鹿 村野 四郎 鹿は 森のはずれの 夕日の中に じっと立っていた 彼は知っていた 小さい額が狙われているのを けれども 彼に どうすることが出来ただろう 彼は すんなり立って 村の方を見ていた 生きる時間が黄金のように光る 彼の棲家である 大きい森の夜を背景にして 村野四郎は、詩作と同時に、詩論も書いている詩人だ。「とんぼのめがね」「わたしの詩的遍歴」「村野四郎詩集」などの著作がある。 私は、この詩に格調の高さを感じている。 使われていることばは、普段の生活のなかで使われていることばなのに、なぜ格調の高さを感じるのか、何度も何度も読んでみた。それでも、これだという答えはみつからない。 使われていることばが普通ならば、詩の内容が格調高く感じるのかと思ったが、それでも、私にはよくわからなかった。 だけど、格調の高さを感じるのですから、なにか理由があると思い、いろいろと考えてみた。そしてひとつだけ、思い当たったものがあったが、まさか、それが理由とは思いたくないのだ。 それは、死を目前にしながら、〈すんなり立って〉いる鹿のイメージに、格調の高さを感じているのだろうか、ということである。 わが国には、死を美的に受け入れる精神的土壌があり、昔は武士の切腹を誉れと思い、近年では、戦争で殺されることを名誉と思わされて、戦争協力に利用されてきた歴史がある。 私は、自分の中に、死を受け入れることに、格調の高さを感じる心があるのかと、おそろしくなった。 私は、人間はよりよく生きていくために努力すべきだと考えているし、子どもたちに、人間とはなにか生きるとはなにかということを、詩をとおして、すこしでも伝えることができればいいと思っている。 それなのに、この詩に、格調の高さを感じるのが、死を肯定する心ならば、その心のもちようは、克服しなければならないと思っている。 他の方々も、この詩に、格調の高さを感じるかどうか、お聞かせいただきたいと思う。 そして、格調の高さを感じるのなら、その理由はなんだと考えるのかも、ぜひお聞かせいただきたい。 村野四郎は、他の詩はもちろん、詩論のなかでも、死を肯定するようなことは、いささかも書かれていない。 この詩に格調の高さを感じ、その理由を死を受け入れることだと感じているのは、あくまで、私自身の問題なのである。 |