記憶というものは、曖昧なもので昨日食べたものも思い出せないことがあるし、3日前とか1週間前とかになると、なにか特別の日だったとか、サバーンのように記憶力の優れた人でない限り蘇らない。
おそらく人の記憶も、パソコンのデータのように一度五感や直感で感じたことなど記録された全ては、頭のなかのどこかに蓄積せれているのだろうが、データを引き出す能力が人によって異なる。機械でいうところの“性能”だ。
人の性能には、生まれ持って兼ね備えているものと、経験・学習によって開発されるものがある。ひと昔前の機械には学習機能がなかったから、製品として完成した時の能力が最高でその後経年劣化を待つしかなかった。しかし、パソコンが登場してからは、機械がデータの蓄積を始め、最先端の機械は自分で学習するようにプログラムされ始めた。今までは機械が人に追いつくことを目指したが、数年前から人が機械の整理能力や引出能力に依存する時代がきたように思う。
性能の良い人間とは、記憶する能力より記憶を引き出す能力が高い人だと言って良いだろう。
性能の悪い私には学習が必要だ。私なりに…、毎日記憶を引き出す訓練をしている。食べたものを翌日以降に思い出して書き留めていることや、なにより毎日ここに、なにがしら思いついたことを書き綴っていることだ。
記憶の掲示板に、自分が思いついたことを押しピンでとめているような感じなのだ。自分の全ての記憶をすべて引き出すことは不可能だと認識が出来ている。しかし、感じたこと思いついたことを毎日1枚〃〃掲示しておくことは、私の日常会話の話題の幅を広げ、感受性を高め、自分を戒めるために大きな役割を果たしているに違いない。
これが、私が毎日書き続ける理由の一つである。
今朝会社に来る途中、例の山道から紀伊半島がきれいに見えた。いつものように車を置いて、高台に上ってみた。例によって空気の澄んだ大阪湾が見渡せた。
私の町は、美しい。 |