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SOLILOQUY

ひとりごと

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September 01, 2010 20:17:53

ご縁

カテゴリー: 日記
展示会の会場を探して30歳半ばの女性が訪ねてきた。京都出身の彼女の姉が現在パリ在住…レディースの服飾デザイナーをしているらしく、日本への進出展開の一環としてわが町で展示会を考えているとのことだ。数ヶ月前に東京、銀座で展示会を終え好評を得たらしい…出身地の京都でのお披露目を考えていたのだが、姉は関西初の展示会をわが町に指定してきたらしい。この町にどんな思いがあるのだろう。
作品のコピーを渡され、「都会的なイメージですね。でもわが町よりも京都のほうが似合っているみたい。」と感想を言ったら、「やっぱり、そう思われますか…私たちも京都を大切に思っていて、将来ショップ展開するなら、京都に出したいと言っているんですよ…。」というところから、彼女は「初めて会った人に言うのもなんですが…」と口火を切って、スポンサーをバックにしないで自分たちだけでブランドを育てようとする悩みを話し始めた。いろいろアドバイスしてくれる人が多いようで、彼女たちの心が揺れている様子が伺えた。私は、「継続は力というけれど、継続が力ではないよね…揺ぎ無い信念があっての継続でないとね…自分たちのブランドを信じているなら儲けを考えるよりも、作りたいものを作るべきだと思うよ。そうすれば分かってくれる人が近づいてくるから…」と勝手なことをしゃべっていたら、彼女の目が大きく見開いていった。少し深入りしすぎたように思い、話を切り上げた。

彼女にとって、私は人生の先輩として耳を傾けるに値する人間に映ったかもしれないが、私が彼女の役に立つことは、答えはあなたの内にあるんですよと囁いてあげることだけ…そこのところは、私自身よくわきまえている。
彼女たちが私達の会場を選ぶかどうかは別として、折角出会えたご縁…彼女たちのブランドが日本でも認められることを祈りたい。
September 02, 2010 21:49:24

料理

カテゴリー: 日記
ある人からフランス料理とイタリア料理の違いを聞かれた。ありったけの知識で答えてみた。

昔、コース料理というものは、フランスにもイタリアにもなくて大皿に盛り付けられた料理を中華料理のように取り分けるというスタイルが一般的であったようだ。一人一人の皿で順番に出てきた料理を食べるというスタイルはロシア風を新しもの好きの王侯貴族が取り入れ、今言われるフランス料理の原型となったのではないかと言われている。パリという町は内陸にあるため、産業革命以前には海の幸は食べられる状況になく、また大都会ということで、新鮮な素材が手に入らない環境にあり、野菜も含め、魚肉は加熱して仕上げるのが当たり前・・・だから匂いの強いハーブやそれらを使ったソースが発達した。バターは当初、食用ではなく塗り薬としてイタリアで作られたと言われるが、イタリアでは食材として開花することがなかった。反してフランスでは、ほとんど全ての料理にバターが用いられる。食材そのものの味よりもソースや調理技術が、料理の良し悪しを決めていたフランス料理では、コクをだすためにバターは欠かせない存在となる。新鮮な食材が豊富なイタリアでは、地中海の太陽の光を浴びて育ったオリーブから抽出されたオリーブオイルが料理にかかせない。新鮮な素材はオリーブオイルによってさらに味が引き立てられ、摘みたてのトマトにオリーブオイルをつけて食べるという感覚はまさにイタリア料理の醍醐味と言えよう…。内陸にあり日照時間の短いフランスではトマトは加熱して食べるのが当たり前で、きっとパリ近郊で採れるトマトそのものが加熱して旨みが出る品種なのかも知れない。品種や気候環境によって味の異なるワインも土地柄に合わせて作られてきた。料理の発展にもワインの改良にもお互いが影響しあったに違いない。イタリアワインとフランスワインの違いも、そのあたりにあるに違いない。

移動時間の短縮、世界中の情報の氾濫により、イタリア料理もフランス料理も区別がなくなったと言われる今だからこそ、パスタとピザで区別するのも分かりやすいかも知れない。

