およぐひと 萩原 朔太郎 およぐひとのからだはななめにのびる、 二本の手はながくそろへてひきのばされる、 およぐひとの心臓はくらげのやうにすきとほる、 およぐひとの瞳はつりがねのひびきをききつつ、 およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。 萩原朔太郎は、1886年生まれで1942年になくなった、日本の代表的な詩人だ。 〈心臓〉は、(こころ)と読ませている。〈瞳〉は、(め)と読ませている。 全体のひらがな表記のなかに、漢字が浮き出るように使われている。 しかも、その読みを(こころ)(め)と、やわらかな音で、読ませている。 そのために、この詩の世界が、ゆったりとたゆたうようなイメージがある。 この詩も、比喩が、とても効果的に使われている。 〈心臓(こころ)〉をたとえるのに、くらげとは、なんと異質なものでたとえているのであろう。 でも、〈およぐひと〉の〈心臓(こころ)〉が、海の生物であるくらげでたとえられたことで、〈およぐひと〉が、海の水と一体化して、解け合わさって、どこまでもどこまでも漂っているようなイメージになっている。 しかし、漂いながらも、聞いたり見たりはしている。 そして、〈つりがねのひびき〉を〈瞳(め)〉で聞いているし、〈たましひ〉が〈月〉を見ているのだ。 耳で聞いたり、目で見たりするのであればあたりまえだ。 〈瞳(め)〉で聞き、〈たましひ〉で見ると言われることで、〈およぐひと〉が、体全体で、聞いたり見たりしているような、イメージがある。 しかも、「体」という漢字のイメージよりも、「からだ」でとひらがなでいいたくなるような、イメージがある。 この詩を読むと、詩人とは、なんとことばの使いかたがうまいのかと、あらためて感心させられる。 この詩で使われていますことばで、特別なことばはなに一つない。 それなのに、一つひとつのことばのイメージが、詩全体のイメージをつむぎだし、全体のなかで、一つのことばの確かな存在感が、あますところなく発揮されている。 現代詩は、ことばのイメージよりも、ことばの意味を重視した詩が多いようだ。 詩全体も、意味を問いかけるような書き方になっており、難解だといわれる詩がたくさんある。 それに対して、三好達治や萩原朔太郎の詩は、一つひとつのことばのイメージを大切にして、イメージで詩の世界を創りだしているので、読者も、詩の世界にひたりきることができる。 |