11月1日、今日から物語を書き始めるはずなのに、朝から商業団体設立に関する会議のことで頭がいっぱい。予想していたより参加者が増え、第一回会議がまとまるかどうか不安がよぎった。組織の若返りを狙った会議であったが、オブザーバーとしての参加者の年齢が高すぎる。それだけ多くの人にとって興味のある集まりだったと言えるのだろうが…おまけに要となる重要視していた若い人(49才)が直前キャンセル…私にとって不完全燃焼の船出となった。考えていたより深く入り込まなければならないと思う。 会議終了後、思ったより頭脳の疲労がなかったので…金美麗さんの講演会へ行った。歯に衣着せぬ話が勉強になった。 1995年の1月、英国のシレンスターに住む35歳の英国人Aは、インターネットにより阪神淡路大震災の惨状をリアルタイムで知る。直後に当時同居していた父親Bから、Bの叔父に当たるCという人物が1994年に神戸の外国人抑留施設内で病死したことを知らされ、日本から送られてきたのであろう着物を着たCの写真を渡された。そして戦後日本政府からCの没収財産の補償金でシレンスターにある大学に基金が設立されたことを教えられる。ただそれ以外のことをAがBに尋ねても分らない様子で、Aは極東で死んだCのことをもっと知りたいと思うようになった。 |
谷崎潤一郎記念館の学芸員から電話があった。尋ね人に心当たりなし…残念ながら願った出会いはなかった。 さて物語の作り方だが、昨日のような文章を並べても、私には魅力あるものができそうにない。先天的に文字に慣れていないし…そこのところは自分で心得ている。だから、今考えているのは、ブログ(日記)風に書いていこうかと思っている。それなら、少しここで経験できたから… 要するに、現在英国に住む英国人が時系列的に日付に沿って、日々の出来事やその時の思いを書いていくという設定だ。だから原文は、英語で書かれているということになる。架空の主人公のブログ筆者がいて、架空の和訳者がいることになる。具体的に言うと作者はAngus J. Griffithsで和訳者が大島麻記子という具合だ。読者が読む言語は日本語になるというわけだ。物語の作者はあくまでも覆面ライターとなる。自分では面白い試みだと思うのだが…うまくいくだろうか… 明日は、人物AとかBとかに、取り敢えずもう少しちゃんとした名前をつけようと思う。 |
最近休みがない。と言っても自由にやっているし…苦痛ではない。この3週間毎日会社に行っている。来週もでないといけないし、ゆっくり1日休むことが久しくない。と言っても5年前は、正月2日以外は毎日出社していた。そうなると会社に行かないと不安になる。その頃を思うと休みがないと言っても楽なもんだ。苦しいときには休んだほうが良いと言うことを学んだから、適当にリラックスしながら自分のペースでやっている。休むと言うことは自分のペースという自覚を持ちたい。 さてイニシャルであるが…1994年4月1日に神戸の敵国外国人収容施設(軍人ではないので捕虜収容所ではない)で病死した実在の英国人はHarry J. Griffithsと言う。一昨日に書いたCと言う人物になる。Harryの甥がBである。今のところHarryの実際の家系図は確かめていないのだが、今後英国に確かめに行くことが必要になるかも知れない。現時点で架空の人物 Bを Brian J. Griffithsとする。そして物語の主人公は AはAngus J. Griffiths とする。これらの名前は今後の状況の変化(実在の関係者の名誉等)によって変化する。 今日は、ここまで… |
