私は月に一度、知人のヘアスタイリストがオーナーの美容院に行く。今日の午後もカットに行った。 この店はシャンプーがおそろしく丁寧で、途中気持ちよくていつも寝てしまう。今日も何度も自分の寝息(いびき)で目が覚めた。私のシャンプーはいつも決まった若い女性スタッフが担当する。シャンプーの後、オーナーにカットしてもらって、その後カットした髪の毛をもう一度洗い流してもらう…。 その時、彼女にこんな質問をしてみた。 “クリスマスプレゼントに現金を渡されたら、どう?”すると彼女は“いやーっ、私は、いやですね。それだったら、いっしょに買いに行ってもらいます。”もう一度尋ねた。“じゃー、いっしょに行って、そこで男が値切りはじめたらどうする。”すると彼女は“そっ、それは止めてほしいですね。悲しくなりますね!”と、言った。 私は、別れた妻に、はじめて贈ったプレゼントを気に入ってもらえず、以後彼女の希望でプレゼントはキャッシュに決めていた。私にはプレゼントに対するトラウマがある。いまだに女性の心がつかめない。 シャンプーしてくれている彼女に“いっしょにプレゼントを買いに行って、どれか決まったら、彼女を一人でカフェに行かせて、その間に値切ってもいいかな?” なんて質問をするのは止めることにした。いくらなんでも彼女の答えは想像がつく。 このように、私は今も、女心を少しづつ学んでいる。 |
今日のマダムの店のランチタイムは静かで、立ち寄ってみると店にはマダム以外に誰もいなかったので、コーヒーを一杯だけたのんで話し相手になってもらった。 例によって“クリスマスに彼氏から現金を渡されたらどうですか?”と、聞いてみた。すると“好みではないものを渡され、困ってしまうより、好きなものを買って…と言ってお金を渡されるのもいいかも知れない…。”と、少し時間をとってゆったりと答えた。 今度はマダムから話始めた。“昔付き合っていた彼氏にお願いして、毎月500円玉を袋に入れて渡してもらっていたのよ。そして彼が待ち合わせの時間に遅れたり、来てくれなかった時に、彼はこの500円を稼ぐために頑張っているんだ…と、思うようにしてたの…。”と、昔を懐かしむように少し視線を上に向けながら喋った。 私は、“いい話ですね…一杯のかけそば…みたいですね。”と、少し的外れの答えをしたが、マダムは笑いながら相槌をうってくれた。 マダムは、70才を目前に控えている。おそらくこのまま結婚せずに一生を終るだろう。そう考えるとマダムの話を聞いて少し寂しさを感じたが、さすがに本人には伝えられなかった。 マダムは今年のクリスマスも店に出て若い二人を幸せにしているだろう。 マダムのクリスマスも素敵な一日になるように祈りたい。 |
知人の器屋で、陶芸作家でもある画家の原画展を催しており、今朝観に行って、手頃な価格の作品を2枚買い求めた。 私は、家の倉庫に…それほど良いものはないが絵画や器や工芸品を少しはもっている。そもそも自分が描いた50号の油絵やアクリルの10号の13枚シリーズの作品もあり、全部出してみたら結構な量になるだろう。 倉庫にあるということは、今の家が手狭で作品のほとんどが埃を被っているわけだ。 いつか大きな壁や廊下にニッチのある家に引っ越して、それらの作品を季節ごとに入れ替えて飾ったり、段ボールに収まっている美術書を常に棚に並べて楽しみたいと思っているのだが…。 さて、このたび買い求めた作品は一筆描きの仏画と書である。今まで集めたものは洋風のものが多かったから、和風の作品ははじめてのコレクションだ。小品なので作家は自宅のトイレにでも飾ってくれ…と、言っていたが、今のところ本当にそうなるかも知れない。そもそも投機目的ではなく個人の楽しみで作品を買い求める場合、家のどこに飾るかイメージできていないといけないのだろうが…、今の環境では考えられない。このたびは衝動買いである。 この日記を書いたことを機会に、作品を飾れるスペースに移ることを真剣に考えよう。そうでないとこの度の小品は、倉庫にしまわれて陽の目をみないか、誰かへのプレゼントとして私の手元から離れていくことになるだろう。 いい車に乗りたいから頑張って仕事するとか、いい女にもてたいから頑張る…って言う話があるけど、私には車の趣味はない。今でもいい女にはもてたいけれど、若い時ほどの気持ちの高ぶりはない。だから、作品を飾れる家に引っ越すために、もう少し頑張ってみることにしよう。 今日もとめた小品の居場所を、ちゃんと作ってやりたいものだ。 それが自分のしたことに責任をもつということだ。 |
祭日でクリスマスイブの今日も私は車で会社に向かった。山道に入る前の国道を通行中…、フロントミラーに私の車に接近し過ぎている自家用車が映った。運転者を確認するとごく普通のおばさんである。最近、私はたっぷり車間距離をとって走っているので、山道に入っていれば道を譲るところだが、朝の国道では下手に停車すると迷惑になるから流れに乗って走り続けるしかない。このままでは、もしも前方に事故でもおきて急ブレーキをかけることになれば完全に突っ込んでこられる。だから軽くブレーキランプを点灯して注意を促した。すると一旦離れたが、しばらくするとまた接近してきた。困ったものだと思っていたら、そのうちその車は右折して視界から消えた。ほっと一息ついて、フロントミラーを見たら、違う車がまた接近し過ぎている。運転者を確認したら、またもや普通のおばさんである。私の前方に車がいなくなったので今度はアクセルを少し吹かして振り切った。 よくもまぁー、みんな他人を信じられるものだ。自分一人で対応して、かわせない距離に相手を近づけている。 接近し過ぎて痛い目にあったことのある私は、自分の力の及ばない範囲で他人の懐には入らないし、他人も入れない。 適当な距離感をつかんでいる。 だけど、これは一度自分が痛い目に合わないと分からないのかもしれないなぁー。 イブにおばさんに追いかけられた私は、小さな溜息をついた。 |
