今日の研究会での発表テーマは二つ…今月初旬に開催された高校生・大学生の研究発表とは違い、プロの研究者である大学教授の‘近代上下水道の創設と居留地’と大学女性講師の‘わが町の洋菓子~その歴史と経営学~’というものだった。どちらも研究発表としては興味深く、優れた内容だった。気になったことは…発表後の発表者に対する質問時間に、質問というよりは否定・攻撃のような内容が多く、さすがに研究者(大学教授が多かった)の多い講演会は、発表者も気が抜けないものだと良く分かった。講演者に対するこのような反応を示すのも彼らの宿命なのだろう。また、丁寧に礼儀正しく紳士的な語り口でありながら相手をズタズタに切りつけている様子は老年大学教授特有の攻撃的姿勢の表れだと理解した。この試練に耐えて研究発表を繰り返した者が、本物の研究者になるのだと思った。 いつも話しているが、私は研究者ではないので、絶対にこの人たちの前では発表などしないでおこうと肝に命じる。 発表会の後で、私の車で例の研究者を彼の自宅近くまで送りながら車中で20分ほど、グリフィスさんの滝近くの洋館についての調査のその後についてアドバイスをもらった。彼曰く横浜に行かなくてもわが町の図書館・文書館で事足りるとのこと…また新たな資料を教えてもらった。さらに法務局で過去の土地台帳を調べてみる調査方法も教えてもらった。まさに研究者の作業は探偵のそれと似ている。 来週中には、住居所在地にたどり着いて、オーストラリアの研究者に報告したいものだ。 |
今日も図書館へ行った。グリフィスさんの滝近くの洋館を探しに・・・。結論から言うとまだ分っていない。昨日調べたのは、“Japan Directory”の1920年代だったが・・・今日調べたのが研究家に教えてもらった“Chronicle Directory”の1928~1942のもの・・・ここにはアドバイス通り日本在留外国人の居住地も記されていた。1933年以降は、グリフィスさんのお店と同じ番地が個人の住所としても記載されていた。1928年から1931年までは、お店の住所の他にもう一つ住所があったようで・・・それに気が付いたときには、“やっとたどり着いた”と思った。だがよく見ると、かなり西方の海辺の住所・・・簡単に調査研究は運ばないものだ。1927年以前のものを見てみたいのに、一番知りたい年の資料が我が町にはない・・・と言っていたオーストラリア在住の研究家の言葉が重く圧し掛かってきた。さて、どうするか・・・このことで、すぐに横浜に飛ぶほど、私には研究家魂がないし、時間の余裕もない。とり合えず、海辺の住所までは分かったのだから、その近辺の役所を訪ねて当時の住民表がないか調べてみようと思う。一進一退を繰返しながら何年もかかって歴史上の出来事を、今に蘇らせる研究家達の努力と執念が日毎に理解できてくる。明日、昼から居留地研究会が開かれる。私も参加するつもりだが、改めて先輩研究家のアドバイスを受けたいと思う。 |
予定通り図書館に行った。調査関係のデスクで調べてもらうと、確かにJapan Directoryという資料はあったが、やはり貸出禁止の重要文献保管庫に保管されていた。1920年代のすべてのものを出してもらうと一冊15cmの厚さの本が8冊になり(2年間2冊は揃っていなかった)かなりの量で・・・ワゴンに乗せたまま貸し出された。残念ながら、グリフィスさんの当時の居住地は分からなかった。掲載されていたのは、彼の職場であったJ.L.Thompson商会の所在地・電話番号・役員・社員名だけであって役員住居の記載がない。せっかくだから社員の毎年の入れ替わりだけは、全て控えてきた。これで振り出しに戻った。これから、我が町の歴史研究家に今日の報告をして、アドバイスをもらうつもりだ。空襲での資料焼失が無ければ国内に残る日本語の住人台帳から分かるかも知れないが、さてどうだろう・・・その線からも探ってみようと思う。 今日は研究家まがいのことをしたが、つくづく私には向いていないと思う。同じ場所にずっと居続けるのは苦手だ。一箇所には留まれない。今日の図書館の予約閲覧席には何人かの閲覧者(研究家?)がいた。彼らは、おそらく一日中資料とにらめっこして過ごすのだろう。私には、そんな気の長さがない。我が町の研究家もオーストラリアの研究家も私とは全く違う人種だと・・・改めて思い知った。 ただグリフィスさんの住まいだけは、なんとか突き止めるつもりだ。気の短い私にもやりかけたことは、最後まで遣り通すという・・・少し熱いところもあるということは分かっておいていただきたい。 |
