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SOLILOQUY

ひとりごと

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February 29, 2012 15:53:42

宇宙

カテゴリー: 日記
昨日ある若い女性と話す機会があり、調子に乗って、いつも言っている私の人生訓…
“幸せはいつまでも続かない。辛いこともいつまでも続かない。何が起こるか分からない。人生何が起こるか分からない。”を…話した。

彼女は、真剣に聞いているようだったので、少し声を大きくして私は続けた。
“幸せかどうかは、自分自身で幸せだと思うか、そうでないかの違いだけ…同じ人生を歩んでも、感じとり方はそれぞれ違う。自分が自分を幸せだと思っていれば、他人に憐れみを受けても余計なお世話だ。そして他人のことを不幸ととやかく言うこともない。同じ人生を生きるなら、幸福をかみしめて生きたほうが楽しいに違いない。不幸だと思って生きてれば不幸がやってくる。今に幸せを感じることができたら、幸せが向かってくる。この宇宙は心の中で自分が宣言したことを実現する仕組みなんだ。”
彼女は私の話に食らいついてきた。そして質問を投げかけた。
“占いを信じますか?”
私は、されに調子にのって答えた。
“私の分かれた妻がある占いの免許皆伝で、いろいろなことを彼女に頼って占いで決めていた時期があり、彼女に重い負担をかけ、その頃は私自身の主体性がなくなっていたように思う。結局彼女が私から離れていった原因の一つにはその重荷があったのかも知れない。私は占いを信じている。それは私の関わる宇宙は未来と現在と過去が同時に存在していて、過去から現在に移動する点が現在だと信じているからで、そう考えると予言とか占いの類はあって当然だと思う。そのうえで私は占いを必要としない。今の私は、これから起こる全ての幸せも辛いことも受け入れられるし、未来を他人から教えられることを望んでいない。このことについて話始めると時間がかかるから、次の機会にしようか…。”

目を輝かせて聞いてくれた彼女はもっと聞きたそうな素振りをしていたけれど、お互い二度と話をする機会のないことを知りながら笑顔で分かれた。

真剣に話した自分自身に少し照れくささを感じつつ、人の好い親爺らしく彼女の幸せを祈った。
February 28, 2012 14:46:37

偏屈

カテゴリー: 日記
私は、普段自分から“忙しい”と言う言葉を使わないようにしている。
使わないということは、他人に対して“忙しそうですね!”とか“最近、忙しいですか?”と、聞かないということと、他人から最近どお?と聞かれて“忙しくてごめんなさい。”とか“忙しくて大変ですわ。”とか…答えないということだ。

自分自身は、最近のんびり生きていて、本当に日頃忙しいと思わないこともあるが、私にとって日常会話のなかでの“忙しい”は、相手が優先順位が低いということを、やわらく伝える言葉に思えたり、自分にはゆとりがありませんと宣言する言葉に思えてならないからだ。
人は、忙しいと言っても、ご飯を食べるし、眠りもする。本当に興味のあることには時間を割く。人間は自分自身にとって優先順位が高いことはどんなことをしても、実行する生き物だと思う。

本当に寝る時間もなくて働き続け死んでしまうこともあるのだろうが、今は労災の過労死に関わる話をしているのではない。これは日常会話の話…。

生きていく中で、“忙しい”と言う感覚を自分自身のなかに持つことは悲しいことだと思う。どんな状態でも心のなかにゆとりをもって生きていたい。
そのために私は、自分の内側から“忙しい”という言葉を抹消するという小さな抵抗をしているのかも知れんな…。

これは、偏屈親爺の考えかもしれんな…。
February 27, 2012 13:40:34

待人

カテゴリー: 日記
TUTAYAで“HACHI”を借りた。主人の死を理解できない秋田犬が駅で帰りを待ち続ける…要するに渋谷のハチ公の話のアメリカ版リメイクだ。
リチャード・ギアもワンちゃんもなかなか良い雰囲気を出していて、封切り時の批評はあまり良くなかったのだが、なかなかのものだった。最近はCGを、はでに使わないとヒットしないんだろうか…。

