子どもの頃に、毎回宝くじを買っている近所のおばさんに、10枚の宝くじのなかから1枚選んでいいよ…と言われ選んだら、後日そのくじが100円当たっていた。そうしたら、おばさん100円くれる代わりに、もう一回このなかから選んでいいよ…と言われ、また1枚を手に入れた。 その券が10000円当たっていて現金をもらったと言う忘れられない記憶がある。要するに手に入れた1枚のくじが3回連続して当たっていたことになる。 昨年末に宝くじの販売店で夏のジャンボくじ10枚をみてもらったら、3300円になってもどってきた。そしてそのお金で年末ジャンボを買った。 昨日実家に行き恒例のビンゴ大会で特別賞の3000円の当たりくじ(すでに当たっているくじ)が手に入った。 年末に自分で買った宝くじはまだ確かめていない。 子供の頃を思い出す。大きな当たりが出る前には小さな当たりが続くと言う事実を…。 あの頃は10000円が大金だった。今の私が大金…と言うと1億円だろうか??? そんなことを考えていると、笑いがこみ上げてくる。 |
化粧は人前でするものではない…と、子供の頃に誰かが言っていた記憶があり、電車のなかで化粧する女性を見ると恥ずかしくないのかと感じるようになった。 それでも今では、時代が変わってきたのだから…と納得しているつもりだが、今朝電車のなかで前に座った女性はコンパクトを見ながらマスカラの手入れを丹念にし、一段落したらバッグから菓子パンを取り出し片手で食べ始め、空いているもう片方の手でメールをうち始めた。食べ終ったらすぐにまたルージュを引き、最後にカルピスウォーターを飲んで出て行った。 この様を盗み見て、苛立つ自分が情けないが、女性はこれじゃーあかんと思う。 まるで隙だらけである。女性に対して奥ゆかしさを望むのは私だけではなかろうが、下手に話すとセクハラと言われる時代のなかで、ただただ思いを押し殺すしかないと、他に注意を移そうとする自分がいた。 |
学生の頃、単位がとりやすいからと履修した哲学の授業…有名な教授だったけれど名前は覚えていない。その当時の講義の内容は全くと言っていいほど覚えていないが、唯一記憶する言葉がある。 “電車に乗った時に、新聞や小説を読むことは、世の中の状況を知るための貴重な時間を無駄にするようなものだ。電車のなかから見える季節、町ごとに変化する建物、時代を映す看板、女性の服の色やヘアスタイル…世の中の情報がいっぱいあるのだから、下を向いて文字なんか読まずに、ボーっと周囲を眺めていればいい…。” この言葉だけは鮮明に覚えている。 先生はもう亡くなってしまっただろうが、現代の電車に乗ったら何をおっしゃるだろう。 遠い国の景色や出来事、今まで知り得なかった学問に関しては多くの情報が入るようになったけれど、本来自然に感じていた周囲の変化には、みんな鈍感になってきたのではなかろうか? そんなことを考えながら、今朝も六甲の山並みを見ながら会社に向かった。 元旦から休みなく出勤している、貧乏性な私だ。 |
今日は、息子の犬の手術の日である。 一人っ子で寂しかろうと思い16年前…弟のように寄り添うことを願い買い与えたトイ・プードルであるが、もう人間の年齢だと80才は越えているのだろうか? 歯垢がひろがり歯茎の奥に膿をもってしまった。場合によっては全部の歯を抜いてしまう可能性もあるらしく、少なからず顔つきも変わるようだ。 既に手術が終わっているように思う。 朝から息子が病院に連れて行き傍にいる。夕方麻酔が醒めた頃に、私も病院に迎えにいくつもりだ。 人間も犬も老いても長生できるようになったことに感謝したい。 ただ、私は他人の助けを借りての長生きは望まない。 それより、生まれ変わって新しい人生を歩みたいと思うのだ。 犬の無事を祈りつつ、愛犬の長寿を心から願う。 |
毎年私のもとに届く年賀状のなかに、学校を卒業し初めて勤めた会社で、研修期間中に2週間だけ生活を共にした男からのものがある。 彼とはその後職種が異なり一度も会う事なく、私はその会社を3年で辞めてしまったから、かれこれ25年以上会わずにいる。 それでも彼からの年賀状は、毎年必ず届いた。記憶するだけでドイツ駐在が2回、アメリカ駐在が1回、東南アジアが2回…ほとんど海外からの便りだった。 賀状には必ず子供達の写真が添えられ、会わないのに家族にも親しみを感じる同期?なのだ。 今年、彼へ送った便りが返送されてきた。彼からの便りも届かない。 どうしたのだろう? 日本の家は手放したのだろうか?今年も異国の空の下で新年を迎えたのだろうか?それより…彼の身になにかあったのではなかろうか? いろんな思いが頭の片隅をよぎる。 長い間、会わない若いままの同期の姿が鮮明に目に浮かぶ。 できれば、一度会いたいものだ…と、空を見上げた。 |
時間のありあまる人生と、足らない人生と…どっちが楽しいかな? 時間のありあまる人生と、足らない人生と…どっちが有意義かな? 時間のありあまる人生と、足らない人生と…どっちの人生を選ぼうか? 時間のありあまる人生と、足らない人生と…かなりスピード感が違うぜ。 幸せってなんだろう? 満ちたりた人生って…本当に幸せかな? 不足し過ぎても、ちょっと辛いし…適当に足らずの人生が、生きごろだろうか…。 そお…適当、適当…。 こんなことを考えている僕は、この人生を生きた証を残せんやろな。 まるで10代の少年みたいやな…僕…。 |
思ったことを実現しようとするとき、インスピレーションを得て目標を設定する能力と、目標に向かって近づくために道を作っていく能力とは別物で…、 大抵どちらかが欠けている。その場合、自分に足らずのところを他の力をうまく利用して埋めていくことが大切になる。 最近、こんな当たり前のことが身に染みる。 私には地道に道を造りあげる力が欠けていた。 アイデアだけはいくらでも出てきたけれど…、その後に問題がアリだった。 事業の一線を引退し、ある非営利団体の立ち上げのために時間を費やす日々、今のような仕事が昔自分でできていたら…今の自分の仕事を誰かがしてくれていたらなどと後悔が浮かぶ。 アイデアだけでは、なにも掴めない。 地味な仕事である。一つ動けば二つの仕事が生まれる。 今からでもいい…コツコツと、動いていこう。 生まれ変わって事業家を目指すために… …なんて…思っちゃうのだ。 |
私は化粧の厚い人は、あまり好きではない。 色の黒い人が白くなり、目の小さな人が大きくなり、鼻の大きく低い人が小さく高くなり…、私の好きな作家で、だまし絵で有名なマウリッツ・コルネリス・エッシャーというオランダ人画家がいるが、化粧というものはいわゆるだまし絵みたいなもので、非現実的な世界として客観視するのは良いが、現実世界のなかでは詐称行為に値するように思うのだ。 なんてことを言いながら、女性の化粧にあたる髭を生やしたりしている私ではある。 なんてことを言いながら、たまに現実のなかでだまされている私である。 少し見方を変えて、シャドーやカラーリングで人格を変えてみせる化粧のテクニックは、だまし絵と同じ類の芸術性があると考えると許せるものがある。 この際、現実世界は騙し騙されの駆け引きが面白いのだと考え方を変えてみようかしら、そしたら、女性と話をすることが、もっと楽になるかも知れんな…。 意識し過ぎかもしれんな…。 |