昨日、歴史研究家に、私の認識の間違いを指摘された。 我が町の港が居留地時代にお茶の日本一の輸出量を誇ると思っていたのだが、横浜に次いで二番目 (これについては、数日前の日記を訂正しておいた)だったこと…。 もう一つは、当時日本のお茶を輸入した国の人達が、少し不思議に感じつつ日本茶を飲んでいたと思い込んでいたのだが、、どうも茶の葉という物は、火の入れ方によって緑茶・紅茶・ウーロン茶等のお茶に変化するもので、欧米人が我々が普段飲んでいる日本茶を愛飲していたのではない…という事。 さすがに、歴史研究家である。お茶の火の入れ方については、詳しくは知らなかったが、なんでも良く勉強していて、おかしなことにはすぐ訂正が入る。恐るべし…研究家。 日本の茶葉が本当に紅茶になるのか、興味があるので別の機会に調べてみようと思う。 今日はこれから、私は研究家の車の運転の仕方を習うことになる。あることで私は研究家の運転手を務めなければならない。 このことについては、来週書こうと思うので、またその時…。 そうそう…昨日書いた絵本の構想については、研究家もよく理解していただき、できれば夏頃に、遅くとも秋には原稿をあげてくれることになった。 予定どおりに進んでいきそうだ。 |
今日は、今から京都まででかけますが、以後日記を書く時間がありません。 あと2分でここを出なければならないので、いつものような内容が書けそうにないのです。 だから、馬鹿話を書いておくことにしました。 昨日思いついたことです。 桃太郎の姓名はなに? ・・・・・・・・・ 姓は“桃” 名は“太郎” 浦島太郎の姓名はなに? ・・・・・・・・・ 姓は“浦” 名は“島太郎” お粗末でした。 |
私の知り合いの歴史家と、ときどき歩いて町を散策するが、その時彼は絶対に赤信号での横断をせず、青になるまでじっと止まって待つ。 私一人の時は、自己責任において左右確認を行い、所謂…信号無視を決行するが、二人でいる時に、曲がったことが嫌いな尊敬する彼に“馬鹿正直に何故信号を守るんですか?”とか“だいじょうぶですから、渡りましょう。”なんてことを言う勇気もなく、いっしょに並んで待つことにしている。 正しい信号無視?の仕方について考えてみた。 交通法規上…赤色は止まれ。黄色は注意して渡れ。青は渡れ。…であるが、車が全く見当たらないのに、数分間待っているのも無駄な時間が過ぎるだけで、おかしな話だ。田舎とか都会でも早朝ならこんな状況の場合…、私は信号に関係なく自己責任において、渡っていいと思う。 問題は、昼間の都会での信号待ちだ。隣に小学生がいる場合がある。その状況で信号無視を決行すると、それを見た子供は自分が教えられたことと違う行動をする大人がいることに直面する。場合によってはショックを受けるかもしれない。 子供もいつか教えられた通りに世の中が回っていないと言う現実を知らなければならないのだから、自分がそのきっかけを作ることになったとしても仕方ないことかも知れないが…、ただ、子供の心を傷つける可能性があることを知って渡るべきだろう。 子供より問題なのは、自己判断云々の前に、つられて渡る人間だ。例えば以前こんなことがあった。遠くからこちらに向かってくる車の距離とスピードを計算して私がゆっくり横断歩道を渡る信号無視をした。渡り切る直前に後ろでクラクションが鳴ったので、振り返ると私の後をついてきた若い二人組に向かって鳴らされたのだと分かった。彼らは私につられ、てっきり青だと思って渡りはじめたようだ。自己確認せずに生きている人達はやっかいだ。もし私がきっかけとなって事故でも起こされたら寝覚めが悪い。 だから都会の昼間に信号無視を行う場合は、自分の安全確認だけでなく周囲の状況も確認したほうが良い。 そうして、渡るときには小走りに渡るようにすべきだろう。法律違反をして引け目を感じながら渡る姿を演出したほうが良い。 できれば、途中で後ろを振り返り、確認せずに渡ってくる馬鹿な人達に対して、場合によっては、一言注意してあげた方が良い。 正しい信号無視には、結構細かい神経を使う必要がある。 そう考えると、歴史研究家のように、じっと青になるのを待っているほうが懸命と言えるだろうか…。 |
