こゆび こわせ・たまみ こゆびは ゆびの 赤ちゃんだから おはしも もてない スプーンも もてない こぼしたごはんも ひろえない こゆびは ゆびの 赤ちゃんだから バナナも むけない みかんも むけない おやつの おかしも つまめない それでも こゆび ちいさな こゆび ゆびきりげんまん また明日 明日の 約束 ネ できるでしょ こわせ・たまみは、子どものための詩やお話しをたくさん書いている。「お話365+1 456月~123月」をはじめ、たくさんの著作がある。 こわせ・たまみは、とくに「こゆび」のように、幼児から学齢前の子どものための作品を、多く書いている。 「こゆび」は、1連と2連が、 〈赤ちゃんだから〉〈・・・ない〉 ということばが、くりかえされている。 〈こゆび〉が〈・・・ない〉でもいいはずなのに、〈赤ちゃんだから〉ということばがあることで、こゆびが何にもできないということが、強調されるのだ。 しかもそれが、くりかえされていることで、ますます、こゆびは何にもできない、と思ってしまう。 3連では、そのこゆびが、できることが書かれている。 こゆびの、赤ちゃん指という条件、小さい指という条件だからこそ、ゆびきりげんまんができるのだ。 親指や中指で、ゆびきりげんまんをしているところを想像するだけで、おかしくなる。 1連も2連も3連も、こゆびのことを書いているのだが、1連と2連はできないことを、3連はできることを書いている。 書いている「もの」は同じでも、書いている「こと」は違う。 その「こと」の違いが、質的な違いになっているのだ。 1連と2連の「こと」は、食べることだが、3連の「こと」は、コミニュケーションができる、ということである。 コミニュケーションのほうが、食べることよりも、質的に価値があるというわけではないが、約束ができると言われたとき、なんだかホッとするような気持ちになってくる。 詩の書かれ方をみると、約束はできるけれども食べるための動作はできないじゃなく、お箸は持てないが約束はできる、みんんはむけないが約束はできると、なんだかホッとする気持ちになるように、書かれているのだ。 詩人とは、なんとことばの使い方がうまいのか。 |