久しぶりでギター教室に行った。先生の娘さんはオーストラリアに帰り(?)以前と同じレッスン室に戻っていた。授業料のことは何も言わずに、先生がレッスン室に来られる前に、いつもと同じだけ月謝袋に入れた。 先生から楽譜だけを渡されて、一人で練習してきた練習曲を弾いてみた。先生は「言うこと無い。」とおっしゃった。上手いという意味ではなさそうだ。私だけの演奏になっている…と言う意味だと、最近分かってきた。 私の先生は、楽譜のまま演奏することを良しとしない。楽譜をもとに、どれだけ聴いた人がイメージを広げる演奏ができるかを重要視している。先生はこう続ける。「この教室では楽譜通りに弾いてたら、みんなに なーんやと言われる。他の教室では褒められるけどね。」…私の演奏は他で通用するのだろうか… こころなしか、今日のレッスンはいつもより長かった。先生の都合で2週間休みだったせいだろうか… 物語のなかの、シーンはこんなところを考えている。 英国シレンセスター・わが町の外国人墓地・外国人クラブ・市立博物館・英三番館跡地・海岸通り、波止場・港巡りの遊覧船・港近くのホテル・敵国外国人抑留施設跡・旧カナディアンアカデミー跡・置屋・奈良、京都の神社仏閣・関西国際空港・横浜外国人墓地等 英国人の名前のミドルネームは、どのようにして決めるのだろうか…誰かに聞いてみなければ… |
今日は夕刻前に六甲山に登った。何年振りだろうか…前回登った時は、山頂でバーベキューを食べてビールをたらふく飲んで、女性ばかり4人を乗せて、あの曲がりくねった山道を私が運転して下りてきた。今では考えられない。今日は夕陽を見てロマンティックな雰囲気にひたりに行ったわけではない。仕事である…というよりもパートと言ったほうが正しいだろうか…音響の仕事の機材運びである。例のわが町の企業の得意先接待のための六甲山にあるホテルで催された宴会イベントの音響である。夏の綾部での催しの時に来ていたわが町の演歌歌手(主催者の会社の会長のお気に入り)が再び招かれ…彼のステージの音響のために登ってきたわけだ。気さくな主催者の会長が私たちの机にビールを持ってきてくれたが音響の先生も私も車で来たから飲めるわけがなく、丁重に頭を下げてウーロン茶をいただいた。今では、あの酔っ払って山道を下った日々は懐かしい思い出である。仕事であるから夜景を眺めるわけでもなく、特に楽しい思い出が心に刻まれることもなく、九時半には下界に下りてきた。ひょっとしたら前回、あの山に登ったのは15年振りだったかも知れない…と記憶の整理がついた。 下界との気温差は5度…その差だけが山へ登った実感として残った。 今日は、物語について語る余裕がなさそうだ。また明日… |
ギターには、他の楽器にはない“シラミの法則”というものがあって、その名の通りシとラとミの音を弾いて左手をギターのネックから外すと残音が発生するというのだ。やってみると私のギターでは第4弦2フレッドのミは残音があるのに、第1弦12フレッドのミの音は、ほとんど残音がない。先生曰く第1弦のミの残音がどのくらい聞こえるかがギターの良し悪しだとおっしゃる。先生のギターを弾かせてもらうと確かに違いが分かる。要するに先生のギターでは出ているけれど、私のギターではでないのだ。 私のギターでも残音を出す弾き方を教えてもらった。左手の指で押さえて爪弾き、更に指で強く押さえ、そして充分溜めを作って離す。やってみると先ほどより少し出るようになった。この指の使い方(押さえ方)を覚えて、演奏してみると、今までより音が洗練された。私の音に対する感性が広がった・・・と思った。今まで聞こえなかった音が聞こえるようになったのだ。 聞こえない音・・・しかし、聞こえないだけで・・・鳴っているのだ。 周囲の人の聞こえない声・・・しかし自分には聞こえないだけで・・・静かに叫んでいるのかもしれない。そんな音や声があるということを前提に、世界を受け入れたほうが、自分の可能性が広がり、加えて楽であるように思う。 Harry Jhon Griffiths氏は1882年8月20日にイングランドに生まれ、15歳の時に薬屋に勤めた。1906年にロンドン薬科大学を卒業し薬剤師の資格を得た。その後最果ての地、日本の港町でのJ.L.Thompson商会の薬剤師の求人公募をみつけ祖国を離れた。彼に関する情報はほとんど日本に残されていない。戦前戦後、我が町を描き続けた画家が、お気に入りの建物だったのであろうトンプソン商会の建物の絵を数枚残していることと、画家のエッセイのなかでグリフィス氏とのやりとりが僅かに残るだけで、第二次世界大戦をはさんで・・・特に彼のように一生独身を通し日本に身内のいない外国人の記録は、消滅する運命にあったのだろう。だから、何故単身極東の地に身をおき、何故戦前に英国に戻らず、抑留施設で生涯を終えた彼の人物像は、数少ない資料から推測する他ない。その謎の部分が、これから作ろうとする物語の大きなエッセンスになることは間違いない。ここしばらく、彼について現在残る記録を私自身の頭の整理を兼ね、ご紹介することにしたい。 |
