昨日のイベントでは、私は昼過ぎまで音響の先生を手伝った。11時開場を前に‘ミラクルひかる’が入念なリハをした。最初に先生から「ひかるちゃんにマイク渡して…」と言われたが誰がひかるちゃんか分からず「どこにいはるんですか…」と聞き直すと「はい、私です。」と目の前の女性が答えた。本物ではないにしても芸能活動をしている人にタイミングの悪いことを言ったような気がした。笑って受けてとってくれたことが救いだった。直後に町の新しい商業団体設立の会議のために会社に戻った。前回の会議とは違いオブザーバーのいないこの度の集まりはかなりの成果があったと実感する。‘二八(ニッパチ)の法則’を思い出した。‘100 人の組織があったとしたら、その組織を実際に牽引するのは二割の20 名である。もしその20 名をなんらかの理由で組織から引き離せば、残り80名の2割に当たる16名が新たな組織の牽引役と進化成長する。要するに組織のなかで本当に組織のために働くのは二割の人だという法則’と言うものだったと思うが…まさに狙い通り…年長の幹部を排除した新しい組織は、思考錯誤を繰り返すだろうが大きな成長の可能性を感じる。 会議が終わり、音響機材引き揚げのために本日3回目の空港島に向かった。埋立地を突っ切る空港への道は信号も少なくまさに一直線…車の距離計がぐんぐん伸びる。橋を渡る車がやけに横に流される。会場には相変わらず強風が吹いていた。音響の先生は一日中、吹きさらしのなか立ちずめで体は冷え切っていた。老体の先生の背中をさすってあげた。結局ミラクルひかるのステージは見れなかった。当日のメインエンターテイナーだけあって衣装の早変わりもあり一番の盛り上がりがあったそうだ。ひかるちゃんを除く出演者全員での合唱でお開きとなった。観客と出演者が去った祭りの後のステージをいつものように黙々と機材撤収した。思ったよりも早く午後8時には帰路についた。風の強さがやけに記憶に残る一日だった。 以前にも書いたが、グリフィス氏の記録は、日本にはほとんど残っていない。神戸で貿易会社に勤めながら、戦前日本に在住した西欧人の生活実態をまとめた文献を残したオーストラリア人のハロルド エス ウィリアムズ氏がオーストラリアの大学に寄贈したウィリアムズコレクションのなかにのみ存在が確認できる。その記録を参考に田村恵子女史がオーストラリアの大学の資金援助を受け2000年代に半年間の日本で検証をもとに…出版された‘Forever Foreign’という本のなかにグリフィス氏の存在を蘇らせた。私も独自で調べてみたが、ほとんど彼の記録は見当たらない。‘Forever Foreign’のなかにグリフィス氏の自宅が滝の近くにあったと書かれていた。ちかいうちに、その場所を特定したいと思っている。 |