待ち人と言うと、最近は携帯の普及で、ほんの少しのすれ違いで出会えなかった…なんていうストリーは成立しなくなったように思う。携帯電話やポケベルの無かった我々の若い時は、待ち人がどうなってるのか分からないまま、好きな人を待ち続けることがあったけれど、今では考えられない。

戦後(太平洋戦争)にヒットした“君の名は”なんて邦画があって…氏家真知子と後宮春樹のすれ違いの連続というラブストリーだったらしいが、この物語はさすがに現代の都会においてリメイクは成立しない。

いつでも連絡が取りあえる世の中になったようだが、携帯電話やメールの力を借りずに、待ち合わせすることも、情緒があって楽しいかもしれないなぁー。なんて思いながら久しぶりに初恋の思い出に浸ってしまった。

もしあなたが、短気でなければ、次回誰かとの待ち合わせには、お互い携帯電話を持たずに出かけてみてはいかがだろう。
February 26, 2012 11:52:49

隣席

カテゴリー: 日記
20才代の前半に、ロサンゼルスのディズニーランドに行った。アメリカ一周の旅を終え、帰りの飛行機の予約をコンファームし、ほっと一息つき、旅の思い出に憧れの夢の国を訪ねてみようと思ったのだ。

その時、一人旅の私には一緒に行ってくれる知人もなく、もちろん一人でゲートをくぐった。

潜水艦・お化けのキャスパーの館・スペースマウンテン…今でもその時、心臓の高鳴った記憶が鮮明に思い出される。同時にどのアトラクションでも私の隣の席が空いていた寂しさも思い出す。

その時の心の隙間を埋めようと、日本にディズニーランドが出来た時、好きな人といっしょに行きたいと願った私であるが…まだ一度も訪れていない。

先ほど、友人から、ディズニーランドのなかにある大きな地球のモニュメントの前で首をかしげて微笑む友人の姪の写真が送られてきた。

私の年でも、子供の頃に戻って楽しめそうな気がした。
今年こそは、長年の思いを果たしてみようか…
さて私の隣の席には誰が座ってくれるだろう…
February 25, 2012 10:52:07

菓子

カテゴリー: 日記
他の町のケーキ屋はどうか分からないが、洋菓子の町と言われる私の町では、修行して独立開業する場合、親方の商圏内では商売ができない不文律があり、この掟を破ると仕入れ業者に圧力がかかり食材を回してもらえなくなって営業できなくされることがあるらしい。

数年前にあるケーキ屋に勤めていて国際的な菓子コンクールで金賞をとった職人が独立した時、その場所はまわりに何もない田舎の住宅地の真ん中であった。それでも口コミで客足はどんどんと伸び、オープン前の1時間前から、いつも他府県ナンバーの車が列を作るようになった。

私もどんな様子か実体験したく、噂のロールケーキを買いに行ったことがあったが、平日だと言うのにやはり2時間並ばされ、気の短い私は、数時間並んでまで買うほどの味ではないと実感し、二度と来るものかと思って帰ったものだ。

ただ、ロールケーキ売り場の横に、こじんまりとしたやはりロールケーキ屋のチョコレートショップがあり、誰も客のいない店内に並べられたチョコ―レートは、実に美しく、もとめてみれば味もよく…どうしてここに人が並ばないのか不思議に思ったことを覚えている。

昨年、ロールケーキ屋の主人がフランスのチョコレート菓子コンテストで、初出品で金賞をとった。
今年のバレンタインデーでは、大阪の百貨店でも飛ぶように売れたと聞く。
きっと山のなかの、あの客の気配のなかったショップも今では様変わりしていることだろう。