あぁーっ しんど・・・疲れた。間違ったことを書いてるかも知れんな…。
その場合は、許してくださいませ。
あやまれと言われれば謝り、訂正いたします。
September 03, 2010 20:00:00

仮面

カテゴリー: 日記
ギターの発表会に、参加することにした。

昨日、レッスンが終わって先生がいつものように、「なにか質問はある?」と言われたので、「発表会にまだエントリーできますか?」と聞いてみたら、「勿論大丈夫だけど、どうしたん・・・」と言われたので、「あれから、発表会にお誘いを受けたけど断った・・・とある人に言ったら、せっかく先生から言われてお断りするなんて失礼じゃーない??お稽古事は発表会に出たら上手くなるもんですよ・・・と言われまして・・・」すると即座に「それ誰?」と聞かれ、マダムの説明をするのがやっかいに思い、口篭っていると、「まぁーええけど。」

私は続けて
「発表会は誰も聴いてないでしょ・・・身内の演奏以外は・・・今回は誰も呼ぶつもりないし・・・自分のためだけに演奏すればいいと思ったんです。それで、お願いがあるんですが、順番はトップで行かせてもらえますか?」
「新しい人が先になるんだけど、えーっと、参加者で一番新しい生徒さんはあなただから・・・一番やね。大人は、みんな一番最初はいやがるんやけどね・・・」
「早いこと終わったほうが、後が楽でしょ・・・」
「そうそう、後になるほどみんな上がるのよね・・・教室で一番上手い弟子は女の子やけどね。上手いのに彼女はいつも発表会の時はめちゃくちゃ緊張してね・・・それが見ものなのよ。自分の番が終わらんと他人の演奏聴かれへんしね・・・。早いこと終わったほうが正解やね・・・。」
「もう一つお願いがあるんですが・・・、演奏中に仮面をつけて弾いてもいいですか?オペラ座の怪人のような・・・自分と違う人格になったら上がらないでしょ・・・。」
「エっ、エーっ、エエけどね。いままでにサングラスかけて演奏した子はおるけど・・・」

このように全ての希望が叶い・・・、参加することにした。
一ヶ月間、家に帰ってから、力を入れて練習しようと思う。
September 04, 2010 20:21:36

緩弧

カテゴリー: 日記
自然界に直線がどれだけあるか考えてみた。雪の結晶の一片・真っ暗な洞窟に差し込む陽の光・鉱物の断面の一部・屋久杉?・竹?その程度・・・なかなか思いつかない。でもそれらは本当に直線なのだろうか?本当はいっぱいあるのに無知な私が見つけられないだけなのだろうか・・・。
私たちが住んでいる人工的なこの世界では直線が溢れている(屋根・柱・手摺り・扉や窓・机・ノート・鉛筆・・・・直線だらけ)のに、自然界には数えるくらいしか思い当たらない。直線は現代人が作り出したものかも知れない。現代人は周りのものが直線であることが都合よくて、曲がったものでも真っ直ぐにしてしまう。例えばキュウリみたいに・・・??。マンションなんて直線でできた箱の積み重ねでできているようなものだ。これだけわたし達の周りに直線が多い理由は、積み重ねたり、しまいこんだり、分けたりするのに便利だからかな?自分の体のなかに直線があるか考えてみた・・・背骨・・・でも、よく見ると、それはS字…、やっぱり私のなかに直線は見当たらない。
ガウディのサクラダファミリアは直線を極力抑えて、数え切れない曲線で構成されているように思う。こんな曲線の巨大構造物は他に思い当たらない。彼は地中海の海・空・山などの自然界と調和する造形物を作ろうとしたに違いない。やっぱり自然界には直線は、ほとんど存在していないのだと思う。デッサンを、はやくうまく仕上げる極意は、曲線で描くこと・・・複数の間接の繋がりによって動きをつくる人間には定規を使わず直線を描くことは至難の業に違いない。優れた楽器演奏者も滑らかな体の動きが作り出すストロークで人の心に響く音色を奏で出す。直線なんて、自然界に存在しないのではないだろうか・・・直線は不自然を生み出す幻想ではないだろうか・・・

