建築物を見る時、私にとっての本物の建築素材は、天然木・自然石・金属・ガラス…である。そしてそのなかで厚さのあるものには重厚感を感じる。 近くで見たり、たたいてみたり、触ってみると、合板やシートでは味がない。私と同じ見方の整理の出来ていない人でも、本物の建物のなかに入れば、言葉にはならなくても本物の良さを感じると思う。 私も、黙っていても、そんな存在感のある人間になれたらいな…と、思う。 |
私が若かった頃、外国の一人旅をしたことが、美しさ、戦争、恐怖、危険、思いやり、どろどろしたもの、合理性、宗教…等、私のなかに自分の価値観を作り上げたと思っていた。 今日の午後…ふと思った。 それら価値観の確立以上に、自分が思ったこと、望んだことのために自分が動くという事を身に付けたことが大きな収穫だったと…。 自分が信じるもののために、自ら動くことは、人間としてとても大切なことだと痛感した。 |
昨日、農学部の教授と共に、町のなかを歩いて植栽を見て回り、その途中、樹木の剪定の仕方を教えられた。 添え木で真っ直ぐ上に延びる道筋をつけ、余分な枝を切りながら芯になる幹に栄養がしっかり行きわたるようにする。そして伸びる枝、成長に必要ない枝を判別し剪定する…と言うことだ。 まるで、子供に対する親の接し方のようにも思える。 逞しく育つ雑草もいいけれど、できれば空に向って大木に育ってほしいというのが親の願いだ。 先生はまたこんなことも言った。‘切り方が分からなくても、切ってみたら、どう伸びるか分かってくるから、ともかくやってみたらいのよ。’ …そう…切ることも大切なのだ。それが親の務めだと思うのだ。 |
ギターの弦を張った。 久しぶりに弾くギターの音は少し…ぎこちない。 長い間乗っていなかった自転車に乗って、勘を取り戻すよりも時間がかかる。 しばらくすると指が動きはじめた。 それでも以前のようには運ばない。 弾くことに気をとられ、心が入って行かない。 弾かなかったブランクを埋めるのにどのくらいの時間が必要だろうか? 続けているものを止めるというハンディをもったのだと気がついた。 やりはじめたことは、できるなら続けたほうが良い。 自分の周囲の環境は変化しても、 続けられる環境を保つ努力は必要だと思う。 今から、また少し弾いてから仕事にもどることにしよう。 |
人には、いろいろな人格があり、危機に直面した時、死を目の前にした時、損得や愛欲が絡んだ時、プライドが傷ついた時、愛する者をまもる時等に、普段表れない人格がその人に宿ることがある。 だから、普段目にする友人とは違う人格を友人のなかに見た時、驚かないで…どちらの人格も同じ友人だと受け入れられるくらい客観的な接し方をしておいた方が良いような気がする。 決して、裏切られたと思ったり、買い被らないほうが良いように思う。 |
二日間のイベントで、よくしゃべった。私は自分で言うのもなんだが、自分のことを寡黙だと思っているのだが、ともかくしゃべった。 最近行動をともにしている教授が、“英語がしゃべれるかどうかは、しゃべりたいことがあるかどうかだ。”だと言っていたが、それは私にとって日本語でも同じだと思う。私が二日間しゃべり続けたのは、伝えたいことがあったからだと思う。 ここ数日を経て、疲労を伴う達成感がある。こんな経験をもった後は人生が変わるかもしれない。 私はこれからも、しゃべり続けるのだろうか? 寡黙でいたいのだが…。 |
数日前にギターの先生が私を訪ねてくれた。先生が改造した私のギターのブリッジの駒を失くしてしまい、弾けなくなっていることを知ってわざわざ持ってきてくれたのだ。 昨日居留地研究会の事務局長が私を訪ねてくれた。しばらく研究会に出席していないので、近くまで来たから寄ってくれたのだ。 彼らは、私のこれからの人生でも大切な人なのだと思う。 気にかけてくれる人がいることは、有難いことだと思う。 |
今日は一日中、太陽の下で昼食をとるのも忘れ、イベントにやってきた人たちに地域の歴史を話して聞かせた。 益々陽に焼けていく。好きなことをやっていて楽しい筈なのに、足に疲労感が溜まり、腰にキリッとした痛みが走る。 市長がやってきたので、いっしょに写真を撮った。会員の勧誘をすると、昨今…公私混同がとやかく言われる時節柄…自分の名前を書いて反対勢力からつっこまれなないように、奥さんの名前で申し込みして帰った。 いろいろ気を使っているものだ。 腰には気を付けようと思う。イベントは明日も続く。重たいものは持たないようにしようと思う。 若くはない。若くはない…とつぶやく。 |
今日は、市への町の活性化案のプレゼンテーションと苗運びに、フライヤーのデザイン・・・・忙しくて、まだ終わらない。 なにも書けない。 |