日本人は、ブランドとか、なんとかコンクールで金賞をとった…とかに、滅法弱い。

主観のない国民だと…服やバッグの世界だけでなく、お菓子の売れ行きをみてもそう思う。
February 24, 2012 14:51:23

硬直

カテゴリー: 日記
最近朝起きると、起き上がって動き始める時、体全体に軽い痛みを覚える。体が硬くなっていると感じる。若い時にはなかった感覚だ。

死に近づいてくると体が硬直する準備を始めるのだろうか…。


そこで、以前よりストレッチを入念にするようになった。体の筋が伸びきる時に、やはり痛みを感じるが、この痛みは心地良い。そして緊張を緩めると苦痛の余韻のなかで、生きててよかったと言う幸せを実感する。
私の日記を読んでおられる方は、おそらく、まだお若いだろうから、どんな類の幸せかお分かりにならないと思うが、年をとって経験を重ねると、ちょっとした刺激に幸福を感じるようになる。

そして私は、皆がそう感じられる人生を歩むべきだと思う。

私は、ストレッチの後に腹筋、背筋、側筋を首の筋肉を意識して鍛えている。
医学的、理学的に人間の体のことは専門ではないから、正しい考えかどうか分からないが、人間には力や瞬発力の筋肉と同じに普段意識しないけれど、姿勢を維持するために必要な筋力があり、これが衰えると重い頭部を支えられず、背骨が湾曲を始めるイメージを持っている。そのために体幹を鍛えておく必要があると思うのだ。

医学や介護、そして食べ物の進歩のおかげで、長生きするようになった人類が、寝たきりの人生を送らなくてすむように、いつまでも自分の足で移動できる生活を送るために、自分の意志で日々のトレーニングを続けることが大切のように思う。

若いあなたも、今のうちから始めておいた方が懸命だ。
ますます、死ねない世の中になってくるのだから…。

…あなたより少し死に近づいた先輩より…
February 23, 2012 18:16:51

姿勢

カテゴリー: 日記
ギターを習い始めた時、先生から演奏前に指の動きを慣らすために数分間行う基礎練習を教えられた。同時にそのときに、「これを毎回続けている生徒は二人だけしかおらんけどね。」と言われたが、その時は軽く受け流していた。
そのうちに何曲か弾けるようになり、自分はプロになるつもりはないという思いもあり基礎練習を飛ばして、ギターを持つと直ぐに曲を弾きはじめるようになった。

先日、教室以外の場所で同じ教室の二人の生徒が基礎練習をしっかり行ってから弾き始める姿を見た。先生が言っていた二人の生徒だと思い当たった。

その二人の姿をみて、最近ギターの練習で、以前のように気持ちが深く入ってけない…なにかもやもやとしていたものが吹っ切れるものがあった。

私は誰に聞かせるわけではなくギターが楽しく演奏できたらいいんだと軽く考えていて、自分の演奏能力が増すにつれ、より高いレベルを求めるようになった自分に気が付いていなかったのだ。

さらに良い演奏をするためには、もう一度基本をしっかり練習しなくてはいけない…と思うと、また練習する意欲が湧いてきた。

いつまで経っても大切なのが基本…初心に帰ることが大切だと思った。
バレりーナも、スケート選手も、バイオリニストも、オペラ歌手も一流はみんなそのことを知っている。

先週から曲を弾きはじめる前に、10分間程度の基礎練習をするようにしている。
February 22, 2012 20:47:07

自然

カテゴリー: 日記
17年前の震災の時、私は埋立地に住んでいて、液状化現象が起こる様をつぶさに見た。建物の基礎のある部分とそれ以外の区画との境に70cmの段差が突然生じた。全く知識のない変化を目の前にすると言葉を失った。

私の住んでいた人工島は、当時陸地と島を結ぶライフラインが、一本の橋だけであったから、ダメージを受けた橋の車道の復旧を待って、毎日往復10kmの道のりを20l入りのポリ容器を抱えて行き来した。
橋の下部を通っていた水道パイプが復旧するまでに半年ほどかかっただろうか…。