今日は、一日家でゆっくりした。午前中にスーパーに買物に行って料理をした。豚のブロックを買って、じゃがいものニョッキを入れたトマトベースのシチューを作った。私の味付けは、体調のこともあり少し塩分控えめだが食べた人の評判は上々…。なにより作った自分が大満足するものだった。晩御飯はあっさり卵と鶏の、ぞうすいにした。それでも昼に食べ過ぎた分…明日朝の日課の体重計測には正直にその結果が出るだろう。私の健康上の敵は体重増加…明日の昼はマダムの店でデトックスランチ(私が写真撮影してポスターやチラシを作った。)を予約している。これから数日かけて体重を落とすことになる。久しぶりの家での休日、昼寝もしたりして…すっかり生命力を回復できたように思う。 明日、図書館に行って例のジャパン・ディレクトリーを調べてみるつもりだ。ジャパン・ディレクトリーとは、日本での在留西欧人の名簿みたいなもので、毎年発行されていた。だから年を追って調べていくと、一人の人物の職業、居住地の移動が分かるというものだ。図書館の係の人に保管庫から出してきてもらう貴重な資料であり、わが町では保管されていない年があるとオーストラリア在住の研究家が言っているように思う。滝近くの洋館がグリフィスさんの家であったかどうか明日わかれば嬉しいな… |
私の家にはテレビが4台あるが、すべてアナログ(私の部屋にはテレビはない)である。来月からエコポイントが半減するそうなので、そろそろ地デジ対応のものを一台買おうかと思うのだが、問題は住んでいるところが県下でも有数の電波状態が悪い場所で、通常のアンテナでは電波を拾えない。そのため現在も近くの小学校の屋上に我ら小地区のために少し大きなアンテナをたてさせてもらい、近くの300世帯のみ特別にケーブル回線を引いている。そのため一般のケーブルテレビの進出がなく、このままでは来年夏以降見ることのできない局がでてしまう。選択肢は狭い。すべての放送を見ようとするなら電話の光回線を利用するしかなさそうだ。そう…今日何が言いたいかと言うと、私が住んでいるところが辺鄙なところだと言う事…関西でも有名な温泉街から山ひとつ越えたところだが、ちょうど山陰になっている。テレビっ子なら悲しむべきところだが、そうでなければ空気もきれいし、水もおいしい、夏は涼しく、冬は寒い…まぁー総合的に考えて悪くはない住み処だ。しかし5年以内に引越ししようと思っている。海が見えるところに… 疲れた。町の商業者の会…今日もあった。うまくいっているけれど…疲れた。 私が初めて絵の手ほどきを受けた画家が戦前(1930年代)にグリフィスさんのことを書いたエッセイが残っている。グリフィスさんの店を道路越しに描いていた画家(画家はほぼ同じ構図でグリフィスさんのお店の絵を何度も描いていた)に彼が近づいてきて、画家の参考にと…店を描いた絵の写真を見せたそうだ。その絵の原画は、実はその画家自身が描いたもので、見せられた画家は嬉しく思い、笑いながら彼の話の続きを聞いていると、彼が写真の原画を所有していると言い始めたので、(その絵は発表前の作品で、画家のアトリエにあった)嘘を言ったグリフィスさんに厳しく注意したら、丁重に謝罪したというエピソードだ。翌日グリフィスさんは、お詫びのしるしとして、その画家を店の2階の本屋に招き、洋書の画集等を見せたという。グリフィスさんは、かなり調子のいい人だったようだ… |