今朝歴史研究家と本年最後のミーティングを行った。駅の近くの喫茶店(今時のカフェではない)での待ち合わせである。研究家は、いつも約束の時間の15分前にやってくる。出会った最初の頃、私は約束の10分前に到着するように心掛けていたが、いつも遅れをとったので、少しづつ早く着くようなり研究家の行動パターンを解明した後は20分前に到着するようになった。 最近では後からやってきた研究家からの最初の挨拶は“私のほうが遅かったですか…。である。研究家も待たせることが嫌いなのだろう。そのうち30分前にはお互い到着するようになるかも知れない。 研究家は煙草を吸う。打ち合わせ場所が何故駅の近くの喫茶店かと言うと、店のなかに喫煙室があるからだ。私は煙草を吸わないから禁煙室にしてほしいのだが、喫煙室側に資料を広げられるテーブルがあるし煙が気にならなければ…と言う研究家の最初の申し出を受け入れたがために、受動喫煙の真っただ中でのミーティングが慣例となった。 煙草を止めてはいかがですか…と言いたいところだが、尊敬する目上の研究家には言い出せずに、いつも1時間弱ほど燻製になるのである。この喫煙室での打ち合わせはこれからも続くだろう。 何事も最初が肝心だ。今時のことだから、目上と言えども、しばし禁煙をお願いするだけの勇気を持っても良かったと反省する。 煙草の話はさておき、絵本の件に関しては、次回来年1月までに私がさらにビジュアル化をすすめ、それをもとに打ち合わせを重ねることになった。夢を叶える年を迎えるにあたり、お互いその覚悟を再認識して喫煙室を出た。 会社への帰りに東急ハンズに寄って絵具と筆とボードを買った。今年中にやり残している絵を描くためだ。絵具も使わないでいると硬化して使えなくなる。思い切って2セット新しい絵具を買った。新年に引きずらないように今年中に描いておかなければならない。正直言って時間が足らない。絶対足らない。とやかく言う前にこれを書き終わったら、描きはじめようと思う。 皆さんも、今年やり残したことを、今からでもチャレンジしてみてくださいね。 気持ち良く新年を迎えられますように…! |
相手から、自分に…してもらったことは忘れてしまい…。 自分から、相手に…してあげたことは忘れない…。 と、よく言う。 今年を振り返って自分がお世話になったか方の顔を、ひとりひとり思い浮かべてみる時がやってきた。 今年もたくさんの方の助けを借りて生きてきた。 してもらったことを、忘れない自分でいたい。 そのことを、今一度…心に刻んで新しい年を迎えたい。 ありがとうございました。 |
今朝、毎月の慣例で、月初に氏神様に供えていただく奉献酒を持って神社に行った。 鳥居をくぐって帰りの道すがら、一般的には“宗教とはなにか?”と言う疑問が頭に浮かんできた。宗教の世界に浸かっていない私は、戻ってネットで調べてみた。 「宗教とは?」 「一般の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念形態にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。」(ウィキペディア) 「人間生活の究極的意味を明らかにし、人間問題の究極的解決に関わると人々によって信じられている営みを中心とした文化現象であり、その営みとの関連において神観念や神聖感を伴う場合が多い」(宗教学者、岸本英夫による定義) 「実在界を科学すること」(幸福の科学) 「神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み。古代から現代に至るまで、世界各地にさまざまな形態のものがみられる。→原始宗教 →民族宗教 →世界宗教」(国語辞典) よく分からなかった。 普段私が考えている“宗教”を思い返してみた。 自分を強くするもの…命を投げ出すことのできるもの…相手を否定するもの…戒律のあるもの…神に責任転嫁できる集団…自ら検証せずに信じる事…仲間を作る基礎…愛…対立の芽…未熟な知識で考えてみるが、すべてに当てはまるものが見つからない。 まだ、私のなかで漠然としている。 私には、現実を見る限り宗教が私の思う世界に平和をもたらすとは思えない。この世界では、あくまでも宗教は人間の世界を構成するための漠然としたファクターの一つに過ぎない。集団の成熟と個人の成熟とは違う。 経験を通して私自身が成熟するためには宗教というファクターは必要ではないように思う。 考えても分からない。宗教と信仰の区別もついていない。 神社に酒を届けに行って、こんなことを考えた。 私は、暇である。 |