今日は、日帰りで東京に出かけ、たった今帰ってきたところだ。 知人の元気な姿に安心病院を後にして、都心で姪が経営するカフェレストランを訪ねた。連絡せずに突然行ったから会えなくても、外からでも店がどんな様子か伺えればいいと思っていたら、レストランの横で最近始めたと言う洋菓子店の店頭で店長らしき人物に指示をしている彼女と目が会い、お茶に誘われ10年振りで話をすることができた。 以前の彼女は美人でスリム、しかも仕事のできる女性と言う印象だったが、かなりぽっちゃりとして顔つきが変わったように感じたので、そのままの印象を伝えてみた。すると…4か月前に歯の噛みあわせを調整してもらいに歯医者に行ったら、全部の歯を削られ、すべての歯をインプラントに変えたほうが良いと勧められたようで、すべてのリズムが崩れストレスが溜まって体重がどんどん増ていったそうだ。今は違う歯科医に相談して勿論インプラントではない他の方法で修復している最中のようで、体重もやっと減少傾向になり、ほんの少し前はもっと太っていたのだと聞かされた。 彼女は自分が今まで、強運の人生を送ってきたと思っていたのだが、歯の噛み合わせのために人生で初めての最悪の数か月を過ごしたと言った。 精神的にも安定してきたので、しばらくしたらフランスで行われるル・マン観戦にでかけるそうだ。そんなセレブな生活をしている彼女を悪徳歯科医が食い物にしようとしたのだろうと推測するが、それを見抜けなかったのは、ある意味…今までがうまく行きすぎた彼女の経験不足があったのだろう。 彼女が以前のように生気あふれる素敵な女性にもどることを祈って東京を後にした。 家の最寄駅に到着して夜風に吹かれながら、美味い空気を腹いっぱい吸い込んだ。 東京から戻ると、いつも私の町の空気の良さを思い知る。 |
世の中の進歩のバロメーターに、待ち時間の短さがあると思う。スーパーでのレジで並ぶ時間、高速道路の料金所での待ち時間、役所で書類申請して必要書類を手に入れるまでの時間、鉄道の駅での改札待ちの時間…。思えば…一昔前から考えたら、なんと、いろいろなことが短くなってしまったことか。 世の中、進化して待たなくてもよくなってきた。 今日、予定どおりに11時半に予約していた歯医者に行った。結局診察室に入ったのが正午を過ぎていた。久しぶりで待たされた。待つという事が新鮮だった。 世の中、どんどん早くなり、待たなくても良くなってきている。 私は、天邪鬼かもしれないが、ボーッと、たまに待つことも悪くないのに…と。思った。 |
3週間ほど前に、歴史的事実を知りたくて大阪アメリカ領事館に電話した。例によって録音音声の案内に従って番号を押して辿り着いた先の人物に事情を説明すると、しばらく待たされた後に“その手の質問は、ネットで行ってください。”と。素っ気なく突き放された。直後に問合せ先のメールを探したが、どこにも見つからず、結局大阪領事のファイスブックに投稿してみた。ところがいまだに何の返事も来ない。 1874年当時のアメリカ合衆国神戸領事館のことを調べている私のことなど、相手するに値しないと思われたのかも知れないが、どうしても情報を得たい私は、諦めるわけにもいかず、4月6日に大阪で行われるアメリカンセンター職員の講演会に潜り込むことにした。 うまくいくかどうか分からないが、情報を手に入れる方法はいろいろあると信じて、講演会で成果が得られなくても次の方法を考えようと思う。 “あきらめちゃーダメ!探せば道(方)はあるのよ。”と、私を励ましてくれたブルケッサさんの声が、私の脳裏に浮かびあがる…。 |
マダムは自分の書いた詩に挿絵を入れて本に仕上げようと思い、若い女性アーティストに絵を描いてもうように依頼した。出来上がった絵は、なかなか味のある絵で一枚一枚額装して飾りたくなるくらい素晴らしい。初めての挿絵の依頼で、画家が精一杯頑張ったと推測できた。 ところが詩と合わせて見てみると、ぶつかり合って互いの良さを殺し合っている。挿絵というものは文字を活かすものでないといけないはずが、逆の結果を生み出している。 控えは控え…、影は影…、引き立て役は徹底して引き立て役にまわらないといけないことが、若い画家にはまだ理解できていないのだろう。 私は、マダムにそんな私の感想を伝えたが、さて…マダムは画家に正直に言えるだろうか…?言えるか言えないかがマダムの力だ。 影の力を知り、認め、正しい評価をくだすことが、生きていくうえで大切だと自分に言聞かせる。 二人の今後のぶつかり合いを、しっかり見届けたい。 |
