から 宮入 黎子 ザリガニが すぽっと からをぬいだんだ 赤い じょうぶな から 着なれたやつ 田んぼのどろの しみたやつ 今 やわらかい 白い体なんだ からをぬぐって どんな気持ちだろう ぬぎすてるたび 大きくなる ザリガニ ぼくにも からがあったら バリバリ ぬぐ おとなになって どこへでも行く 〈から〉を脱ぎたいと思っているのは、誰だろう。作者の宮入だろうか。 もちろん、作者の宮入も、「から」を脱ぎたいと思ったからこそ、この作品を書いたのだろう。 でも、「から」という詩の世界の中で、〈から〉を脱ぎたいと思っているのは、作者の宮入ではない。 詩の中でのことばは、小学校高学年から中学生くらいの男の子の口調だ。 作者の宮入が、その年齢のときに書いた詩なのでしょうか。 いやいや、作者の宮入は、1932年生まれで、小学校の教師をしながら子どものための詩を書いてきた、れっきとした女性である。 「作者の宮入」と、くどいように書いてきたが、この詩の世界を読者に向かって話しているのは、作者とは別の人格をもった人物だ、ということを言いたいからなのだ。 作者の宮入は、〈からをぬぐ〉〈バリバリぬぐ〉行動をするのにふさわしく、小学校高学年くらいの男の子を設定して、この詩の世界を語らせているのだ。 作者は、自分があらわしたい詩の世界をを語るのに、いちばんふさわしい語り手を選んで、というか創りだして、語らせるのである。 これはもちろん、詩以外の文芸作品すべて同じだ。 絵本の「八郎」や「モチモチの木」などで、よく知られています斎藤隆介も、それぞれの作品世界にふさわしい語り手を、ほんとにうまく登場させている。 作者と語り手が別だというのは、詩をはじめとする文芸作品を読むときの、もっとも基本になるものである。 子どもたちが、詩を書くときにも、自分とはまったく違う語り手の視点から詩を書いてみるというのも、楽しいだけでなく、あらたな発見も生まれてくるはずである。 さて、「から」の世界だが、思春期前期の子どもの、親の干渉から逃れたいという気持ちが、よくあらわされていると思う。 でも、〈ぬぐ〉〈行く〉と言っているが、この語り手(話者)には、不安はないのだろう。そういえば、すぐ行くとは言ってはいない。〈おとなに〉なってと言っている。 〈からをぬぐ〉ことのわけ(理由)は、子どもでもすぐわかるだろう。しかし、その意味するものを、自分自身の問題として考えると、すぐには答えられないのではないだろうか。 |