クラシックギター教室に通わなくなって14ヶ月が経過した。私はギターが上手くなりたくて習っていたのではなく、ギターで弾きたい曲があったから習っていただけのことで、決して他人に聴かせるために習っていたわけではなかった。 弾いてみて自分(他人ではない)で合格点がとれた時に習うのをやめた。実際弾けるようになってから誰にも聴かせたことがない。 半年前に先生からギターとは関係なく、世間話をしに教室に寄ってくれとメールが入り、近いうちに寄ります返事をしたがそのままになっていた。 10日ほど前に、ギターの弦を替えようとして弦を緩めたら、サドル(張った弦の根元の部分の駒)が二つ何処かに飛んで見つからなくなってしまった。本来サドルは6本の弦全てを支える一体型だが、習っていた先生のギター理論で一弦ごとに分離した仕様に改造されていた。その時以来弾けなくなってしまった。 サドルも修理だけに先生のところを訪ねるのも気が引けて、ギター専門店でパーツを買ってきて自分で直そうと思ったが、その場合削ったりして調整が必要になる。そんなこと普段やったことがないから、上手くできる自信がない。やっぱり先生を訪ねるべきか迷っている。 それにしても、いまだに先生の呪縛から逃れられないとは、すごい先生に習っていたと気が付いた。 先生と話をすることが大切な時期にきたのだ。 これも運命と思う。 人生には、すべて意味があるのだから、先生を訪ねるべき時が巡って来たのだと自分に言い聞かせる。 |
過去に経験した楽しかったこと、苦しかったこと、痛かったこと、嬉しくて涙したこと、辛くて涙したこと、有難いと思ったこと、緊張して体が動かなかったこと、怒りに心震えたこと・・・自分の経験を全て忘れないでいられたら、今と違う人生が歩めるかしら? 私の多く記憶が薄れ消えていく。 たまに振り返ってみたい。決して完全に忘れてしまうことはできないものだし・・・・。 忘れていくってことは幸せなことなんだろうけれど、私は自分のこれからの人生のためにできるだけ多くもことを覚えていたい思う。 |
2週間に一度、簡単な診察と薬をもらいに、会社の近くで開業する主治医を訪ねている。最近咳が出るので、2日前に病院に行ったときに相談したら、うがい薬とトローチと花粉症の薬を増やされ。この季節、PM2.5や花粉症や風邪やら、私にとってはややこしいい季節だ。 今日、昼に蕎麦屋で昼飯を食べていたら、主人が昨年PM2.5で入院したと言った。日本でも被害が出ていたとは知らなかった。私も影響を受けているのだろうか? もし私が江戸時代に生まれていたなら、もう、とっくに死んでいただろう。長生きは薬の御陰だと重々思うけれど、こんなに薬漬けでいいのだろうか?…と不安になる。ともかく、私はこれ以上服用薬を増やしたく無い。薬に頼らないでいい生活をしてみたいと思うのだ。 |
今朝、友人に樋口季一郎の話をしていたら、私自身が感極まり嗚咽し、涙で言葉が出なくなってしまった。こんなことは今までなかった。 樋口季一郎は日本陸軍の武官で、終戦後に北海道守備隊を率いて進軍を続けたソ連軍に抵抗した指揮官である。同時にユダヤ人社会のなかで、同族(ユダヤ人)で、世界で傑出した人物が登録されている『ゴールデンブック』に名前が挙げられており、ユダヤ人から尊崇の念をもって記憶されている。彼はユダヤ人の血を引いてはいない。 日本の表側の歴史教育のなでは、光の当たらない人物であろう。敗戦国故に彼の功績は忘れ去られる運命を辿った。しかし、私にとっては尊敬に値する偉大な人物である。 もし、彼をご存じなく興味をお持ちになったら、一度調べてみられてはいかがだろう。 それにしても、涙もろくなったものだ。これも年をとったせいだろうか? |
先日、知り合いの女性の婚約を祝う会があり参加した。その場には、お相手の男性も来ており、その時点で集まったメンバーは誰も彼の職業をしらなかった。自己紹介の際、彼は50歳で税務署に勤め、以前は査察官(マルサの女みたいな仕事)も経験したと言った。 その集まりには経営者もいたし、税務署の管轄が同じ人もいたから、みんな迂闊なことを言わないように身構えた。自分が脱税しているわけではないが、彼を前にして、自分が儲かっているとは言いにくいし、はなしがもりあがった拍子によその会社の噂話をして、迷惑をかけることがあってはいけないから、話題を慎重に選ばないといけない。 彼は自分からよくしゃべった。さすがに実名はあげないが、際どい話も飛び出してきた。その反面誰かが話を始めると鋭い目をして聞き耳立てている。仕事柄だとは思うが情報収集力と物事を関連付ける能力は際立って見えた。 そんな彼の様子を見ていると、“あまり近づきたくないオーラ”が出ている。彼との今後の関係をどうしようか思案する。距離を保つべきか、それとも踏み込んで親しくなるか? 悪い人ではないのだが、税務署員との付き合いは、なかなか難しいものだと思った。 |