私のこれからの人生では、緩やかな弧をイメージしてみたい。障害なく人生を歩む人なんて、いるわけないし、少なくともその人にはその人なりの苦難や壁が常に目の前に現れてくる。私たちの世界がそういうものだと思った私は、目標に向かって一直線で突き進むなんて無理、緩やかな円を描き、弧を重ね、それらを繋いで目標に向かえば良いのだと気がついた。どんな人も一直線には進めない。それが自然…

あなたも、ゆったりした弧を描く生き方をイメージしてみてはいかがですか・・・
September 05, 2010 22:25:00

渋滞

カテゴリー: 日記
朝から、京都府綾部に行った。我が町に本社がある会社の毎年恒例の工場イベント(讃岐市・我が町・綾部市)の最後を飾る昼のイベントだ。綾部には思い出がある。私が社会人のスタートを切った町…学校卒業後に入社した会社の創業地が綾部だった。この町で入社式を迎え、2週間の研修を受けた。以後宮津、福知山と3ヶ月の研修の後、大阪本社に配属となった。昨年4月、7年振りの宮津への一泊旅行の途中、なんと30数年振りで本社を見たくて…入り口の前に立ち(中に入ったのではない。外から)私に組織人としての基本を授けてくれた素晴らしい会社に心の中で手を合わせた。私は、今でもこの会社で社会人としてのスタートを切れたことに感謝している。
今日は、違う会社のイベントの話だった。無料化実験している舞鶴自動車道を降り、綾部駅に向かう途中…、由良川を渡ってすぐに左に折れ、川沿いに走って山陽本線の山家駅の横を抜けたところの川原で秋のイベントは催された。この陽射しのなかの川原である。これは秋のイベントではない。同じ京都のどこかの町では39度を超えていたと後で聞いた。おそらく参加者の9割以上の人が「どうして、夏日の昼にイベントするんだ?」と思っていたに違いない。七夕祭りと同じ愚痴をこぼしそうなので、このイベントの話はもう止める。
イベントは、予定より15分遅れて終了した。機材を撤収して帰路についた。音響の先生の車は1996年制のボルボ…古い。クーラーは動いているのに息苦しい。何も言わずに助手席に座っていたが、吉川JCTの手前の電光掲示で、“吉川・宝塚間16km事故渋滞”の表示…中国縦貫道に乗り入れたら、人が歩くくらいの速度でしか進まない。息苦しい。社外温度を確かめたら夕方だと言うのに35度…。息苦しい。窓を少し空かしてみれば、なんと外気のほうが涼しい。それから炎天下の国道を、窓を全開にして走り続け、結局予定の2倍の3時間をかけてわが町に辿りついた。  だからー…今日は何の話やろ…

今ではどんな車でもクーラーの標準装備は当たり前だが、私の子供の頃の車にはクーラーは無かった。みんな暑くても窓を開けて走っていたんだ。残念ながら、みなさん…、今日は私が暑かったという話ではない。やせ我慢ではない…それなりに腐らず帰って来たという話だ。

私は、今日…心頭滅却していたのかもしれない… … …
September 06, 2010 20:23:30

献血

カテゴリー: 日記
私には以前、変な“癖(ヘキ)”があった。自分自身では普通なのだが、人からみるとやはり変だと思う。それは“献血癖”で・・・、町を歩いていて、ライオンズクラブかJCの若い人たちが“現在AB型血液不足”(そう私はAB型である)というプラカードを掲げ、力なく叫んでいる姿を見ると無性に献血したくなるという癖だ。血圧が高かったので献血すれば圧も下がるのではないかと言う、体調を考えてのこじつけ的理由もあったのだが、本当のところやはり“癖”であったように思う。それが平成13年10月から一度もなくなった。それまでは、日本赤十字社から銀バッジ・金バッジ・おまけに楯までもらうぐらいの献血マニアだったのに・・・、癖を封じ込めた理由は、その間に極端に忙しくなり体調を崩して手術をし・・・以後血圧降下剤とワーファリン(血液をさらさらにして血栓ができにくくする薬)を服用するようになり、薬まみれの私の血液が他人の体に入るなんて絶対に許されないだろうと思いこんだからである。先日主治医に、「私は献血できないでしょ・・・?」とダメもとで尋ねた。すると「いやぁー、もしかしたらできるかも知れませんよ・・・以前より基準が緩くなっているみたいだから・・・いっぺん聞いてみたらどうですか・・・」と言われたものだから、今日仕事で町へ出たついでに献血ルームを訪ね、もしやと思い、聞いてみたら・・・「ダメです。」と即答・・・

