私が始めて絵を習った先生は“小松益喜”という洋画家で、週に一度自宅に通って机の上に置かれた静物を鉛筆デッサンした。陶器の壷やら器やら、金属の置物やらガラスの花瓶やら・・・描いていて楽しくは無かったがひたすら描いた。いつも技術的なことはあまり触れずに、描いた絵の批評だけをいただいたように思う。ある時、私より4歳上の・・・やはり絵の道を志す女性に自分の描いたデッサンを見せたら、「この壷は緑色でしょ・・・ちゃんと分かるよ。」と言われた。鉛筆の単一色でも重ね方で色を伝えるられることを知った。「あなたの描いたコーヒーカップは、横の花瓶と同じ平面に乗ってるわね・・・なかなか難しいのよ・・・同じ平面に乗せるの・・・私より上手いはよ…」私は、平面上で不自然なくモチーフを再現することができると指摘を受け嬉しく思った。これまで絵を描くことにおいて、誰からも技術的なことはあまり教えてもらった記憶がない。それよりも人の絵を見て、批評を聞いて、また他人が描くところを見て、そしてひたすら描いた。アメリカの田舎町“STOCKBRIDGE”を題材にした画文集のための水彩画は、描画技法を自ら探りながら描きあげた。 音楽は少し違うように思う。基礎があるかないかで、上達のスピードが異なるし、限界も異なる。もし上達を表す度合いをグラフにするならば、絵画は新しいなにかを得た段階で階段上に上がっていくが、音楽はもっとなだらかな曲線を描くような気がする。“技術と感情”が“繰返し”を触媒にして綾織のように絡みあって上昇へと向かう。絵画は、加筆を止めた時が完成となる。誰かの手で消却しない限りオリジナル作品として、その状態で永遠(?)の命を授かる。音楽はコピーではなく、オリジナルという点に限って言えば、同じものは一つも存在しない。その時々の技術・環境・健康・感情・精神状態等の多くのファクターは、受け手の状況も含め様々に変化していく。 人の心をうつ音楽というものは、演奏者が音を通して感情表現するために心がける精神状態のコント-ロールと技術向上への精進が他のなにものにも増して不可欠だと思う。一度限りの優れた演奏をおこなうための日々の精進は画家やスポーツマンよりも真剣勝負を求められているのかも知れない。 なんてことを言いながら、発表会にむけて俄かギタリストは日々テクニックを磨いている。感情表現までは、まだ遠い・・・。 |