“勢い”の意味 ・ 他を圧倒する力。 ・ 社会を支配する力。 ・ 自然の活動力。 ・ 盛んな意気。元気。 ・ 物事が動くときに加わる速さや強さ。 ・ 余勢。もののはずみ。なりゆき。 とある。 生きていくうえで、“勢い”は大切だと思う。 考えないのも良くないが、あまり考え過ぎると勢いは低下する。 直感を信じるということは、勢いを感じるという事だろうか…。 自分に勢いがない時には、誰かの勢いに巻き込まれてもいいものだろうか…。 私は勢いで結婚したが、離婚した。後悔はない。今は幸せだ。 最近自分に“勢い”がないのが分かる。 考えすぎているわけではないのだが、動けない。 少しあせり気味…。 心が満たされていると“勢い”はなくなるのだろうか。 私には、まだ“勢い”がコントロールできない。 そう思うと、満たされていない自分が見えてきた。 今日は昼から“勢い”にのってみたい。 |
学生の頃、アルバイト先の飲食店の顧客が酒を飲んで私に腕相撲を挑んできた。定年退職前の、もう若くはない男性だが、腕相撲で今まで負けたことがないと自信をもっていて、同じように私も負けたことがなかったものだからお互い真剣に力を出し切った。勝負がつかずに動かなくなったものだから、私のほうから“引き分けにしましょう。”と声をかけ、グリップをほどいてしばらく経過したが、若くない男性の息は荒かった。 後で同じアルバイトの友人が“どうして負けてあげないんだい。相手は年寄りのお客さんだし、酒を飲んでるし…心臓麻痺で死んだらどうするんだい。”と、私に悟した。 私はハッとして、友人が大人に思え、自分が周囲の見えない子供に思えた。 今年の元旦、ラグビーを趣味とする今でも筋トレしている34才の甥から腕相撲を挑まれた。力が均衡して動かなくなった。私は“体に悪いからもうダメ。やっぱり強いは…負けた。”と、途中で止めた。 私は年上なんだから、負けてくれればいいのに…と思った。 そして、そんな風に思った自分が、やけに年寄り臭く感じた。 |
私が6年ほど前に“大動脈解離”という病気が発症したとき、救急車で運ばれた病院で正しい病名が診断されず、どことは言えない体の内側から突き上げてくる痛みを感じつつ、痛み止めを投与されながら病室に一人寝かされていたことを、ふと思いだした。 眠ることのできない痛みでじっとしておれず、体をよじり、目を見開いて天井や壁を見つめていた。 あの時、自分がはじめて経験する強い痛みを感じている時、世の中には今自分が感じている痛みより、もっと激しい痛みがあり、例えば死につながる痛みというものがあって、その痛みに比べれば自分が感じている痛みは、まだましに違いないと思った。 後日病名が判明した時、その時自分が死にかけていたことを知らされた。 あの時にあの痛みを知ったから、人生にそれ以上の痛みがあることを理解できるようになった。 あの時以来、生きるということが、肉体を通して感覚、感情を経験することだと知った。 私が入院した時に、全く同じ病気だと診断された私よりずっと年上の知人がいる。彼は解離の始まりの部位が心臓から離れていたので手術をしなかった。今では私以上に無理ができない体だ。彼は昨年前立腺癌の手術を受けた。 昨日、彼と久しぶりに病気の話をした。 彼にとって“死”は身近な存在のように思う。そして“死”を怯えている。だから私の理解する“死”について話した。すると、楽になったと彼は言った。 自分のなかに、“死”を経験しようとするものが存在していることを、認めるかどうか…。 そしてその存在を自分と認識できるかどうか…・ 生きるということは、“すべてを肉体を通して経験すること…。”だと私は理解している。 知人は、私にそのことを他人に話し広めるように勧めた。 しかし、私はそれが私のなすべきことだとは思えない。 しかし、あなたにだけは、話しておこうと思った。 |
私には、長年悩まされている首の痛みがあって、整形外科でレントゲン撮影して診断を受けたところ、第6と第7頸椎の後部に年齢が増すことで生じる突起ができ、可動部を狭くし圧迫によって起こる痛みだと説明を受けた。これが私の受けた痛みに対する唯一の医学的診断である。だが、その医者は“心配するほどのことはいが、同時に治す方法もない。”と言った。 心配することはないのは結構だが、痛みがあるのに治す方法がないのは辛い。 そのため、自分なりにストレッチしたり、首の筋肉をつけるトレーニングをしたり、いろいろ試してみるがいっこうに良くならない。整骨院に通ってはいるが治療後の数時間しか効果がない。カイロプラクテイックに行って“コキッ”と骨と骨の間の癒着を剥がしてもらうとしばらく楽になるが、それでも2~3日するとまた悪くなるという塩梅だ。 3日前にある人から、首に巻く専用カイロを勧められ、早速薬局でもとめて試してみると、思ったより改善の効果がみられ、マイブームになっている。 結局血のめぐりを良くする効果なのだろう。体を温めることが体調管理のために大切なんだと気が付いた。 普段シャワーしかしないのだが、これからは風呂でゆっくり体を温めよう…。 温泉にも、もっと行ってみようと思った。 |