よく分かった。私はどんなに体調が良くても、やはりもう一人前の体ではないのだ。私の体は、もう他人の役にはたたないのだろうか・・・と思いながら、健康保険被保険者証の裏にある臓器提供同意欄にサインした。帰って話をしておかねば…。
September 07, 2010 21:27:29

挨拶

カテゴリー: 日記
朝、ゆっくりしていて散歩の時間が遅くなると、小学校の登校時間と重なる時がある。横断歩道で子供たちの安全を見守って誘導しているボランティアのおじさんは子供たちに親しげに声をかける・・・「おはよう。拡がらないように行けよ・・・」おじさんに向かって歩いていくと、私のほうから挨拶しようかどうか悩む。おじさんは目を逸らす。思い切って大きめの声で「おはようございます。」おじさんも、慌てて「あっ、おはようございます。」…
近くにある行きつけのコンビニに入ったら、「こんにちは・・・」最近は「いらっしゃいませ・・・」ではなく「こんにちは・・・」になったみたい。コンビニが普及し始めた頃のセールスポイントは・・・確か“長い時間開いている”“欲しいものがある”“対面接客の煩わしさがない”の三つだったと記憶しているが・・・最近は、お客様とのコミュニケーションを考えるようになったみたい・・・私は「こんにちは・・・」と言われるから、彼らより大きな声で「こんにちは・・・」と、いつも言う。すると彼らは、心なしか元気が良くなって、嬉しそうで、笑顔が浮かぶような気がする。いっぱい挨拶の言葉を交わしているのに、彼らは人との交わりに飢えているように思う。
私は、TSUTAYAによく行く。清算が終わって・・・「来週23日火曜日がご返却日になっております。ありがとうございました。」とスタッフが説明するとき、私は思いっきり彼らの目を見つめて「ありがとう・・・」という時がある。彼らは、なんや・・・このおっさんと心のなかで思いながら、目を逸らしたら怖いことが起こるかのように私の目を見つめる。
挨拶の基本は・・・挨拶されたら挨拶する。人より先に挨拶する。心を込めて挨拶する。挨拶する時には相手の目を見て挨拶する…。
最近、挨拶が軽くなったような気がする。

私は、若いスタッフから、なんや・・・このおっさんと思われる挨拶をするおっさんを演じている。実に可愛げのないおっさんである。
September 08, 2010 21:33:23

引際

カテゴリー: 日記
自分のことを、誰かに見つめていてほしいものだけれど、一度にたくさんの人の前に立つ時には、心構えがほしいな…、いつもと同じように生活していて、ふと周りを見ると沢山の目があると分かれば、一瞬引いてしまう。今がそんな感じ…、この数日で自分が芸能人にはなれないとよく分かった(なれる訳ないけどね…)。私が書いているこのブログは、読んでもらいたい対象があって、息子(彼はまだ読んでないけど…)と、あなた個人にとって、前向きに生きていくための一助となったり、ほっと一息ついてもらえるような束の間の癒しになることと、目指す…物語作成のための作文練習という意味での日々の日課であるわけだから、やはり急に不特定多数の人に見てもらう環境に自分が晒されるとリズムが狂い、今のような文章を書き続けられなくなってしまう…。

私の文章に目に留めていただき、どういう取り扱いかは分からないけど、広い世界に私を引っ張ってくれた方には申し訳なく思いますが、この度はもとの私の世界に戻る事といたしました。二日間の短期間でしたが、未踏の世界に旅をさせていただき、いろいろ言いながらも、どこまでカウントが伸びるかと、心臓の高鳴る経験ができたことは良い思い出とさせていただきます。もう違う世界の方で、このメッセージにも触れる機会はないかも知れませんが、私の今の気持ちを、ここに記しておきたいと思います。

