昨日映画を観に行った。最近封切られた話題の洋画が2本ある。一つは“テッド”生きているテディーベアー?の物語。もう一つはブルース・ウィルス主演の“ルーパー”だ。チケット売場では“テッド”のほうが売れ行きが良かったようだが、SF好きでアクション好きの私は“ルーパー”を観ることにした。 面白い映画ではあったが、前評判ほどではなかった。日本の漫画(劇画)の影響を大きく受けていると思われるカットがそこかしこにあり、おそらく原作者は日本のアニメをかなり参考にしているに違いない。 私の子供の頃は日本は物真似上手で、安価でしかもコンパクトに物作りすることだけが取り柄と言われていた。車のデザインにしても欧米車に比べ、なんだか垢抜けなかったけれど、最近ではデザイン力も世界トップクラスだし、アニメの世界を見ても発想力、想像力、展開力は外国の追従を許さない。 そのかわり…昨日の話じゃないけれど、“大鵬”を知らない人が増えて来て、“戦争”や“光化学スモッグ”や“学生運動”や欧米に必死で近づこうと必至で戦った企業戦士のことは忘れ去られつつあるんだろう。 戦争を知らない私が、しんみり言う話じゃーなかったけれど、なんだか私の年になると忘れ去られることに寂しさを感じる。 この世界は、いつの時代でも少しづつ変化していて、若い時にはいつも自分が流れのなかにいると思っているけれど、年をとってふと時代についていけなくなった自分を知る時がやってくる。 日本の旬のアニメ作家の人達も、いつかそう感じる時があるのだろうけど、若いうちは、どんどん自分のいいと思う作品を作り続けてほしいものだ。そうしたら、そんな今の作品を見て育った未来の若い作家が、まったく新しい物語を紡ぐのだろう。 それはそうと“ルーパー”と日本アニメの関係について書かれた評論はまだ目にしない。ひょっとすると私は大きな勘違いをしているのかも知れない。 |
昨日、水泳教室の新年会に行った。年末には忘年会があり、この度新年会もあり、どうやらこのスクール外活動は、生徒のレッスン離れを防ぐ営業活動の一つだと思い当たった。 4月にカリキュラムの再編成があるようで、先生がレッスンの時間帯を引き続き受け持つためには今の生徒数を維持しておきたいのだろう。どんな仕事でもみんな裏での努力が大変なんだ…。 普段私が接点を持つことのない人達ばかりの集まりなので、話題に困ることもあるが、みんな素朴な人達ばかりだから、ある意味…気を使わずに過ごすことができる。考えたら私の周りには結構癖のある人が多いようだ。きっと私もそうなんだろう。 大鵬親方の話題になった。7名中5名が話題の輪に入った。“巨人・大鵬・卵焼き”が通じたのだ。年齢を尋ねてみると私が男性のなかで一番年長で、先生を除く女性は全員私より年上だった。5名の年齢は50才を越えている。30才半ばの先生と47 才の男性は誰の事か分からなかった。ここで年齢ギャップを大きく感じた。この話題が一番盛り上がった。みなさん相対的に静かな方々である。 私は午後9時5分からのクラスに参加している。この時間帯になると、さすがに専業主婦はおらず、みなさん仕事を持っておられるようで、おそらく午後のクラスの生徒に比べたら社会性のある方達だと思う。 いい人達ばかりだから、もうしばらくはこの人達とお付き合いすることになるのだろう。 もう少しクロールが自分のものになるまでは、ロックボーカリストで水泳の先生のもとで頑張らせていただこうと思っている。従って次回飲み会にも参加しようと思う。 |
“この世界に神はいると思うか?”と、問われる。 “おられると思う。”と、答える。 “神とは、この世の創造主のことか?”と、問われる。 “そうだ。”と、答える。 “神は、この世のすべての疑問に答えることができるのか?”と、問われる。 “もちろんだ。この世の全ては神の意志の下にある。”と、答える。 “神は、何故この世に人を放たれた?” “分からない。”と、答える。 “人の営み、経験を神のものとして共に受け入れるためではないのか?”と、問われる。 “分からない。”と、答える。 “神は、あなたになにを望む?”と、問われる。 “私が、いつも神の身元にいると信じる事。”と、答える。 “そう信じることで、どうなる?信じないとどうなる?”と、問われる。 “………………” “信じるものが天国へ行き、信じないものが地獄に堕ちるのか?”と、問われる。 “いやー……………” “神は、あなたの疑問に答えてくれたことがあるのか?”と、問われる。 “言葉としてはない。でも、私の周囲の変化を通して神が道を示されたと感じたことがある。”と、答える。 “神は、あなたの人生のすべてをすでに知っていると思うか?”と、問われる。 “知っていると思う。”と、答える。 “あなたのこれからの人生は、あなたはまだ知らないが、神はすでに知っておられるのだな。”と、問われる。 “そうだ。”と、答える。 “あなたは、神がなにものか知っているのか?”と、問われる。 “何ものか?…何も知らない。”と、答える。 “あなたは、自分がなにものか知っているのか?”と問われる。 “何ものか?…何も知らない。”と、答える。 すると…“私は知っている。”と、話し相手が答えた。 |
一昨日描いた絵を写真に撮って知人数人に見せたら、そのうちの一人が“なにこれ…、ただの庭やん…。”と、言った。恐れていた反応だ。他の人達は適当に話を合わせていたが、思いをはっきり言う知人がいた。 実は、描いた私も同じように思うところがあった。現場を知っている人は、“あー空から見たとこね…。”くらいには思ってくれるかも知れないが、知らない人は“なんやこれ………。”という程度の絵だなと自分でも思っていたのである。 正直にいってくれた知人に感謝しよう。 ちょっと、自信喪失している自分がいる。 でも、これが私の実力なのだろう。 |
昨年4月に、小学校4年生の時の担任の先生の80才を祝う会があった。久しぶりに出会った同級生の半数以上は私の記憶から消えており、話をするうちに思い出す人もいたが、会が終わってからも思い出せない人も数人いた。 私の記憶から忘れ去られた同級生の一人から、“クラスの課外授業で耐寒登山した時に、町を見下ろす高台で、私に向かって雪を投げていたら、他の生徒と違うことをしている二人が担任先生の目にとまり、みんなの目の前で二人ともビンタをくらった。あの時は巻き添えにして悪かった。”と、告白された。でも、その時の記憶は蘇らなかった。 でもそれが真実だとしたら、それが体罰だったのだろう。そう言えばその時の担任の先生は悪い事をした生徒を、よく叩いていて、生徒から恐れられていたように思う。しかし卒業以来45年経って初めて行われた先生を囲む会ではクラスの半数以上が集い、先生が生徒から慕われた存在であったことが証明された。 校内や家庭での体罰はよくないことである。この考え方は分かる。分かるのだが…クラブ活動という強制ではなく自分の意志で参加する場で、体罰の規制云々の前に、いやなら辞めると言う生徒の意思が尊重され、辞めるという生徒の意思を指導者は文句なく受け入れるというシステムが作れていなかったことの方に問題があるように思えてならない。家庭でも学校でも子供が命を絶つという結論を出す前に、一旦ギブアップした人に対して再び起き上がることを支援するシステムや環境が必要に思えてならない。 私は、決して体罰賛成を唱えているのではない。度が過ぎた体罰は暴力以外のなにものでもないことは分かっている。 そのことはご理解いただきたい。 |