか…40分も遅れるなんて考えられん…と、愚痴が飛び出た。 会議がはじまり、一番若いメンバーのプレゼンが始まった。話を聞きながら長老の一人が、なにかあるごとに、いちいち話を中断させ、自分の過去の経験とか、思いつきの話をはじめるものだから、私は“ともかく、話を全部聞いたらどうですか。”と注意した。 私の経験から、他人の話を途中で遮って自分の話をはじめる人は理解力に欠ける。全ての話を聞いたあとで要点を2点くらいに絞って質問するくらいでないと、発表者の真意を掴めない。 私は、自分が他人に比べ理解力に劣るところがあると思うから、相手の言うことを理解しようと努力するのである。 こんな人達だから、平気で集合時間に40分も遅れてしまうのだ。 案の定、夜なかに若いメンバーから、話があるから時間をとってほしいとfacebookで連絡してきた。 彼の期待を裏切らないように7月1日…出会いたいと思う。 |
他人が自分と同じ感覚で物事を捉えていない…と、言うことを思い知ったのは、今から18年前のことだ。多くの人に制作意図を分かってもらえると信じ作成した本が、一般には評価されなかった。 その時から、自分にとって面白いということ…美しいということ…憧れることが他人とは違うということを知った。 そして先日、その時の本が、ある感度の高い人達から今、高い評価を受けていることを知った。 私のその時の本作りは、初期段階で失敗していた。感度の高い人達にターゲットを絞り、その人達の興味をひく表紙の帯を作成して、適当な流通販路をとっていたら、結果は違っただろう。 だから今は、編集・販路に詳しいプロに関わってもらうことは大切だと思う。 物作りには、自分の感覚や思いに対する絶対的な信念が必要だ。そのうえで、自分のことを理解できる人に、効果的な接触ができるかが問題だ。決して不特定多数の人達に分からせようと思わないほうがいい。 さて、今作成中の本に、この教訓がうまく活かされるかどうか? いや、活かしていかなければいけないと強く思う。 |
昨日は、最近会っていない二人の先生から連絡があった。一人は1年前まで週に一回は通っていた整骨整体の若い先生…いまでも治療院に通っている知人から、先生が私に顔を出してほしいと言っていたと聞いた。 もう一人はギターの先生…昨年の12月から教室を訪ねていない。“しばらく会っていないが、自分はその間進化を続け、自分がなにものかが分かった。生徒としてではなく、話し相手として近いうちに寄ってくれないか?”と言うものだった。 ギターの先生とは、レッスンそこのけで自分の考えている世界感を話し合ったものだ。近いうちに伺うと返信した。 整骨整体の揉みほぐす治療は、今通っている体に触れないカイロプラクティックの先生から止められている。忙しい治療院に、ただ話をするだけには行けない。先生もそれは望んでいないだろう。 従って私はギターの先生だけを訪ねることになる。自分が何者だと分かったかをとくと聞かせていただこう。 私を必要とする人、私を覚えてくれる人がいたことを感謝したい。 |
自分の生き方の理想としては、甘い考えをもった人達と一気に縁を切ってしまいたいと思うのだが、現実にはそれが上手くできずに生きてきた。 世話になった…助けてもらった人から、その後甘えられることがよくあり、煩わしくなって離れたいと思うことがあるけれど、それでも私は一方的に縁切りするのではなく、時間をかけてゆっくりと距離をとる。 そんな時には、私が手を差し伸べなければ生きていけない…と言う感じのウルウルした目で見つめてくるけれど、ある時私は気が付いた。私ごときが自分に甘い人達の生死を左右することなどありゃしない…と…。 私がいなくても、みんななんとかなるんだ。私の隙を見て甘えて来る人にはもっと厳しくないといけない。 などと、いつも言い聞かせる。 そうしないと、私の甘さが首をもたげてしまう。 でも本当に苦しくてどうしようもない人には、手を差し伸べないとね。 それは、見極めたいね…。 |
ギターの4日ほど前にギターの弦が切れ、その間…弾かなかった。以前はギターの先生が、自分が2週間ほど使用した弦を私にまわしてくれていたから弦を買うことがなかったのだが、昨年末にギター教室に行かなくなってから、張り替えては徐々に短くなっていく弦の寿命をだましだまし延ばしてきたが、それも限界がやってきて、今朝町のギターショップに新しい弦を買いに行った。10時頃に店の前に着くと重たい木の扉が閉まっていて10時半開店の表示が目に付いた。仕方がなくオープンまでの間、時間つぶしで周囲を徘徊してみた。 まだ時間が早くて人出がなかったせいもあるが、一昔前には若者に人気だったこの街の当時の活気は消えていた。有名イタリアンレストランはいつの間にかディスカウントの酒屋に変わっていた。一時若者の街づくりのきっかけを作った雑貨屋は、オープン前なのか店じまいしたのか分からない。両開きの扉にはチェーンが巻いてあり店構えが悲しいくらい寂れて見えた。会社の近くにあったブティックがこの近くに引っ越したと聞いていた。すると歩いていて偶然、その店名の店を見つけた。開店前の誰もいない店を外から眺めたら以前の店構えのほうがずっと良かったのでがっかりした。 世の中変化している。ずっと同じものはなにもない。少なくとも今日私が感じた分は、私も変化しているのだと思う。 ギター教室も、スポーツクラブにも最近行っていない。 私は、これからどう変化していくのだろう? |
昨日夜に会議があり、その前に腹ごしらえをしようと、昼にしか入ったことのないうどん屋に行った。この店は“町のうどん屋”としては少し高めの価格設定なのだが主人のこだわりがあり、どれを食べても美味い。 昨夕食事前に、何を考えたか…私は“これがこの世での最後のご飯だ!”と、自分に言い聞かせた。 すると…素材の味が今までより一段とよく感じることができ、美味しく思った。 死刑囚が、執行前に自分の好物を食べさせてもらう…と聞くが、彼らはどれだけそれを美味しく思うだろうか?それとも、それどころではないのだろうか? 普段、自分に食事に対する感謝の気持ちが欠けていたと思った。 最後の食事と思って食べることは、“有難いという感謝の気持ち”を呼び覚ます。 感謝が、いかに食事を美味しくするかと思うと、感謝の気持ちが大切だと説いて回る人の気持ちが分かるように思った。感謝は、心を豊かにするエキスに違いない。 最近やっていなかったが、これから食事の前に手を合わせることにしようと思う。 |