今そして未来に、本文を読んでいただいている全ての方の、幸せを心から祈ります。
     
2010年9月8日

おっさんのひとりごと の おっさん
September 09, 2010 11:32:10

秋風

カテゴリー: 日記
今朝、いつものようにT-シャツを着て散歩に出ようとしたら、涼しくてトレーナーを引っ張り出した。久しぶりの長袖である。空気はひんやりしていて、空を見上げると夏の雲ではない。先日までの地面のすぐ上から、ぐんぐんと高いところまで伸びていくような沸き立つ雲は、今日はない。同じ高さで横にひろがる雲・・・これが秋の雲だったかしら・・・それとも、台風が運んだ束の間の憩い雲? 秋よ来い。秋よ来い。秋よ来い・・・
私の住んでいるところは、山の中の住宅地で平地より2~3度温度が低い。それでも今年の夏は暑かった。近くに建物はあるが、周囲に山が見え、枠どりなしに空を見上げることのできる場所・・・。毎朝空を見上げるが、その時全てのものに感謝し、大きなものと一体になっている感覚を味わう。今日の空は、一層近くにあるように思え、心なしか涼しい風が耳のそばを通ったように感じた。

さて秋は本当にやって来たのだろうか・・・
厳しい夏が過ぎていくことを祈り・・・、秋を待ちわび和歌を詠む。
『秋来ぬと目にはさやかにみえねども風の音にぞおどろかれぬる』
(古今和歌集 藤原敏行)

秋よ来い。秋よ来い・・・
September 10, 2010 21:59:34

未来

カテゴリー: 日記
私は、以前未来都市に住んでいた。海の上にできた人工島…化石燃料を燃やしながら走る公営バスのシステムはなく、公共交通機関は電気で専用レーンを走る乗務員の一人もいない新交通システムと数百メートル続くムービングウォーク…。人工的に盛り土された起伏のある芝生に浄水場から生まれる浄化後の再生水を利用したビオトープのある公園…。私が住んでいた部屋の窓からは、未来的建物の巨大なドーム状の屋根が見え、一方の窓から、夜になるとオレンジ色の煌々とした照明に浮かび上がる眠ることのない巨大クレーン群が見渡せた。この町から離れて8年が経つ。何度か訪れることはあったが、長居をすることはなかった。昨日、仕事の都合で半日滞在することになった。途中5時から9時までフリーな時間をもてたので思い出のいっぱい詰まった町並みを抜け空港島まで歩いてみた。ムービングウォークは閉鎖され、美しかった公園には雑草とゴミが目立ち、全てがくすんでいた。さらに歩いていくと、埋め立て後ずっと空き地だったところに、医療関連施設やスーパーコンピューター開発研究施設の建築途中の新しい未来を見つけた。未来は過去になる。未来は形が現れた時にすでに風化がはじまり、いつしか新しい波に埋もれていく…。同時に、新しい未来が常に産声をあげている…。すべては変化し消え、そしてまた生まれる。
未来都市に住み、そこで夢見た未来は、はかなく消えた。

空港島へ続く橋の上りは苦しかった。1時間あまりかけて辿り着いた。JAL撤退で以前より少し静かになった空港ターミナルビルで一息ついた後、誰も通らない静かな歩道を仕事の待ち合わせ現場のホテルへと歩き始めた。一直線に北へ伸びる橋を渡っていると、真っ暗な海から波の寄せる音が聞こえた。オレンジ色の街灯の下を黙々と歩き続けた。呼吸は荒くなりシャツは汗でびっしょり濡れた。目的地のホテルのバンケットルームに着いたのはちょうど21:00…。

往復12kmの小トリップ…翌朝、普段歩きなれない私の太ももの筋肉痛が昨日起こった現実の証として残っていた。今日、未来都市と呼ばれない場所で、私は新しい未来を目指している。
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