今日ギター教室に行って、レッスンを受けた後…突然先生から、自分のことを“ギタリスト”と言うのを止めようと思って…と言いながら、先生が次回のコンサートの最中に話をする原稿を見せられた。 そこには“ギターの好きなおっさん”と言う表題の草稿があった。例によってギター界ではアウトサイダー的存在の先生が、いろいろ考え悩んだ末に思いついた呼称だと悟った。先生なりに深い意味があるに違いない。 私ごときに意見をもとめなくてもいいのに…と、思いつつ私の考えを伝えた。 “私が自分のことを、絵の好きなおっさんと言う事はあります。でも、それは自分が絵のプロフェッショナルではないからです。 先生は、音楽を型にはまったものではなく、自由に楽しく演奏し、聞き手も同じように楽しんでもらいたい…と言う気持ちが強いのでしょうが、もしそうであれば言葉で説明するのではなく、演奏を通して感じてもらうことに力を注いだほうが良いのではないでしょうか…? 自分の思いを聴きに来た人達に言葉で伝えようとしても、聞いた人は先生の思いの20%も分からないでしょう。言葉にはならないけれど、先生の演奏を聴いた人達が、ギターという楽器や先生のことを少しだけ好きになって帰ってもらえたら、それで充分ではないでしょうか。” …なんて…また、分かったようなことを言ってしまった。生徒の言う話じゃーないよね…。 その後、次の生徒が来たので後の話はできなかったけれど、先生は私のことをどう思っているのだろう?先生にとってみたら年下の私のほうが、人生経験が深く映っていて、一目置いてくれているのだろうか? たいしたことないのだけどなぁー。あまり苦労していないのだけどなぁー。先生の周りに話を聞いて意見の言える人が少ないんだろうなぁー。 次のレッスンの時には、私からは今日の話の続きは触れないでおこうと思う。 |
2009年11月27日に書いた文章を読み返してみた。 “身もだえする痛み”という意味を辞書で調べてみると、それなりの説明があるのだろうが、実際にそのような痛みを経験したことが無ければ、文字を読んだだけでその痛みを想像することは難しい。ただ何かの拍子にそれに近い感覚を味わったなら、その痛みは頭のなかでイメージ化される。 “身もだえする痛み”のなかには、死にそうなくらいの痛みもあるし、それほどでもない痛みもあるし、本当に死んでしまう痛みもある。ほとんどの人は経験したことのない傷を負ったとき、その痛みがこの世の中で最もつらい痛みのように思うが、死んでしまう痛みに比べればたいしたことはない。 “身もだえする痛み”を今、感じた時、それまで思っていた“痛み”がそれほどの痛みでなかったと思えるものだ。だから自分にとってそのときに最高につらい痛みはあっても、世の中で最もつらい痛みというものはない。 まだ自分の知らない大きな痛みがあることを知り、今その痛みを感じている人がどこかにいることを客観的に理解することが、謙虚に自分が世界の中心に在ると思うために不可欠な要素に違いない。 あなたにとっても、私にとっても、今知る“心の痛み”は、自分に厳しく、人に優しく在るための小さな糧なのだろう。 あれから3年が過ぎた。 いろいろな人に出会ったが、世の中には感じた痛みや感謝の気持ちを忘れてしまう人がどれだけ多いことか… 私は、忘れないでいたい。 |
facebookに自分のプロフィールに好きな言葉を書く欄がある。一言二言書くのが一般人の常識人と言うものだろうが、私は節操なく幾つも書いている。私がここに書いている文章を最初から読んでいる人は、それぞれ好きな理由がお分かりだろうが(そんな人はいないと思う)、まとめて羅列してみる。 ・べっちょない ・人生に夢があるのではなく 夢が人生を作る ・命まではとられんは! ・来る者は拒まず 去る者は追わず ・桃李不言下自成蹊 ・静座観雲起 ・軽妙洒脱 要するに、私の好きな言葉には特に一貫性がなく、思いつきで適当に感動しながら生きていることがお分かりだろう。 一番新しく加わった言葉が“軽妙洒脱”である。出会ったことのない…話したことのない人のプロフィールに出ていた。 辞書には“[名・形動]会話や文章などが、軽やかで洗練されていること。また、そのさま。”と、あった。無知な私の知識には無かったが言葉だが、出会ってみるとシャレていて、親しみが湧いてきた。 私には縁遠いさまであるが、好きな言葉に加えて、これからの生き方の目標にしてみたい。 さて、次はどんな言葉に出会えるだろう。 |
