イナゴ まど・みちお はっぱにとまった イナゴの目に 一てん もえている夕やけ でも イナゴは ぼくしか見ていないのだ エンジンをかけたまま いつでもにげられるしせいで・・・ ああ 強い生きものと 弱い生きもののあいだに 川のように流れる イネのにおい! まど・みちおは、1909年生まれでいまも元気で、子どものための詩を書きつづけている、子どものための詩の世界では、第一人者の詩人。 まど・みちおの詩を読むたびに、いつもハッとさせられてしまう。 日常生活の中の、なんでもないものやことがらが、重大な意味をもって、迫ってくるように思えるからだ。 まど・みちおが、詩のなかで使っていることばが、過激だというのではない。それどころか、ごくあたりまえのことばしか、使っていない。 しかし、詩人まど・みちおが、そのあたりまえのことばを使って創りだす、詩の世界は、ふだんあたりまえと思っていたものが、みごとにひっくり返させられて、読者の前にくりひろげられるのだ。 この「イナゴ」を読んだとき、住井すゑさんの名作「橋のない川」を思い浮かべた。テーマも題材も違う、あの壮大な著作に匹敵するほどの、内容をもった詩だと思う。 〈もえている夕やけ〉ということばが、、〈イナゴ〉のイメージと重なりあって、日本の農村風景の夕焼けを、なんとも鮮やかにイメージさせる。 それなのに、目に映ってまでいる美しい夕焼けを見ずに、〈イナゴ〉は、〈ぼく〉しか見ていないのだ。 稲を食べる害虫として、稲作の長い歴史の中で、人間から殺されてきた〈イナゴ〉は、美しい夕焼けも見ないで、〈ぼく〉しか見ずに、〈いつでもにげられる〉ことだけしか、考えていないのだ。 同じ釜の飯を食う、という言い方があるが、同じものを食べるということは、それだけで仲間だという意識がある。 稲を食べるので、イナゴ(稲子)と名付けられた〈イナゴ〉は、同じ稲を食べるということでいえば、〈ぼく〉を仲間と思ってくれてもいいはずなのに、美しい夕焼けを、〈ぼく〉といっしょに見てくれてもいいのに、殺されるという思いを抱いて、逃げられる準備をして、美しい夕焼けではなく、〈ぼく〉しか見ていないのだ。 本来なら、仲間として結び付けるはずの稲なのに、その稲を間にして、殺し殺される関係として、存在していることへの、〈ぼく〉の悲しみ。 人間の〈ぼく〉と昆虫の〈イナゴ〉の、生きる意味を考えさせられる深い内容を、こんな短い詩であらわすことのできる、まど・みちおという詩人のすばらしさを、あらためて感じさせてくれる詩だと思う。 |