白い馬 高田 敏子 波の後ろを走る波・・・・・ 波の前を走る波・・・・・ 海には 白い馬が群れている 春の朝 白い馬は 陸に駆け上がり 少年たちの姿になって走り続ける やがて その若い光の一列が みさきのほうへまがってゆく 高田敏子は、子どもの詩だけでなく、大人向けの詩も書いている詩人だ。「こんにちはおひさま」「高田敏子詩集」「噴水のある風景」などの詩集がある。 「白い馬」は、ファンタジー詩である。 1連の〈白い馬〉を、現実の白い馬とみるならば、2連の〈少年たち〉は、現実の少年たちではない。 2連の〈少年たち〉が、現実の少年たちであるならば、1連の〈白い馬〉は、現実の馬ではなくなる。 どちらがいいのだろうか。 私は、どちらでもいいと思う。 もっといえば、どちらでもあり、どちらでもない、ということだ。 それがファンタジーなのだ。 ファンタジーというのは、現実ではないということではなく、現実でもあり現実でもない、イメージの世界なのである。 詩は、イメージの文芸だ。 詩のはじめから読んでいって、さいごまでイメージがつながっているのなら、詩として成りたっているのである。 波が、繰り返し打ち寄せて、白い波頭が立っているイメージは、白い馬のイメージにつながる。 駆ける白い馬のイメージは、春の朝、白いシャツを着て走る、少年たちのイメージにつながっていく。 少年のイメージは、若い光のイメージになるし、その若い光が、岬のほうへ曲がっていくのは、波打ち際が岬のほうに曲線を描いて伸びていき、波が打ち寄せている、詩のはじめのイメージにつながる。 波、駆ける白い馬、走る少年たち、若い光の烈と、くりかえされている躍動感あふれることばは、イメージのつながりが、無理なくできている。 一つひとつのことばが、躍動感があると同時に、それがくりかえされることによって、この詩の躍動感を、より高めているのである。 くりかえしには、ことばの意味のくりかえしと、イメージのくりかえしがあるのだ。 「白い馬」は、イメージのくりかえしが、みごとなファンタジー詩を作りあげている。 すべての詩が、イメージが大切だが、とくにファンタジー詩は、イメージのつながりで成りたつ詩だ。 |