今朝、いつものヘアサロンに行った。この店の特徴はシャンプーの丁寧さにある。初めの1時間…シャンプーに時間をかけてくれる。 マイクロカメラでの頭皮のチェックからはじまる。さっと頭を洗ってから頭皮と髪の毛に栄養剤を与え(若い時に比べると少し薄くなった)、それからやっとシャンプーへと進む。それ以外にも、なにかやってくれているようだ。 この時間…いつもなら、気持ちよくて、うとうと寝ているところだが、今日は眼が冴えていたので、担当の20才後半の女性スタッフに話しかけた。 “人は、見ようとするものしか見えないし、聞こうとするものしか聞こえない。聞こうとすると聞こえないはずの音が聞こえ、見ようとすると、見えないはずのものが見えてくる。この理屈が理解できると…、人生は、自分の思うようにしか進まないし、思えばすべて思い通りになることが分かるようになる。”と、ちょっと賢そうなおじさんを気取って話をした。 “分かるかな?”と、聞いてみた。 “私には、難しくて分かりません。”と、彼女は答えた。 一瞬、続けて説明しようと思ったが、違う話題に切り替えた。 だって、彼女には私の話を聞こうと言う気持ちがないんだもの…。 話す相手を間違えた。“やたら分からんことを言うおじさんやわー。”と、思われるだけだと気が付いた。 これから、しっかり相手を確かめて、話題を決めようと思った。 |
昨日、私が高校生のときに好きで聴いていたジャズアーティストの曲をユーチューブで検索して聴いてみた。世の中の汚い部分を見ることのなかった…あの当時は今より美しい物に敏感だったように思う。 モネの展覧会で、水連の一枚の絵に釘付けになり、目を閉じることができなくて涙がこぼれた。“ビルエヴァンスのアローン”というレコードを聴いて、なんだか分からない感情が体の奥から溢れ出し涙がこぼれた。 技術だけではない…数字や言葉で説明のつかない価値観があの頃、私のなかで、急速に育っていたように思う。 あれから、40年という歳月が流れた。 美しいものにたくさん接して、その奥に潜む醜い部分や、何気ない普通のものに隠れた輝きを発見した。でも、もう涙が流れ出すほどの熱い思いは蘇らない。 何度も繰り返し回し、針が盤を削る雑音の入ったレコードを引っ張りだしてみようと思う。プレーヤーもどこかで手に入れねばならない。 さて、あの当時…私の心を揺さぶった…腹の底から突き上げてくる感激が再び自分のなかに生まれるだろうか…? …そう考えた時点で不可能だと悟った。 |
今日は、いつも暇な私が忙しい。前にも書いたことがあるが忙しいと頭がしびれる。頭の血流が良くなっているからだろうが、この状態が疾患なのか問題ないものなのかよく分からない。いずれにしろ明日になれば、また暇な一日が過ぎていくのだろうから、心配しないで良いと思うが…。 朝から、取引業者にきつめの灸をすえた。なまはんかな注意をしても耳に入らないようだから、今日はとことん追いつめた。 これで、一気に疲れた。 午前中にコーラスの練習をしていた…初めて来たおばさんグループが、突然ランチを食べたいと言い始めたものだから、そこまですることは無いと思いつつ…三っつのレストランに分けて予約してあげ、会場まで案内した。なかなか動かない烏合の衆からさんざん愚痴を言われた。これでまた疲れた。 11月3日に同窓会をする場所を探してくれと兄の友人から電話があり、当日は仏滅だが祭日なのでどこの会場も詰まっているものだから、手あたり次第に知人のレストランに電話して、やっとのこと、受け入れ先を見つけて紹介してあげた。これでまた疲れた。 その他、クレーム処理やらなにやら…。 留めに今日の5時から、契約上の話し合いをすることになっている。 今日やったことを羅列してみたら、契約以外、雑用に追われてあまり生産性のない一日のようだ。 それなのに頭がしびれている。 近いうちに、脳の血管造影のCTでも撮ってもらおう…と、思った。 |