今朝、テレビを見ていると、コメンテーターが、最近の若い人達がスマートフォンのお蔭で、他人との会話力が落ちてきた…と、言っていた。 電車に乗って出勤の途中…今日はやけに小説や雑誌を読む人が多かった。最近は、みんなスマートフォンを触っているしなー。なぜかホッとした。 歩きながら本を読む人はいないが、スマートフォンは歩きながらでも触っている。最近は、手元ばかり見て周囲の状況が見えない人が増えている。自分だけの世界に浸って生きているから、老人やハンディキャップの人に席を譲る若者が少なくなったように思う。そんな人達ばかりの車輛に乗り合わせると、私は集団のなかで孤独を感じちゃう。 昔、受けた哲学者の授業で、“電車では本なんか広げずに、移りゆく景色や周囲の状況を良くみなさい!”なんて教わって、なるほど…と、思ったことがあったけれど、今どきの人は鼻で笑うだろう? 電車のなかでのスマートフォンの一切の利用を禁止したら、もう少し自分の周囲が見える人が増えるだろうなー。 スマートフォンは確実に人間の感受性を変化させている。 これから、私は電車ではスマートフォンを触るのは止めておこう。感性の鈍らない良識ある人間でいたいから…。 |
占いを上手く活用することで、難を逃れることができた…と、言う話を聞くが、その時に受けるべき災いを避けてしまったが故に、将来やってくるさらに大きな災に対応できなくなってしまうこともあるのだろう。 そう思えば、死んでしまうこと以外の占いの結果は、知らないほうがいいのかもしれない。いや、それも必要ないかな…? 世界中の全ての人間が、角度の高い占いによって自分の人生を決めはじめたら、事故死や離婚や貧困や飢餓とか敗者がいなくなって、幸せな世の中がやってくるかと問われれば、私は決してそうは思わない。 きっと経済と同じで、いつも誰かが裕福で誰かが貧しいように、世界中の幸福の量も一定で、誰かが幸せであれば誰かが悲しい思いしなければならないのだろう。 受くるべきことは、逆らわずに受け入れることが懸命な人生だと思うが、あなたはどう思われる?自分だけが難を逃れたいと思われるか? もし、私が何かの拍子に私の人生の占いを聞いてしまったらどうしよう。やはり、一応参考にするだろうな…。 ははッ…ええかっこ言っているだけやな。 ははッ…。 |
葬式でも結婚式でも、儀式と言うものは進め方にパターンがあり、所謂…葬儀屋や結婚式屋はパターン通りに進めることで予定時間内にすべてが終わるように段取りを組んで、一日に何組もの儀式をこなして利益を上げる。 昔の結婚式は、何日も続いたと聞いたことがある。最初の日は親族が集まり、二日目に新郎の友人が集まり、三日目が新婦の友人と言うように…、その間、新郎新婦は常に人目に晒され、親族や近所の人が祝宴の準備を延々と続けたと聞く。 昔は、村のなかにいる人だけで式が行えたが、世の中が進んで人間の行動範囲が広がり、友人や親戚が東京や海外に散ってしまい、集まる時間を短縮しないと、みんなが集まれなくなり、自宅で済ませた式を集会所や公民館のような場所を数時間だけ借りて行うようになって、そのうちに、それを企業化した結婚式場や葬儀会場ができたのだろう。 世の中のIT化が急速に進む中、きっと全く新しい儀式が生まれてきそうな気がする。いわゆる、皆が一か所に集まらなくて済む式が生まれてくるに違いない。それがどんなものか、うまく言えないが、それが分かりやすく提案できたら企業化できるだろうな…。私は、やらんけど、誰かやらんかな…? あまりに、世の中パターン化した、感動が同じように盛り込まれた画一化された式ばかりなので、ふとそんなことを考えた。 |
ある落語家が、“笑い”とは、緊張と緩和を交互に挟むことで起こる…と、言っていたが、優れたスピーチもこの法則に当てはまることが多いのだろう。一本調子のスピーチは、どんなに優れた内容をもっていても、聞いていて退屈だ。 記憶に残るスピーチは、上げて下げて…と、波を上手く起こしている。 30年以上前に、評論家の竹村健一の講演を聞きに行ったことがある。最初から最後まで講演のテーマとは関係ない話ばかりして、講演時間も少なくなり参加して損をしたと思ったその瞬間に、竹村健一が最後の締めでこう言った。 “皆さん今日の話で、これだけは是非、覚えて帰ってください。賢者は愚社に学び、愚社は賢者に学ばず。” その時は、なんて人を馬鹿にした講演なんだと思ったが、檀上でパイプをくゆらす彼の様子がいまだに鮮明に私の頭に焼きついている。考えればそれだけインパクトのある締めだったと言わざるをえない。 スピーチなんて、計算された緊張と緩和も大切だが、最初っからその場に関係なくても、思いついたことを、どんどんしゃべって、最後の一言だけ心に残ることをしゃべる…なんてのも、ありだろう。 ともかく、しゃべることが苦手な方は、プロしゃないんだから、みんな自分のスピーチなど、真剣に聞いてはいないと思って、最後の締めだけ押さえて、気楽におしゃべりすればいいんだと思う。 |