今日は、あるホテルでの仕事を済ませ家路に着いた。私は毎日約20分ほど全く交差点や信号がなく、街灯もなく携帯電話も圏外の山道を通っているのだが、11時を過ぎるとその道は通らない。と言うより“通れない”・・・11時から5時まで警察が車の通行を遮断する。この道はいわゆる“走り屋”と言われる市民レーサーのサーキットとして格好のカーブを有する道で、以前事故が多発したため規制が始まった。 今日は10時45分にこの道に入った。夜中にこの道を通る時、私は三つのことを気遣う。一つは、対向車線をはみ出して突っ込んでくる“走り屋”・・・もう一つは、赤い目をした“イノシシ”・・・親子で車道を横切ることが多い。今日も出会ったが珍しく一匹(頭?)だけだった。もう一つは得体の知れない“モノノケ”のたぐい・・・私はこの道ではバックミラーは絶対見ない。いまだ追いかけてくる何者にも出会ったことはないが、背筋に寒気を覚えた時は、呪文を唱えながら走るようにしている。 今日も無事に帰れた。 |
昨日、ホテルへ向かう途中、タクシーに乗った。運転手さんに景気を尋ねた。テレビで報じている通り・・・“悪い”とのこと。 忘年会が減っていているためか年の瀬が近づいても町に人が出ていないようだ。おまけに我が町は、ビジネスホテルが乱立し価格競争に入っているらしく、ホテル業界も厳しいようだとのこと・・・ レストランのシェフに聞いてみた。今年のクリスマスはこれまでになく予約が少なく、ランチの予約は入っているがディナーはクリスマスメニューの価格を伝えると、予約に至らないとのこと・・・ パン屋の主人に聞いてみた。最近夕方にタイムサービスを始めたら、どこから来るのかお客様でいっぱいになるとのこと・・・ 本当に世の中が変わった。 クリスマスが馬鹿騒ぎしたり、憂さ晴らしする時ではなく、恋人どおしで楽しいひと時を過ごすための日ではなく、本来の意味であるキリストの降誕を祝う日になるのかもしれない。 私は、クリスチャンではないけれど・・・そう思う。 |
“スパ”と言っても温泉ではない・・・パスタのことである。今晩はパスタを作った。イタリア産ドライトマト、オリーブ、そして松の実が残っていた。そして昼間に有機野菜を作る農家の奥さんに呼び止められて、苦味のある珍しい野菜を買った。高かった。 大体、男は余分な物を買いすぎる。自分の料理はおいしいと思うが・・・材料にお金をかけるから“おいしくて当たり前”という話も納得できる。 今日は全部入れた。 おいしかった。 次は材料ではなく“味”で勝負だ・・・ |
“Merry X'mas & A Happy New Year.”の“A Happy New Year”と“Happy New Year”の違いを今朝ラジオを聞いて初めて分かった。“A Happy New Year”は“良いお年を”の意味だが“Happy New Year”は“新年おめでとう”という意味だそうだ。だから年内には“A Happy New Year”は使えるが“Happy New Year”は新年になってからでないと使えない・・・ラジオを聞いて得した感じ。 Merry X'mas & A Happy New Year. 幸せでありますように・・・・・ |
新型インフルエンザの予防接種を受けた。私の周囲で新型にかかった人は一人だけ・・・それも仕事関係の人でお盆明けにかかって1週間会社を休んだけれど、家族も会社の人達も誰にも感染しなかったようだ。どちらかと言えば私には違う世界の病気だったように思う。有難いと思うべきなのだろう。 この度、念のために接種したが、その際、主治医から聞いた。 来年のインフルエンザシーズンには新型ではなくなっいて、通常のインフルエンザとして季節性のインフルエンザの予防接種のなかに含まれるとのこと・・・ 私は、安全性・信頼性に少し不安の残るワクチンを接種した貴重な存在になるかもしれない。 安全性・信頼性が確かなことを祈る・・・ |