ライフラインが1本しかないことに不安を感じていたら、5年ほどたって、新たに海底トンネルがつながった。人類の災害に対する改善能力の素晴らしさを感じながら、私は離婚とともに島を離れた。

先日、思い出の詰まった人工島に、新しくできた病院を見学に行った。
その病院は昨年完成した。最新鋭の設備を誇る病院である。主に一階部分には病院の機能上主要な設備はない。無人運転の高架の交通機関からのアクセスを考え2階に診察室、手術室を備えている。
先ほど、ネットで病院の自家発電設備がどこにあるか調べてみた。さすが東北の津波以降にできた病院である。それらの設備も2階に集中していた。

だがしかし、10m以上の津波が襲ってきたらどうなるんだろう。
そう考えると、日本中の海沿いのほとんど全ての医療機関の予備電力はダウンするに違いない。発電機はほとんど、地階か一階に設置してあるだろうから…。

人類の英知は、とうてい自然の力に太刀打ちできない。
考え及ばないことが、たまに起こることがある。
そんな、たまに…が、自分にも起こることがある。
February 21, 2012 12:36:57

極刑

カテゴリー: 日記
今朝、ニュースで“死刑”の文字が目についた。
極悪人をいつまでも税金を使って生かしておくことがもったいない…という考え方は、ある意味合理的で理解できる。また、極刑を課されることの恐怖を植え付けることで同じ犯罪を阻止しようと言う考え方も、ある意味方法としては理解できる。近親者を殺された親族の怒りも理解できる。

犯罪者の死刑を望む人と、私の罰に対する考え方の違いは…、私にとっての最も重い罰は死刑ではなく、自由を奪い社会から隔離して寿命がつきるまで拘束することだと思っていることだ。

殺人という重罪を犯した犯罪者に、人間が作った法律で、自分は手を下さずに合法的に同じ死をもって贖わせわせることの矛盾をとやかく言うつもりはない。

ただ、私にとって罰における死刑は、犯罪者が受け続けるべき苦悩からの短期間での解放であるようにしか思えない。

私は、決して死刑反対論者ではない。

何故、極刑として“死刑”を望むのか理解できないと言っているだけだ。

一生社会から切り離され、絶対に社会に復帰できずに自由を奪われることを越える苦痛は私にはない。
February 20, 2012 17:17:06

画集

カテゴリー: 日記
アメリカ人画家で、アンドリュー・ワイエス(1917~2009)という作家がいる。私が彼を知ったのは、十代の後半だった。京都国立近代美術館で日本初の展示会があり、大きなインパクトを受けた。
数年後アメリカ周遊の旅に出た時も各地の美術館で彼の作品を探して歩いたものだ。
私は今、はじめてワイエスの作品に出会った頃の彼の年齢に追いついた。

今日の午後、友人と町の空港のカフェに入った。
2年ほど前に一人でそのカフェでお茶を飲んだことがあったが、その時と同じ席に座ることになった。テーブルの横には背の低い木製の本棚があり、そこには以前と同じ数冊の洋書が置かれており、そのなかの一冊であるワイエスの画集を手に取った。

昨秋、磯江毅の展覧会にいっしょに行った友人は、ワイエスのことを知らなかった。私は磯崎毅も山本二三もワイエスの影響を受けていることを知っている。私は、友人にワイエスと他の作家との違いについて熱弁した。

ワイエスは、描きたいと思う対象を描いている。他の作家は上手いと思われる絵を描いている。
作品に向かう姿勢に、大きな違いがある。

友人に話して聞かせた後で、私自身が改めてワイエスの素晴らしさを感じた。

今晩、家に帰って段ボールのなかに仕舞い込んでいる彼の画集を、引っ張り出そうと思う。
若い時の美的感性が、今でも私の血のなかを流れていた。

それが、私なんだと思った…。
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