昨日ギター教室に行った。先生は一人ソファーに座り小説を読んでいた。先生は少し眠そうな目をしながら、私に語りかけてきた。「木曜日のこの時間はレッスンに来る人が少ないはずなのに、この間のリサイタル以後、やけに多くなってね・・・木曜日のこの時間はゆっくりレッスンするつもりなのに・・・でも今日はきっと静かだと思うから急いでなかったら話をしない・・・」先生の話を聞きたいから、話をすることに同意した。「最近ふと気がついてね・・・セゴビア(先生が師と仰ぐ1987年に亡くなったスペインのギタリスト)がどうして、あんなふうに演奏したのか・・・彼には指使いによって演奏の法則があって、その法則がふと分かったのよ・・・そう思うと今まで雲の上の人だったのに、急に距離が近づいてね・・・晩年に同じ曲の演奏が変わった理由も分かるような気がして、今まで思わなかった年代の彼の演奏が良くなってね・・・」かなりレベルの高い話だ。楽譜も読めないギターを習い始めて一年の新米に話す内容ではない。だが、私は音楽というジャンルではなく、物づくりを中心とする一般芸術と捉えて自分の考えを先生に話をする。すると先生は刺激を受けてもっといろんな思いをしゃべり始める。先生は続けてこんなことを話した。「去年あなたが習いに来出した頃から、50年間弾いてきたギター演奏に関して、新しい扉が開いてね。そんな時に、あなたは始めてのタイプの生徒で、自分の考えをはっきり言うのよね・・・他の生徒は私の話を聞くだけだけど・・・」そういうことだ。私の話は先生にとって良い刺激材料になるようだ。これはあるレベル以上の作家間で成立する感性と経験がなし得る対話術だ。私は、100%先生の話に答えているわけではない。むしろ音楽的には1%の内容も答えていないと思う。しかし、先生のインスピレーションを広げ、先生自身の考えをまとめていくための刺激は充分に提供している。結局みんな、自分の考えをまとめるための、最後の一押しの刺激が欲しいのだ。 普段働かせていない頭のある部分が活性化する実感を得ながら、あっという間に2時間が経過した。レッスンはほんの20分・・・それにしても、どうして先生は、今日は静かな教室だとわかったのだろう(予約制ではないのに)? 先生は授業料を受け取ってインスピレーションを得た。私は授業料を払って、インスピレーションを得た。私はいつも払ってばかりだ。 先生にとって、私は、間違いなくいい生徒に違いない。 |