それぞれの人たちが、それぞれの未来を考え生きている。 小学生の頃は明日の宿題のことで…、高校生になって好きな人のことで頭が一杯で‘今’しか見えない時期ってあるけれど、そのうち進学や就職という現実が目の前に表れ、将来のことを考え始める。自活して生きることに自信がもてた頃に結婚し、家のローンを組み、子供が成人するまでの生活設計をし、子供達が家から離れる頃になって老後の人生を考える。 私たちが考える未来は、たかだか20年先のことくらいだろうか?それも家族単位くらい…自分を中心にしたことばかり。 50年や100年のスパンで未来を見ている人は、世の中にほとんどいないに違いない。 私も、年と経験を重ねて、世の中の流れが見えてきた。 一族や、国や、地球単位で未来を見ている人達の考えに耳を傾けてみようかしら。 きっと、世の中のすべてが今までと違って見えてくるかも知れないな…。 |
朝電車に乗ると、一塊になった女子学生の存在感ある声だけが車内に響いている。それ以外の通勤客のほとんどは、うつむいて目を閉じているか、他の客と目を合わせぬように外の景色を見ているか、スマートフォンを見ているか…、以前に比べれば小説や新聞を広げる客の数が少なくなったように思う。 笑顔の人が全くいない。ほとんどの人が申し合わせたように憂鬱そうだ。これから学校や職場で始まる他人との関わりが重荷のように見えてくる。この時間に電車に乗る人は、ひょっとすると今の人生に満足できていないのではないかと思ってしまう。 案外と、乗り合わせた子供達は、電車のなかでこんな大人の姿を見て、社会とは辛く、て面白くないものに違いないと学習するのかも知れない。 さて、私はと言うと、他の客と同じように無表情な顔を決め込んでいる。通勤電車のなかで一人で笑っていると怪しく見られてしまうし…、そう考えると笑顔でないからと言って、別に人生が辛いわけでも憂鬱でもないのかも知れない。多少眉間に皺をよせている人がいても、それが通勤時では普通の顔だと納得すべきだと自分に言い聞かせる。 ただ、通勤時の電車のなかの女性が、美しく見えないのは確かである。人間には笑顔が大切であると電車に乗ると考えさせられるのだ。 |
一昨日の夜の8時半頃、マダムの店に日本語がしゃべれない東洋人がやってきて“パスポートと財布を紛失して困っているので、シンガポールの父親に電話をかけたい。ついては5000円貸して欲しい。”と、あまり上手くはない英語でマダムに話しかけてきた。マダムは、それなら大使館を訪ねるべきだと言ったら、大使館は東京にあって遠すぎるし、警察や教会にいっても取り合ってくれないので困っている答えたそうだ。 男はノートに自分の名前とID番号と称する数字と父親の経営するシンガポールの法律事務所の住所と名前とメールアドレスをマダムにに差し出し、マダムは5000円を渡し自分のメールアドレスを教えた。男は深々と頭を下げその場を立ち去った。 翌日、午前中に男の父親から英文のメールがマダムに届いた。“息子に340000円送金した。その中かから50000円をあなたに渡すように命じた。現在息子はお金がないからホテルに泊まれない。もうすぐお金が届くから後払いで泊まれるホテルを紹介してもらえないか。水曜日には自分も日本に行くのでその際お礼にそちらに立ち寄らせてもらう。”と、書かれていた。マダムは“ホテルは、シンガポールで代理店を通して予約決済されたらどうですか?”と、返信した。 その日の午後2時頃、男がまたマダムの店にやってきて、“父親からメールは届いたか?昨晩はコンビニで寝た。水曜日には父親といっしょに来るのでその時には借りた金を返す。それまで、状況を報告しに毎日やってくる。”と、言ったそうだ。マダムは、“5000円だけ返してくれたらいいいので、もう来なくていい。”と言って男を帰した。 私はこの後、この度のやりとりを聞き、マダムに今の状況が非常に危険な展開になる可能性があることを告げ、一緒に派出所に同行し、夜間巡回時にマダムの店を立ち寄ってもらうように依頼した。 本当に男が財布とパスポートを失くして困っていただけで、貸した5000円は何事もなく返ってくるかもしれない。それでも、災難の降りかかる可能性のある善意の扉は、もう開けない方が良いとマダムに伝えたかったのだ。 一度扉を開けると、閉まらないように足をこじ入れられることがあるからだ。 |
私は以前、女性ばかりのスタッフでウェディング関係の会社を経営していたことがあり、今朝当時の一番信頼していた部下から電話が入った。声を聞くのは10年ぶりだろうか? 懐かしさと嬉しさがこみ上げたが、彼女の声に陰りがあり、心当たりのない訃報を告げられるのではないかと腹をくくった。話を聞くと、思った通り…、いっしょに仕事をしていたヘアメイクの会社の女性社長の突然死を告げられた。私より一回り若かったから、まだ40才代だろう。若くして子供を抱え離婚し、その後再婚離婚を経験し、女手一つで子供達を育てていたように記憶する。もう彼らも成人したに違いない。 逝った彼女は、以前私に“将来は死化粧の仕事をしてみたい。”と言っていたことを思い出した。このたびの彼女の死化粧は誰が施したのだろうか? 明朝、大好きだった自宅から出棺するようである。私も陰から見送りに行こうと思う。 知らせてくれた元スタッフとは、明日出会った時に話せば良いと思い、余計な時間をとらずに電話を切った。 一度死にかけたことのある私は、死は、誰の場合にも音もなく忍び寄るということを、肝に銘じた。 |