今日は午前中、日曜日だが入院していた知人が退院することになり迎えに行った。高速道路を利用して家から25分のところにある病院だ。山谷を最短距離で突っ切るこの道はトンネルと谷を見下ろして結ぶブリッジをいくつも抜ける。ところどころ小雨がパラつく不確かな天気・・・少しくすんだ山の空気のなか、紅葉も始まったばかりで、まだ綺麗と言うところまでいかない。毎年紅葉のピークが少しずつ遅くなっているように思うが、気のせいだろうか・・・。昨年、会社へ行く時に見た木漏れ日のなか、キラキラ輝きながら舞い散る落ち葉の絨毯の山道・・・、あの一瞬に今年もめぐり合うことができるだろうか・・・ そんなことを考えながら知人の家にたどり着いた。腰痛のために手術した知人は幾分痛みがましになったようだ。加齢による体の劣化は、一旦はじまると多きな改善は難しいようだ。今のうちから栄養のバランスと運動には気をつけようと改めて思う。そんなことを考えながら昼から会社に向かった。 アメリカ人の記者だったルイス・ブッシュという人が1967年に書いた戦前の回想録のなかにGriffiths氏のことを書いた記事が残っている。そのなかでグリフィス氏のことを中背で青い目、頭はかなり薄く、近眼の度の強い金属縁のメガネをかけ、夏でも厚手のフランネルのシャツを着て、自分のやりたいことを実現することに意欲をもっていたと書いている。 グリフィス氏の真の興味は日本文化の研究であり、表向きは店の一階での薬雑貨店の経営者であったが、もう一つの顔で同じ店の2階で出版業もおこなっていたようである。西欧に日本文化を紹介する貴重な本の編集にも関わっていたようだ。そしてそのことがもとで、後日彼がスパイ容疑で憲兵に拘束される運命を引き寄せることになる。ともかく外国人のコミュニティーのなかで西欧文化を享受していた多くの外国人とは異なり、日本の伝統文化を身を持って体験し吸収しようとした数少ない西欧人であったことは間違いない。日本を心から愛する外国人であった。 |
今日の昼過ぎ、わが町の初代商業団体会長に会いに行った。明日、若者(と言っても50歳位かな)だけの初会合をするに当たって、意見を伺いにいったわけだ。先人は、おそらく75歳くらいだろうか…20年前、ある公の場での発言を機に公的立場を退き、基本的にいまでもそのスタンスを貫いておられる。その潔さに、私は憧れるものがあり、今やろうとする商業団体の再構築に関しても私は、一切表舞台に立とうとは思わない。プールサイドで時の流れを忘れ2時間近く話し込んだ。先人は私の考えを充分理解し、具体的なアドバイスもいただいた。そして明日の会合の勇気をいただいた。 明日、いよいよ空港島での例のイベントがある。夕方から音響の仕込みに行った。お酒、飲み物等の搬入のために多くの業者が右往左往していた。思っていたより大きなイベントのようだ。 明日、半年に一度の病院での検査がある。そのため、いろいろ準備の都合上、家を6時に出ねばならない。明日は帰りも遅くなりそうだ。物語に関する記述は今日明日お休みさせていただこうと思う。勝手いたします。 |
