祖母 三好 達治 祖母は蛍をかきあつめて 桃の実のように合わせた掌の中から 沢山な蛍をくれるのだ 祖母は月光をかきあつめて 桃の実のように合わせた掌の中から 沢山な月光をくれるのだ 詩は、イメージの文芸だといわれる。 そのイメージをつくりあげる、だいじな要素に比喩がある。 この「祖母」の詩も、比喩表現の豊かな詩だ。 祖母に桃の実は合わない。ふつう、祖母といえば梅干し(失礼)だろう。 それを、祖母の手を、桃の実でたとえたのだ。 桃の実でたとえられた祖母の手は、瑞々しいやわらかなイメージになる。 さらに、手ではなく、掌として、それを合わせるというところから、合掌しているイメージもうまれる。 合掌して、蛍の光をくれる祖母。 合掌して、月光をくれる祖母。 神々しいまでの、祖母の姿がイメージされる。 2連で、 〈月光をかきあつめて/月光をくれるのだ〉 となっているが、月光はかきあつめられるものではない。 でも、1連で、 〈蛍をかきあつめて/蛍をくれるのだ〉 となっているので、そのイメージの残像が、祖母に月光をかきあつめさせることができるのである。 だから、1連と2連を、逆にすることはできないのだ。 はじめに、できることを言っておいて、そのイメージにあうようなできそうもないことを言っても、イメージのうえでは、できるように感じるのである。 なぜ祖母は、蛍をくれ月光をくれるのだろうか。 その理由は、この詩にはなにも書かれてない。 では、読者は、納得できない思いになるだろうか。 そんなことはない、納得する。 祖母が、蛍をくれ月光をくれるから、納得するのだ。 ジイジイ鳴く蝉や、ギラギラ輝く太陽の光をくれると言ったら、祖母のイメージにはあわない。 祖母のイメージ、合掌のイメージ、蛍のイメージ、月光のイメージが、重なり合って、この詩のイメージを創りあげているのである。 |