ふと考えた。このブログでは登場人物に関しては、勿論私を含め実名を用いずに書いているのに、何故ピアニストの智内さんだけ、名前を出しているんだろう・・・と。智内さんは、おそらくこれから世界に羽ばたく人だから特別ということもあるかも知れないが・・・そもそも私が実名を出さない理由は、もし一人でも名前を明らかにすれば、たどっていけば私が誰か分かってしまうからで(しかし、あなたは、すでに私は誰かご存知だと思うが・・・)・・・、智内さんの名前は適当な時期に仮名に変更しておこうと思っている。この間のコンサートにはNHKテレビがカメラをもって取材に来ていた。彼はコンサートが終わってすぐにNHKのラジオのインタビューを受けるためにスタジオに向かった。そして、夜中には翌日の東京でのコンサートのために夜行バスに飛び乗ったらしい(夜行バスで行くところが庶民的だな・・・もう少し儲かったら飛行機になるんだろうな・・・)。まぁー彼は、近い将来、とても大きな音楽家になるに違いない。はやいうちに映画音楽の作曲を真剣にお願いしたほうがいいかも知れない。 ネットのなかで、私の職場の近くにある山の上にある公園の写真を見つけた。紅葉の山を近景に海上都市を臨む写真だ。この公園には20年近く行っていない。久しぶりで登ってみようと思った。 オーストラリアの研究家から返信メールが届いた。滝近くの洋館はゲイシャ・ハウスではなく、グリフィスさんの家であることは間違いないとのこと・・・この件に関してはウィリアムズコレクションのなかに記載されていると言うのだ。ただし戦後補償の裁判では、この屋敷は対象にはならなかったようで、戦前に違う場所に転居したのであろうとのこと…。おまけに図書館(我が町か・・・横浜開港資料館)で1920年からのジャパン・ディレクトリーを調べてみるように指導いただいた。今週中に我が町の図書館に行こうと思う。この場所が今はどのようになっているか分からないが、自分自身がその跡地に立ってみるという実体験が私にも大切に思えてきた。少し研究家魂が芽生えてきたのかしら・・・ |
昨日のステージは2回公演・・・6時から食事(コース料理)がスタートし7時からライブ開始で8時半終了・・・お客様が入れ替わって8時半から食事がスタートし9時15分ライブ開始(2回目はサービスが慣れているので、お皿だしのペースが少し早い)で10時15分終了の2ステージだ。町場のイタリアンレストランだから、出演者の控室もなく、ライブの間、私は店の外からガラス越しになかの様子を伺いながらラストの曲を待った。周囲の環境は未知の下町の繁華街・・・肌寒さを感じながら一人で数時間、夜空の下でじっとしているのもつらく退屈で・・・途中、座を外しサンマルクカフェでコーヒーを飲み、手洗いを借りた。イベント終了でお客様が席を立たれてから撤収開始・・・今日も、先生と私は他の出演者が引き揚げたその後で我が町へ向け車を出した。高速道路への乗り口が分からず迷ったもので、予定より時間がかかって会社に到着・・・それから家路についたものだから結局帰り着いたのが翌日の1時過ぎ・・・酒を飲まずにこの時間に帰ることは、最近は、まぁー無い。それでも深夜の大坂の町中や、がらがらの高速道路を運転できて良い経験ができた。 肝心なことを言い忘れたが、昨日のボーカルは2000年のジャズボーカルコンテストでクィーンに選ばれた一級のボーカリスト・・・その他、ピアノ・ベース・ドラムのメンバーも関西40歳代のミュージシャンとしては、トップクラスの人達であったこと。そして、私たちのための、まかない料理はさすがにメインディッシュはなかったものの、一般客と同じ前菜とパスタでもてなされたことを書いておこう。料理につられて来年も、またやって来たい会場である。 滝近くのグリフィスさんの自宅場所を特定するため、我が町在住の例の先輩歴史研究家に、調査方法(どこで何を調べればよいか・・・)を尋ねた。彼は丁寧に図書館でどの資料を引っ張り出せば良いか教えてくれた。同時にグリフィスさんの自宅は、英三番館(居留地近く)の敷地内西側にあり、滝の近くの家というのは、検番(ゲイシャ・ハウス)が所有していた屋敷だと主張した。私は、真実がどうなのか悩んでしまった。ともかく、本の作者であるオーストラリア在住の研究家にグリフィスさんの家の情報源に間違いないか問い合わせるメールを送ることにした。 |
今日は、昼から大阪の堺へ行く予定…イタリアンレストランで催される年に一度の好例の音楽イベントのためだ。音響の先生の車が壊れたので、私の車に機材を積み替えて行く。午前中は会社で仕事して、二時半出発予定…家に戻れるのは、明日になりそうだ。とてもゆっくりブログを書いている時間がなさそうだから、今書いておこうと思って真夜中に起きてきた。そうだ…高速道路の一部が全面通行止めで改修工事をしていることを思い出した。早めに出たほうがいいかも知れない。 今日は、こんな一日…ブログもこの程度にしておこう… さて、もう一寝入り… |
