朝がくると まど・みちお 朝がくると とび起きて ぼくが作ったのでもない 水道で 顔をあらうと ぼくが作ったのでもない 洋服を きて ぼくが作ったのでもない ごはんを むしゃむしゃたべる それから ぼくが作ったのでもない 本やノートを ぼくが作ったのでもない ランドセルに つめて せなかに しょって さて ぼくが作ったのでもない 靴を はくと たったか たったか でかけていく ぼくが作ったのでもない 道路を ぼくが作ったのでもない 学校へと ああ なんのために いまに おとなになったなら ぼくだって ぼくだって なにかを 作ることが できるように なるために まど・みちおは、日常生活のなにげない場面を、読者がドキッとするような詩にしている。 そのドキッも、大仰なことばを使っているからではなく、まど・みちおの詩が描きだしているものが、読者の心に響いて、心が鳴ったドキッという音なのだ。 いえいえ、私のつたない文章では、とてもまど・みちおの詩をいいあらわすことはできない。 とにかく、まど・みちおの詩を読んで、詩人まど・みちおが描く詩の世界を、じっくりと堪能していただきたい。 「朝がくると」は、なぜ勉強をしなければいけないのか、という疑問を感じはじめる子どもたちに、ぜひ読んでもらいたい詩だ。 勉強だけはでなく、生きるとはどういうことかと考えはじめる、思春期前期のすべての子どもたちに、読んでもらいたい詩だ。 〈ぼくが作ったのでもない〉ということばが、この短い詩のなかに、8回もでてくる。 身のまわりのすべてのものが、誰かが作ってくれたものだというのは、当然わかっていることだが、あらためて行動するたびごとに〈ぼくが作ったのでもない〉といわれると、ドキッとしてしまう。 この詩のすばらしさは、〈ぼくが作ったのでもない〉ものを使うのだから、という思考段階で終わるのではなく、 〈 ぼくだって 作ることが できるようになるために 〉 と言っていることだと思う。 詩のことばとしては、「誰か」がぼくのために作ってくれて、「誰か」のためにぼくが作る、ということばはないが、ものがあるということの背景に、人間の労働の結果である、ということが思い浮かんでくる。 題名の「朝がくると」も、朝は毎日毎日くるものだし、朝がくると・・・というように、ことばの続く感じが、「毎朝考えたい」と言われたように思える。 |