ワープロの時代からP.C.が普及しはじめたころ、当時のP.C.は情報を入手し、文書を作成し、表計算し、ホームページを作って情報を発信し、メールをやりとりし、専門のソフトをダウンロードしてポスターのデザインを行い、設計図を書き、絵を描き…一台でなんでもできる万能ツールだった時代があった。 その頃、どうしてパソコンでテレビを観ることができないのだろう?と疑問を持った。 そのうちに、テレビを観ることのできるP.C.ができ、携帯電話が普及し、電話にカメラがついて、テレビも観ることのできるようになり、今ではパソコンに電話ついているというスマートフォンの時代になりつつある。 P.C.は、明らかに何でもできる便利ツールから情報入手及び伝達と文書及びデザイン作成関連とが分離し、専門性をもった機能が重視されるようになってきたように思う。 いったい誰が、この進化をコントロールしているのだろうか? 家電メーカーか、C.I.A.か、宇宙人か、やはり神か… その人たちは、どこまで人類の未来をみているのだろう? 家電の新製品見本市のニュースで、パソコンにテレビがついた製品(スマートフォンがでかくなって電話がついていない機種)がこれからの主流であると聞いて、ふと考えた。 |
“トレカ”をご存じですか? 以前から描きかけては、気乗りせず描けずにいたイラストを、昨日中に完成させようと二日前から根を詰めて一気に描き上げ、本日午前中に仮納品(これからも手直しはする予定)したもので、ほっと一息ついたから、午後から繁華街を散策した。 駅近くの商業施設にお宅っぽい人たちが集まるフロアーがある。今まで横目で通り過ぎるだけのショップの中に入って、どんなものが置いてあるか見学してみた。 フィギュアの店や、店員がメイドのコスプレをしている服屋とかは、テレビのニュースとかでみて、なんとなくわかるところだが、普通のCDショップかと思ったらアニメソングの専門店であったり、種々様々なデザインされたカードが何列ものショーケースにぎっしり並べられた店があるのには驚いた。カードには其々に結構高価な価格表示があり、平日昼間だと言うのに学校行かなくていいの…と言いたくなる若者やらスーツ姿の人たちが、たむろしている。 いっしょにいた知人の話によると、トレーディングカードと言われるアメリカで生まれ、発達したこのカードは、レアものになると愛好家の間で億単位の金額で取引されているようだ。芸術と言われるものなら画商が値段を釣り上げ高額で売買されることは知るところだが、たかが印刷された厚紙がとんでもない値段で取引されると聞かされ口が開いて塞がらなかった。 私にはカードに価値観を見いだせない。 私自身がまだまだ知らない世界があることを認めよう。 世の中には、趣味嗜好、価値観、美的感覚の異なる人々が周りにはいっぱいいるんだ。 きっと自分が普通だと思わないほうがいいのかも知れない。 周囲の人は、みんなレア…自分自身はもっとレア…そのくらいに思っているほうが無難に違いない。 印刷したカードの価値を膨らませることを思いついた発案者…笑いが止まらんだろうな。 私としてはカードを取引する側より、カードトレードの発案者になりたいと思った午後のひと時であった。 |
偶然にスイッチを入れた正月番組に池上彰の特別番組があって、そのなかの一つのテーマとして世界中で信仰されている宗教の解説があり、エルサレムにある三つの宗教遺跡を実際に彼が訪ねてユダヤ教・イスラム教・キリスト教についての解説をしていた。 昨日、繁華街の散策に飽き、映画を観に行こうと震災以後行ったことのない(地震で取り壊され新しい都市ビルになった)建物にある映画館へ何を観るでもなく足を向け、待たずに観れる映画のチケットを購入し“灼熱の魂”と言う映画を観た。 この映画館は俗にいうハリウッドものはあまり上映しない。わりとマニアックでマイナーな映画コンペティションで賞を獲った作品を上映している。 カナダ・フランス合作の“灼熱の魂”という映画は、パレスチナにおけるキリスト教とイスラム教の間に翻弄されるある家族の数奇な運命を描いた作品だった。全く予想していなかったストーリーであった。 私は、現在“傘”の張地のデザインを手掛けている。そこには星と月と十字架が描かれることになると思う。 私は決して宗教問題に立ち入ろうとしているわけではない。これを機会に宗教を学ぼうとも思わない。 ただ、私が作ることに必要な情報が、むこうから向かってくるのだ。 自分の人生に必要なことは、いつでも自分に向かって流れてきている。それに気が付いて己の手を伸ばすか否か…。それが積み重なって大きな差が生まれる。 私は、躊躇していた“傘”のデザインに今から取り掛かることにした。 |