今日は疲れた。どうしてかと考えてみると・・・きっと、“アバター”を見たからだと思う。前回、松本人志のシンボルを誘ってくれた若い友人から急に誘われ観に行ってきた。ストーリーのことはさておき、立体映像・CG・モーションキャプチャー・・どれをとっても今まで見た映像のなかで群を抜いた素晴らしさだった。疲れの原因は、立体映像に馴染みのない私の頭が、新しい刺激に長時間さらされたからだと思う。普段使わない脳の一部が活性化し疲労感を呼んでいるに違いない。この刺激を味わうために是非、ご覧になることをお勧めする・・・ ストーリーはと言うと、ジェームスキャメロンだから間違いはない。彼の次回作品は2年後に日本人原作の映画化になるらしいが、楽しみにしたい。 立体画像用のゴーグルの下で感動の涙を流したが、ただ2回続けて見れるかと言うとだめかも知れない。 1度は見ておくべき作品だと思った。 |
10歳年上の友人は以前事業に失敗し多くのものを失い、復活しようと日々努力しているが、いつまで経っても道が開かれない。一つのことに専念した時の失敗のリスクを考え、いろいろなことに手を出し、全てが中途半端に終わっているように思う。一つの事に集中できる人は、同時に二つことに成功する可能性をもつが・・・一つのことに集中できない人は、何も勝ち取ることができない。これは当たり前のように思えるが、人生経験の豊富な私の友人でさえも成功の道を歩めない。そしてうまくいかない理由に、他のこともやっているので集中できないからと言う妙な納得を繰り返す。失敗のリスクを押さえ込めるだけの練習とか、努力とか、度胸とか、楽観的な平常心とか、ある意味馬鹿な不器用さがないと、欲しいものは手に入らない・・・私は年上の友人にこれからも、馬鹿になれと言い続けたい。 だが、今更65歳の人に、言っても仕方のないことかも知れない・・・と、少し思っている。 |
息子が中学生の頃、私は彼にこう教えた・・・「嘘がすべてダメとは言わない。ただし人を不幸にする嘘はダメ!人を幸せにする嘘は時と場合によってよしとする。そして後で嘘と分かる嘘はついてはいけない。」と・・・数ヵ月後、ひょんなことで、息子がある人に話したことから、私の教えをどのように理解したかが分かった。彼は「嘘をつらぬけ!」と理解していた。 人に自分の思いを伝えたいと思う時、その人の理解力、人生経験の程度、そして聞く耳の方向を推し量らなければ、思いは伝わらない。 その時の経験が私の教えとなった。場合によっては、その人が成長し、壁にぶち当たり、或いは友人や恩師や恋人の心を突く一言を待たなければならない。 待てると言うことが、私と息子との距離の近さに違いない。 明日私は、息子と二人で忘年会を考えている。 |
子供を育てるのは50歳を過ぎてから・・・と、ある本に書いてあった。その理由に、その年齢になるまであなた自身が子供だから・・・と書いてあった。 私は、この意味が50歳を過ぎた今、やっと分かった。親子の関係は、友達同士でいいんだと・・・同じ視線で喜び、悩み、涙する・・・だから話し合える。親の顔をした親に、本当の自分の気持ちを話せる子供って少ないと思う。その視線は親が合わせてあげないと、子供からはそのスタンスはとれない。子供の優れた部分を理解し、それを敢えて言ってあげて、自分自身の弱さも子供に晒して・・・それでやっと子供の心が開かれる。親の自分も子供から教えてもらうことがあるんだと分かったときに、やっと親になれるんだと思う。 私の子供が、よくできた子供だと思われた方もおられるかもしれないが、そうでもない。 これが親というものかも知れない。 石川遼のような子供を持つ親はなかなかいないのだろう。 |
イギリスのコベントリーと言う村に“ゴディバ王女“がおられた。あるとき王様が村人にそれまでより多くの租税を課すと決めたとき、生活に窮する村人のためにゴディバ王女は王様にやめてほしいと嘆願した。王様は、もし王女が一糸纏わぬ姿で村を歩くことができたなら、税を重くするのはやめようと答えた。王女は次の日、馬に乗り本当に裸で町の中へ出た。このときすべての村人は扉と窓を閉ざし、王女の姿を見ないように静かに時の過ぎるのを待った。この物語が、犠牲的な精神で民の幸福を願った献身の象徴としての王女ゴディバの物語である。 私は、コベントリーのどこかの街角に掲げられていた直径30cmのブロンズのレリーフを持っている。チョコレートのゴディバのシンボルとは逆向き・・・左向きのレディーゴディバである。これは、私の宝物の一つである。 |