私より優れた能力を持つ人は世の中に、いっぱいいるけれど、私ほど私らしい人は、私しかいない。 存在感とは、色・音・形・スピード・匂い・触感・話し方・考え方・知識量・発想力・指導力・経済力・継続力・美的感覚・愛する気持ち・客観性・感謝の気持ち・恩を大切にする気持ち・足らずを補う力等々、いろいろな要素のバランスによって生まれる。 そう考えると、私らしい私が誇りに思え、すべての存在を愛せる気持ちが生まれ出る。 すべては唯一無二の存在であり、愛されるべき存在なのだ。 |
誰かのために、なにかをする…なんてことは、私にはあり得ない。 少しでも、誰かのために…と言う気持ちがあったなら、必ず自分のなかで言い訳が生まれてくる。 自分がやりたいことをやっている。 そう考える習慣をつければ、誰に腹を立てることなく、常に前向きになれる。 間違いなく、そのように考えたほうが、ストレスをかかえずに生きていける。 |
知人の教授は、宝くじは買わない。 彼女は、宝くじなんかに頼らないで、欲しいものは自分お力で掴み取りなさい…と、私を戒める。掴み取ってきた彼女の人生がそう言わせるのだろう。 昨日、昨年末に買ったジャンボ宝くじを見てもらいに売場に行った。毎回…20枚6000円分を買っている。年末に見てもらった時には3000円当たっていた。それから年初に参加したビンゴゲームで3000円の当たり宝くじを手に入れた。 売場のおばさんに“当たってるんです”と言って、手渡した。結果は6600円が当たっていた。 大当たりに、毎回近づいている。近いうちに5.5億円が手に入るに違いない。 宝くじに関しては、私は教授と真っ向から考え方が違うようだ。 |
心の痛みや、おもいやり、人の情け、感謝の気持ちというものは、教えられて知ることではなく、体験を通して身に付けるものだ。 知るためではなく、納得するために生きていると信じることのできるものだけが、望むものを手に入れることができる。 そうすれば自分の人生は、すべて自分で選んだものだという事…、 自ら見ようとした物以外には見えていないとう事…が腑に落ちるのだ。 生きるということの全責任は、すべて自分にあると腑に落ちるのだ。 |
静かで…、たいした心配事もなく…、平和である。 最近、以前に比べ、感謝する時間が減っている。 辛くて、不幸な時に感謝の気持ちを持つことは難しいけれど、 平和なときに感謝の気持ちを持つことも難しい。 どんなときにでも、どこでも、誰にでも… 感謝の気持ちを持ち続けられる自分でありたいと思う。 ありがとうございます。 ありがとうございます。 …と、二度呟く |
昨晩、マダムの店の外から薔薇のおじさんがマダムと話をしているのが見えた。いつものように軽く挨拶して帰ろうと、店の扉を開けた。薔薇のおじさんは、私と同じ大動脈解離になり手術はしなかったが食事療法と投薬を続けている。その後癌で手術もしたから、見るからに不健康そうである。 話しの拍子に死後の話しになり、私の考えている‘死’について話すと、おじさんは真剣にいくつもの質問を返してきた。 ふと、おじさんが‘死’を恐れていると感じ、さらに力をこめて私が死を恐れていない理由を話した。 どれだけ、おじさんに勇気を与えられただろうか?別れ際…おじさんの顔の強張りが薄らいでいた。 死に直面した時、その痛み・苦しみ・恐怖は、私も拭い去ることはできない。しかし、それを望んでいる自分もいることを私は確信しているのだ。 |
昨晩、ある事故の責任の所在を問うために工事業者と話をした。明らかに工事の不備によりに起こった事故であるが、工事業者は根本的責任が他にあると言い張った。 話が進まない…。 私は“あなたの言い分が分からないわけではない。だけど、あなたが責任を回避すると迷惑をかけたところへの謝罪をするものが誰もいなくなる。あなたは、ご自分には責任がまったくないと思っているのですか?”と、問うた。そうすると彼は黙った。 話がこじれればそれなりの費用を払って第三者の世話になることになる。賢明な者同士なら時間をかけずに当時者同士…数字で片を付ける。 そんな妥協点をみつける私のやり方に、“甘い!”と言う人がいる。 だが、私はそんな進め方しかできない。振り返ってみて、それなりに決着がつき損をしたと言う記憶がない。 自分のやり方で。これからもやるしかないと思うのだ。 |