昨日ある新年会があり参加した。総勢10人のメンバーの一人に一級フレンチレストランのシェフがいて、彼が料理とワインを担当して持ち込んだものだから、おそろしくワインにマッチングした料理が出された。 しかし、ワイン好きの私は一滴もワインを飲まず、自分で用意したアルコール度数0%のノンアルコールビールを飲み続けた。 最近体重が増加傾向にあり血圧が上昇気味のための自己コントロールである。 参加者の一人に医者から絶対禁酒を言われている人がいたのだが、美味い料理と酒を前にして自分のワイングラスにボトルを何度も傾けていた。私が彼に“これがあなたにとって最後の酒になるかもしれないから止めないですね。”と、意味ありげに言うと、苦笑いが返ってきた。 最近、飲まない理由に、“車で帰るから…。”と言えるは有難い。飲酒運転で捕まった時に、酒を勧めた者も罪になるから、みんな勧めてこない。 実は、今日もフレンチでの新年会がある。私は今日も飲まない。今週の金曜日にも会合がある。私はこの日も飲まない。この自分のストイックさ加減が好きである。 昨日の新年会でも、宗教問題が話題に上った。本当に最近、この手の話題が向かってくる。 ロスチャイルドの話になり、日本紙幣の千円札の図柄へと話が移った。富士山の湖に写った山影はパレスチナにある山である…というのだ。そう言われ札をひっくり返してみると確かに富士山とは思えない。陰でユダヤが民主主義国家のすべてを支配していると言うのだ。 皆さんご存知でしたか…。世界を動かしているのは、C.I.A.でも宇宙人でもなく、神でもない。ユダヤが世界をコントロールしていると言う話…。 酒の席の戯言です。 しかし、勉強にはなったけれど大勢いの酒の席で、スポーツの話・政治の話・宗教の話はするなと言われるが、なるほど何人か浮いてしまう人が出てしまうようだ。先人の残した教訓には意味があると思った。 |
“SASUKE”と言うテレビ番組があったことをご存じだろうか。運動能力に自信のある猛者が、幾つもの関門を潜り抜け頂点を目指す企画番組で、国内だけでなくアメリカからもエントリーする選手がいたほど出場者と見る者をエキサイトさせた番組であり、私ももう少し若くて体力があれば参加したいと思ったものだ。 いつもなら、正月番組に組み込まれているはずなのだが、今年はいっこうに番組表に載らない。 先日人づてに、企画会社が倒産したので番組がなくなったと知った。 企画会社がどのような経営状態で継続できなくなったか知るところではないが、毎回楽しみにしていた私は、寂しさを感じる。 まるでバブルのように、はじけて消えた。 そう言えば“K-1”と言う格闘技番組があったが、代表が脱税していた?ことが発覚し、一瞬でテレビ番組から消えた。 “SASUKE”も“K―1”もスポーツではなく、エンターテイメントだったとよく分かった。“相撲”はスポーツではなくて相撲道だが、八百長が発覚しても消滅しない。エンターテイメントは、浮き沈みが激しい。お笑い芸人と同じ扱いだ。 さて、“SASUKE”“K-1”ファンとしては、いつかその復活を望む。まだ消滅していないSASUKEのH.P.を見ながら…そう思った。 それにしても “幸せはいつまでも続かない。辛いこともいつまでも続かない。なにが起こるか分からない。人生なにが起こるか分からない。” |
マダムから、私の顔の血色がいいね!と言われた。 自分で思い当たる節がある。ここ数日、何に対してもやる気が出てきており、今日もある大学から依頼されたモバイルでの実験的動画紹介サイトの構築に参加してもらえそうな知り合いの30件ほどのレストランやらブティックや美術館を一気にまわり、しゃべりまくってきた。 ついこの間まで、やる気のない日々が続いていたが、人物イラストを書き上げ、傘のデザインもでき、私のバイオリズムが上向きになっているのをマダムは感じたのだろう。 こうなればしめたもの…流れに乗って突っ走ろう。 悪い時もあれば、いい時もある…いい時は自分から波に乗り、思い通りにいかないときは、焦らず慌てず流れが変わるのを待つ。 “幸せはいつまでも続かない。辛いこともいつまでも続かない。何が起こるか分からない。人生何が起こるか分からない。” 人生の流れの変化を微妙に感じつつ、自分のペースで生きてきたい。 |