朝6時前に家を出て6時半に出社した。7時20分に空港島に行きイベントの準備を少しだけ手伝い8時半には定期検診のため病院で血液検査とレントゲン撮影…診察までの9時までに半日経過したような勢いで時間が過ぎた。検査結果は良好、血液検査の結果は先生がベタ褒め…コレストロール値は低く…絶賛された。しかし、見た目が太ってきたと指摘を受け(本当に体重が増加傾向である。)「いつもと、変わらない食事なんですが…」と言うと、「太ってきた人は、みんなそう言うけどね。私もやけど…年齢とともに代謝が悪くなるから、同じだけ食べたら太るわな…」と返ってきた。思い切って質問してみた。「私が将来、再手術する可能性はどのくらいですか?」「今の状態では、考えなくて良いけれど、肥ったら血圧上がるし危ないよ。解離は今でも残ってるからね…手術の確率は30%…」さてこの30%をどう考えよう。いや考えないでおこう。それより少し体重を落とそうと思った。 先生の話はまだ続いた。「心配ないよ、後10 年は私が手術してあげるから…それ以後は、もうせんと思うけど…」と笑っておられた。有り難い話ではあるが、なんだか重たいような…複雑な話である。 さて病院を出て空港島へとんぼ返りした。イベントの開始時間が過ぎ、来賓が徐々に増えてきた。ミラクルひかる(宇多田ひかるのそっくりさん)・ピアノの弾き語りのおじさん・シンガーソングライターの女性・フラダンスバンド・ロックバンド・南京玉簾等のエンターテイメントが続いた。彼らのことを書こうかと思ったけれど、実はそれよりもっと大変に思うことがあったので書いておこうと思う。ご存知のように今日は強風が吹いていた。しかも、ここは遮るもののない白波がたつ海の上…スピーカースタンドは倒れるは、急遽屋外イベントのスペースが移動変更となるは、ハプニングの連続…風に体温を奪われ震えながらのイベントだった。主催者側もさぞ大変だったろうと推察する。 |
昨日のイベントでは、私は昼過ぎまで音響の先生を手伝った。11時開場を前に‘ミラクルひかる’が入念なリハをした。最初に先生から「ひかるちゃんにマイク渡して…」と言われたが誰がひかるちゃんか分からず「どこにいはるんですか…」と聞き直すと「はい、私です。」と目の前の女性が答えた。本物ではないにしても芸能活動をしている人にタイミングの悪いことを言ったような気がした。笑って受けてとってくれたことが救いだった。直後に町の新しい商業団体設立の会議のために会社に戻った。前回の会議とは違いオブザーバーのいないこの度の集まりはかなりの成果があったと実感する。‘二八(ニッパチ)の法則’を思い出した。‘100 人の組織があったとしたら、その組織を実際に牽引するのは二割の20 名である。もしその20 名をなんらかの理由で組織から引き離せば、残り80名の2割に当たる16名が新たな組織の牽引役と進化成長する。要するに組織のなかで本当に組織のために働くのは二割の人だという法則’と言うものだったと思うが…まさに狙い通り…年長の幹部を排除した新しい組織は、思考錯誤を繰り返すだろうが大きな成長の可能性を感じる。 会議が終わり、音響機材引き揚げのために本日3回目の空港島に向かった。埋立地を突っ切る空港への道は信号も少なくまさに一直線…車の距離計がぐんぐん伸びる。橋を渡る車がやけに横に流される。会場には相変わらず強風が吹いていた。音響の先生は一日中、吹きさらしのなか立ちずめで体は冷え切っていた。老体の先生の背中をさすってあげた。結局ミラクルひかるのステージは見れなかった。当日のメインエンターテイナーだけあって衣装の早変わりもあり一番の盛り上がりがあったそうだ。ひかるちゃんを除く出演者全員での合唱でお開きとなった。観客と出演者が去った祭りの後のステージをいつものように黙々と機材撤収した。思ったよりも早く午後8時には帰路についた。風の強さがやけに記憶に残る一日だった。 以前にも書いたが、グリフィス氏の記録は、日本にはほとんど残っていない。神戸で貿易会社に勤めながら、戦前日本に在住した西欧人の生活実態をまとめた文献を残したオーストラリア人のハロルド エス ウィリアムズ氏がオーストラリアの大学に寄贈したウィリアムズコレクションのなかにのみ存在が確認できる。その記録を参考に田村恵子女史がオーストラリアの大学の資金援助を受け2000年代に半年間の日本で検証をもとに…出版された‘Forever Foreign’という本のなかにグリフィス氏の存在を蘇らせた。私も独自で調べてみたが、ほとんど彼の記録は見当たらない。‘Forever Foreign’のなかにグリフィス氏の自宅が滝の近くにあったと書かれていた。ちかいうちに、その場所を特定したいと思っている。 |