今月封切られた映画で“バトルシップ”というのがある。まだ観ていないが、人類対宇宙人の戦いのようだ。前宣で朝野忠信が準主役級で出ていると知って興味もあるのだが、そもそも私の映画の好きなジャンルの一つに頭を使わないで観れる…というのがあり、“バトルシップ”はまさにそれにはまりそうなのだ。宇宙人が侵略者で悪者で、人類が地球を守る正義の勇者という構図は非常に分かりやすく、ともかく打って打って打ちまくるわけで、観ていて頭を使う暇がなさそうで良い。 少し前に封切られた“地球侵略ロサンゼルス決戦”と言う映画があったけれど、同類の映画だと踏んでいる。 最近のメジャー映画の傾向として、“宇宙人との戦い”と“アメリカンヒーロー物”と“バンパイア物”が多くなっているように思う。このことは、アメリカ軍のイラク進攻後しばらくして顕著になったように思う。すなわち地球人同士の戦いのなかでは、正義の味方が存在がしなくなったのだ。 情報社会と言いながら間違った情報で戦争を始めるし、戦争のなかでは非武装の婦女子の殺戮が起こる可能性があることが分かり、兵士の精神障害が社会問題になる。遠く離れた戦地の出来事を今まで知らずに済ませた人々がネット社会では、戦地とほぼ同時に戦いには悲惨な現実があることを知るようになった。 現実の戦争のなかでは、もうヒーローが生まれない世界が到来したのだろう…。 もう人類の敵は人類ではない。 昨今の映画の傾向が、人間同士が殺し合わない世の中が訪れる兆しであることを祈りながら、近いうちに“バトルシップ”を観に行きたい。 |
昨夕、歴史研究家から連絡が入り、依頼されていた今日の運転手の役目がキャンセルとなった。 実は、1891年に我が町で設立された英字新聞社の創業者の子孫が、我が町を初めて訪ねるにあたり、キャンベラの国立図書館から彼女の案内役を依頼された歴史研究家が、私の書こうとしている小説に参考になると思い、運転手という立場でオーストラリアからやってきた彼女と一日を過ごせるようにとの配慮だったのだが…。 その新聞社は1940年に日本人の主宰する新聞社に合併された。おそらく迫りくる戦争の足音を聞いて、英国人が日本を離れていったためだろう。 彼女が、やってくることを地元新聞社にリークしたら、地方版に大きく取り上げられるだろうが、あくまでも静かに祖先の足跡を辿りたいという個人的な理由を尊重して、周囲の人は公にはしないと決めているようだ。 何故、運転手がキャンセルになったか、腑に落ちない点がある。 だが、これからも納得のいく答えには出会えないと思い、忘れることにしよう。 最後に一言 “残念!” すっきりしない思いを胸に…パスタを作った。 美味かった。 食べ過ぎた。 |
山などが空を区切って作る輪郭をスカイラインと言う。 風景を描くときにはこの線が大切になる。山を描く場合、一般には数本の曲線の重なりによってスカイラインを表現する。ところが山の頂近くまで登り見上げるとスカイラインは樹木の枝や葉や岩の形だということが分かり、単純な曲線はどこにも見えなくなる。 遠くから眺めるとおおまかな流れをつかむことができるが、実はその流れは、一つ一つ形の異なるものの集積で作られていることを知ることは大切ではなかろうか…。 私は、30年前に絵を描いていて、スカイラインを良く見ると、ギザギザなんだと気が付いた。空と山とのせめぎ合いによる複雑な形が見えるようになった。 絵を描くときには、そのことを知って描いた方が良いのではなかろうか…。 大きな流れのなかに、それを構成する幾つもの個性ある愛おしいものが含まれていることを…。 音楽もきっと同じだろう。一音一音を大切にした演奏が人の心を打つ…。 同じ曲の演奏での良し悪しは、それしかないのではないか…。 死ぬまでに一度でいいから、大切な人の心を打つ…一音を大切にした演奏がしてみたい。 |
You Tubeを見ていた。そうすると私と同じくらいの年齢のおじさんが、おもむろに舞台の端からギターを抱えて出てきて“アルハンブラの思い出”を弾き始めた。曲名が分かったのは、タイトルにあったからで、演奏だけ聞いていると私の知っているアルハンブラの思い出だとは分からなかった。 演奏者が上手いことは分かる。私ごときが及びもつかないテクニックの持ち主である。ところが聞いていて風景が浮かばない。スペインのグラナダの丘にそびえるイスラム様式の城塞都市…その中庭に響く水が落ちる音…夕日に染まっていく城壁…霧のなかに埋もれ姿を消していく宮殿…あの曲を聴けば、そんな景色が見えてくるはずなのに、おじさんの演奏からは何のインスピレーションも湧いてこない。 あまりに自信たっぷりに弾いているもので、音楽に対する自分の理解が間違っているのかと思い、ギターの先生にメールして見てもらった。 先生から返信があった…。 今、見てます。 アルハンブラに似た曲…のような…お経のような…自信タップリ! 一種の…天災…です。 無心で…次の曲はさらにスゴイ! うーむ………この心境なら大地震がきても… 恐るべし人物! 安心しました。自分がまともなようで…と、返事した。 世の中には、いろんな人がいるものだ。 それとも、先生と私だけが他人からずれている…という事もあるのかな? |