私の知人に、普段約束の時間に必ずと言ってもいいほど遅れる人がいる。 “遅れないようにしようと思ったのだけれど、出がけに忘れ物に気が付いて取りに帰って間に合わなかった。”などと毎回弁解するのだが、今までそんな人だとうっちゃっておいていた。 ところがそんな人でも海外旅行の時には、他人より早くに集合場所にやってくる。やろうと思えばできるということは、まさに私に対する礼を軽く考えていて、優先順位を低く見ているに違いない。 こういう社会性の欠ける行いをしても、私のことを少々甘えても大丈夫な人だなんて思われていたりしたら、えらい迷惑だ。 今まで遅れてきても笑いながら“いいよ。”なんて言ってきたが、来年は一度厳しい言葉をかけてみようかと思う。 だって、これから長い付き合いをすることになるのだから…。 |
今日、教授からメールが入っており、来年の正月はどこにも行く予定がないので、早いうちに打ち合わせしましょう…と言ってきた。私も正月だからと言って三が日を全て休むことなどないけれど、それでも毎年一人でゆっくり考え事する時間にあてていた。教授は“年末は○○○に終わり、年の初めに○○○で始まる…なんて素晴らしい年でしょう。”と、送ってきたが、自分の欲しい物を手に入れるための執念というか、思いの強さは70才を前にした女性のそれとは思えない。 私は来年も教授の勢いに引っ張られて過ごすことになりそうだ。 ともかくミーティングは4日にしましょう…と、返事するとしよう。 夢を実現する方法を知っている人と、お付き合できることの幸せを感じよう。 昨晩‘永遠の0’を観た。たっぷり泣かせてもらった。 |
自分の名前をローマ字で検索すると、アメリカにある田舎町の美術館の所蔵品目録のなかに私が30年前に制作した画文集のタイトルを見つけた。この秋アメリカに行き、その美術館を訪ねたが当時のことを知る人がおらず思っていた話もできずに少々残念な思いで館を後にした。気を取り直して図書館に画文集を寄贈してきたのだが、今…美術館にちゃんと保管管理されいたことが分かり嬉しい限りである。 ささやかにではあるが生きていて良かったと思う一瞬である。それにしても検索システムは凄いものだと思い知る。10年後に死んでなかったら、またあの町を訪ねてみたいと思うのだ。 |
人はどうして死ぬのだろう?老化するのだろう? 重い病気にもかからず、事件や事故や戦争や災害にまきこまれずに生きてきても、体の組織が再生しなくなり死滅する‘人のもつ寿命’とうものがある。 経験を深め、思慮深くなり、何にでも対応でき、悟りの境地に入る…大抵の人はそこに到達する前に死を迎える。 そう考えると、人にとって、もがき苦しみ壁にぶち当たり挫折し再びチャレンジすることが生きる意味のように思えてくる。無知で、未熟で、周囲が見えずに、ただただがむしゃらに生きる人生を、もう一度生き直すために“死”というものがあるように思えてならない。 私の内から、若かかりし頃に経験した感動や怒りや恐怖や嗚咽や歓喜が遠のく。 私に確実に死が近づいていることを自覚する。 それが人として生まれた定めだと納得する。 |
私の喋ったことに、即答で“よく分かります。”と答える人よりも、しばらく考えて“すいませんが…よく理解できないので、もう一度分かるように話してください。”と返してくる人を大切にしようと思った。 |
今日、マダムの店でランチを食べていたら、何度か店で顔を合わせて名前を覚えてしまったマダムと同年代のご婦人が入ってきて、隣のテーブルに座った。そこには、やはり同年代の男性が先に席に着いていて会話が始まった。 別に聞き耳を立てたわけではないけれど、その男性は最近大きな手術をしたらしく、どうやら快気祝いのような再会だと分かった。 病気の話から始まって‘死とは?’なんて話になってきた。若くはない者同士が真剣に死について語り合うのを聞いていると、さすがに重たい空気が流れたが、そのうちお互いに、いい話し相手を紹介して欲しいと言いはじめた。どうやら二人とも伴侶をなくしているらしい。 年をとっていても、男と女の緊張感のある関係は面白い。二人には多少駆け引きがあるように思えた。ひょっとすると二人は仲良くなるかも知れない…と、思いながら店をでた。 死が目前に迫っても、適当に誰かに恋していたいものだと思った。 |
ある町に貧しくも慎ましく生きる若い夫婦がいた。 夫の自慢は父親から譲り受けた懐中時計…しかし鎖が切れて今は持ち歩けない。 妻の自慢は母親譲りの長くしなやかな栗色の髪。 愛する伴侶のためのクリリスマス・プレゼントに…妻は懐中時計の鎖を…夫は妻の髪をすく鼈甲の櫛を買いたかったが、共にお金が無く思案していた。 クリスマスイブの夜…プレゼントした時の妻の喜ぶ顔を思って夫は妻に鼈甲の櫛を渡そうとした。しかし櫛ですくための妻の自慢の髪は短く切られてしまっていた。 妻は、髪の毛を売って買いもとめた時計の鎖を夫に渡そうとした。しかし夫の自慢の懐中時計はすでに人手に渡っていた。 オー・ヘンリーの短編の代表作‘賢者の贈り物’とは、こんな物語だっただろうか? クリスマスイブには、毎年…この物語を思い出す。 |
最近、スマートフォンを触りながら歩いている人をよく見かける。 おそらく、彼らはなんとなく流れに乗って歩いているから、接近してくる自転車には気が付かないし、信号の確認だって自分ではしていないだろう。 周囲の人を信じ切っているというか…油断しているというか…人間も動物なんだから表に出たときくらい自分の安全にもっと神経使うべきなのに…。 このままみんなが触り始めたら、事故が多発するに違いない。そうしたら自動車運転中は電話していけない法律ができたように、歩行中はスマートフォンを見てはいけない…なんていう法律ができるだろうな…冗談じゃなく。 その点、ガラ系携帯は、安全だ。 あとはアイパッドを使いこなすだけ…、私にとっては、なかなか手ごわいツールである。 |
誰かのことを思って…心配して…なにかをしてあげている…なんて口に出して言う人がいるけれど、そんな人は得てして、もしもなにか起こると自分の身をかばって、してあげている人のことを簡単に切ってしまうように思う。 いや、むしろ誰もが自分を優先するのだろう。 だから、誰かのことを思って…なんて、他人の前では言わないほうが無難に思う。 |