今日の昼、智内さんのチャリティーコンサートが私たちの会場であった。なんのチャリティーかは分からない。全員で25名ほどが参加していただろうか・・・別室で壁を隔てて聞いていたが、私のレベルでは片手で弾いているというふうには聞こえない。かなり音楽の造詣が深くないと両手で弾いている人の演奏と何が違うか分からないと思う。幾つかのことを感じた・・・一つは、人間が持つ底知れない潜在能力・・・なくした右手の音を半分の指(5本)でカバーできるということ・・・そういえばフランス人でジャンゴ・ラインハルトという左手の指が3本のギタリストがいたけれど、彼も5本健在の人に負けない早弾きで有名だった。もう一つ感じたこと・・・ハンディを持つ人は、最初からその目で見られてしまうが、ハンディを持つ人のなかでハイレベルの人は、健常者と比べても見劣り(聴き劣り)しないレベルまで達している・・・いや健常者にはできない演奏で、聴く人に感動を与えようとしているように思う。智内さんは、世間の目(耳)を充分意識しつつ、いつか“左手だけの”という紹介時のフレーズが消えていくことを、日々切磋琢磨しながら、待ち続けているように思った。 そんなことを考えながら、今日は初めて智内さんのCDを購入して、車のなかで聞きながら帰路についた。 思ったよりも暗かった。 日本が第二次世界大戦に参戦する前年1940年1月にグリフィス氏は、スパイ容疑で半年間拘留された。それは、彼が他の外国人に比べ日本に関する深い知識があり、彼が出版に関わった書物が天皇、武士道、日本人の精神論を解説するものであったこと…、彼の行動範囲が日本の上級士官や政治家と重なるところがあったこと…、それに彼のお店に出入りしていたオーストラリア人がスパイ容疑で先に拘束されたこと等によると思われる。当時日本国内の世相は、前年1939年に火の手が上がった反英運動の流れのなかでスパイに対して非常に敏感になっていた。 |
ギター教室に行った。レッスンの途中で、先週先生に話をした…先生が演奏始めると変化する呼吸法について、今週もかぶせて聞いてみた。「先生は、先週自分の演奏中の呼吸法の変化について聞こえない音や鳴っていない音を聴こうとするからとおっしゃいましたけど、確かにそれはあると思いますが、それだけでは無いように思うのですが・・・」と尋ねると「そうやねん・・・、あなたが呼吸法のことを言うもので、実は3・4日前から演奏で変えたことがあって・・・聞いてみて・・・」と言って、弾き始めた。「分かった・・・?以前はこう弾いててん・・・」と、弾き始めた。「分かった・・・?以前は最初からいい演奏しようと思って力が入りすぎてたんやけど、呼吸の仕方を指摘されて、出だしは軽く弾き始めるようにしてね・・・今、その感じで、他の曲も見直してるのよ・・・」ということだった。それは、先生の演奏が力み過ぎていると私が言ったみたいだけど・・・そうではない。だが反論はしなかった。「先生・・・私が先生に課題を与えたってことですか・・・?」と言うと「そうやね・・・有難うございます。」と先生がおっしゃった。 気づきと言うものは、人から与えられるものではない。自分自身が手を伸ばして掴むものだ。私が先生の気づきのささやかなきっかけになったのであれば喜ぶべきことである。先生が取り違えただけに違いない。私の疑問が直接新たな展開を産んだのではないことは、よく理解しているつもりだ。 グリフィス氏の写真が僅かに残ってる。紋付袴に扇子を持ったもの・・・もう1枚は背広を着て芸者と並んで月見をしている二人の後姿を写したもの・・・どちらの写真も日本文化を愛した彼の精神が表れている。実際に能・茶の湯をたしなみ、日本の歴史・芸術・文学について一般の日本人以上に深い造詣を持っていた彼は、同時に芸者の踊りや唄等を日本の伝統芸と理解し、遊びもおおらかであったようだ。当時珍しかったキャラメルを芸者に配り彼女達から親しみを込めて“キャラメルさん”と呼ばれていた。また自宅での茶話会に芸者達を招くなど、日本での独身生活を屈託なく楽しんだ人物である。 |