私が、6年前に突然の背中の痛みを覚え入院し、あまりの痛さに数日間眠ることができず、痛みに耐えていた時、世の中には今自分が経験している痛みより、さらに大きな痛みに耐えている人がいるのだと分かった。 経験とは、自分自身の喜怒哀楽の許容量を増してくれるもので、新たな経験をするためのステップだと思うのだが…。 世の中には、経験した自分の痛みを忘れてしまう人がいる。腰の骨が崩れ寝込んでいた人が、手術を行い痛みは残ったものの、まがりなりにも歩けるようになったが、完全回復しないものだから手術が失敗だったと言って回っている。分けあって手術前の説明に本人の隣に立ち会った私は、執刀医が痛みを和らげる手術であり、完治を目指すものではないと、しっかり説明を受けていたのだが…。 どうして、歩けなかった時の苦しみを忘れてしまえるのだろうか?どうして、今歩けることの幸せを噛み締められないのだろうか? そのことを、いくらその人に言っても通じない。 そんな人は、新たな経験が巡ることなく、不平不満をもって人生を終えていくのだろうか…? 今からでも、執刀医への感謝の気持ちをもってほしいと願う。 |
昨日ちょうど新しい車の一ヶ月点検だった。恥しい話…車をコンクリート壁にぶつけた。 いつも通る道ではなく初めて通るナビの指示する道を走行中に(ナビのせいにしてはいけない)、左折の指示があり、その先に直角に曲がるコーナがあった。あまりにも幅員が狭いので一瞬躊躇したが、後ろの車が迫っていることもあり、まぁー行けるか…と判断して、軽くアクセルを踏んだら後部扉付近でバリバリと言うボディが軋む音が聞こえた。 幸いと言うか…、当たったところがコンクリート壁だから警察に届けることもなく、そのまましばらく走って、路肩に寄せて傷跡を確認すると…情けない…なんとも情けない。フレーム上の問題はなさそうだが、ドアは見た目にボコッとへこんでいた。 昨日から頭のなかにモヤがかかったような状態が続いている。扉は修理すれば、元通りになるが…、この私の年で、読みの甘い判断をしたことが悔やまれる。 誰にも怒られることのない立場の私は、この場を借りて自分自身の不注意を悔いる。 経験を積み重ねてきた…歳…相応の悔いのない人生を送ろうと…と深く心に刻む。 二度と事故は起こさない。 |
前回のギターレッスンの時の、先生との会話でのことだった。 先生のアルハンブラの思い出の演奏を聴いて、ベースを弾いた後の最初のトレモロまでに間(溜め)があることに気が付いた私は、そのことを先生に話した。すると…先生は弾いていないトレモロがある…と一言答えた。それを聞いて私ははっとした。言い換えれば、弾いていないのに弾いているように聞こえる音がある…と…。 私が20才代前半の頃、レンブラントの原画をもとめて、欧米の美術館巡りをしたことを思い出した。何枚もの原画と接して、レンブラントの絵画は、描いていないのに描いているように見えることを知った。細かく描かれているように見えた衣装の装飾や宝飾品の表現は、近づいてみると思いもよらず粗いタッチなのだ。それでも描いてあるように見える。 レンブラントは、人がどのように物を見ているか分かっていたに違いない(目が悪かったとも言われるが…)。同じように人は音楽も一音一音をクリアーに聞き分けているわけではなく、音を流れとして聞いているのに違いない。 音を流れとして理解した私は、確実にギターの腕がワンラック上がった。 これから、他人の演奏を聴いた時にも、今まで聞こえなかった音楽が聞こえるに違いない。 これが開眼と言うものだろう…。 |