日曜日に大阪のイタリアンレストランに行く。この店は私が経営していたイタリアンレストランの3代目の店長が独立して始めた店である。彼は私の記憶に残る優秀な人材で、私の下で働き始める前に自ら“自分は、経営者サイドに立って動きます。”と宣言した。確かに、彼がいた頃は営業状態もよく店のまとまりもよく、なにしろ私が精神的に楽だった。 当時、“料理の鉄人”なんて番組が人気で、料理学校のテレビCMが頻繁に流れ、歩けばフレンチの店にあたるとか、イタリアンの店にあたる…とか言う時代で、町場のレストランにも意欲のある人材が多く集まったが、その後独立しても立ち行かなくなって閉めてしまう店が増えたものだから、みんな臆病になり、独立開業の夢を見ない料理人が増え、同じ働くなら福利厚生の整ったホテルやらの大手企業にかにしか人材が流れなくなり、結局私が店を閉める結論を出した理由の一つに求人しても電話が一本もかかって来ないという現実にぶつかったこともある。 私は、知り合いの店を訪ねる時、わざわざ気を使わせたくないという思いもあり、偽名を使って予約する悪い癖がある。今回も彼の店に名前を名乗らずに電話した。すると彼が電話口に出て対応してきたもので、いつものように知らないふりして予約しようとしたら“あれッ、○○さんじゃないですか?”と核心を突いてきた。こんなに簡単こに見破られたのははじめてである。 15年振りだと言うのに、さすがにたいしたものだ。だから独立してやってこれたんだ…と思った。 彼が止めた当時から、私の心にゆとりがなくなり、新店に訪ねてやらねばと思っても足が向かなかったが、やっと行ってみようと思える余裕ができたことに感謝した。 久しぶりの大阪行を、精一杯楽しむことにしたい。 |
昔から“医者と弁護士と坊主は大事にしろ!”と言ったものだが…、 私は、よき医者と弁護士には巡り合えたが、よき坊主には縁がない。それと言うのも、私の父が墓を守る住職と大喧嘩をして…、関係の修復を図らずに9年前に他界したからである。父が無くなる2か月ほど前に関係改善を願って母と私と二人で住職に挨拶に行った折、住職の口から“孫子の代まで恨みは消えない。”と言われて帰ってきた。 いったい何があったかをここに書くつもりはないが、住職からみると当時者である私が言うのも変だが、客観的にみて、どちらにも非があったと私はみている。 関係が悪くなるまでの二人(父と住職)の関係は、父が檀家総代をしていたこともあり、極めて良好であった。住職が家にお参りに来た時には、食事を挟んで、いつも数時間話こんで帰って行った。そこのところを見ていた私は、人間関係というものは一瞬にして逆転するものだと悟った。 私が、他人との関係に一定の距離を保つようになったのは、そんな二人の関係を見たからだろうか…。 ホスピスに入った父の見舞いに行った折、病室を出る直前に“この間、久しぶりに住職に会ってね。早く良くなるように言うてはったよ…。”と嘘をついた。 私が扉を閉める瞬間も、父は瞬きもせず、じっと壁を見つめていた。少しでも思い残すことなく逝ってくれることを望んでついたあの嘘が、果たして良かったのか余計なお世話であったのか…いまだに私の心の隅に引っかかっている。 果たして、私は死ぬまでに、良き坊主に出会えるだろうか…。 |
Short story 歩道橋を歩いていると、左右に地上に下りる階段があり、 転落防止の両サイドの低いフェンスが続いていないので正面にも階段があると思ったが… さらに近づくと目の前にロープが渡され “右折”“左折”と…案内板が下がっていた ロープ越しに先を眺めてみると、なんと階段がない。 そのまま進むと落ちてしまう。そこから下を覗き込むと“骨折”と言う表示が見えた。 しょうもない小話を考え付いた。おはずかしい。 しかも、文章にすると面白さが半減する。 テンポよく“右折”“左折”“骨折”…と続かない。 出来れば話して聞かせたい。 私は、普段この程度の小話を思いついては、一人で笑っている…。 どこにでもいる親父である。 お粗末・・・・・・・・・・・・ |
初めて訪ねる部屋に入ると、私はその部屋をまんべんなく見渡す。 ホテルに行くとよく分かるが…、レベルの高いホテルには、優秀なインテリアコーディネーターがいてカーペット・カーテン・壁紙・家具・照明器具・リネン・食器等全てが統一したセンスで揃えられている。 それが、レベルの低いホテルになると、良い物が一つ二つ置いてあってもオーナーが衝動買いしたのかと思うような寄せ集めになっていることが多い。 数年前に、あるお金持ちの家を訪ねた時、居間に飾られた数枚の絵が、すべてが微妙に高過ぎる位置に飾られており、妙に落ち着かなかったことがある。周りを見てみると、飾られている調度品が高価なのは分かるのだが、すべてがバラバラのセンスだった。 その家の持ち主が、感覚の磨かれる生活環境で育たなかったことを悟った。 インテリアのコーディネイトは、教科書のなかの勉強より、実際に自分の目で見て触って確かめることが大切に違いない。 そういう意味で子供の頃に過ごした生活環境が重要だと思う。天井の高さや壁の大きさの違いによって、どの大きさの額をどの高さに飾れば良いか…という感覚は、自分の過ごした時間のなかで自然に身につくものだと思う。 子供の頃に、それほどセンスの磨かれる生活をしていなかった私は、大人になってから、レベルの高いホテルに宿泊することを心掛けている。一流のホテルには自分の感覚の肥しになる素材がいっぱいある。お金を払って宿泊する価値があると思う。 お金使わないとセンスは磨かれないと思わない? 良い物を持っている人がセンスがいいわけじゃないから…。コーディネートに統一性があるかどうかが肝心だよね。 今日の話で、私が神経質だと思わないでくださいね。適度な観察力は、時分のセンスを磨くための大切な要素だと思うってことが言いたいだけだから…。 私が、今からインテリアコーディネーターになりたいわけでもないしね…。 |
私の家には仏壇があるが、私はお盆と正月を含む年に数回しか手を合わせることがない。また、墓参りは10年近く行ったことがない。 それだけを捉えると、私は不信心と言うことになるが…、 ご先祖様のことを忘れて日々過ごしているかと言うと、決してそうではない。現に毎朝、散歩の途中で、心のなかでご先祖様をお守りいただいている方々に挨拶し、ご先祖様の顔と名前を思い浮かべ、家族の安泰を祈っている。 私にとって、仏壇や墓は、自分の心を写す鏡であり、日々ご先祖様のことを忘れないでおくことを習慣づけるための儀式の場だと理解している。私にとって仏壇や墓石はただの箱であり、ただの石なのだ。 手を合わせるということは、対面にもう一人の自分がいて、その姿に向き合うことだと理解している。だから場所と時を選ばず、自分が思う時に向き合えば良い…と、言うのが、私の考えだ。 そんな私は、毎日、家内・事業の発展安泰を願い、火災・盗難・事故・故障・怪我等の災いからその日一日逃れるように心のなかで手を合わせる。 一昨日の春の嵐の日、私はうっかりいつもの祈りを怠った。 あの漏水事故は、そんな時に起こった。 しかし、お蔭様で、私が最悪の災難を逃れることができたことは、よく理解している。 だから、日々の祈りを忘れないように…と、改めて自分自身に誓った。 |
私は子供の頃から、春先は調子が悪い。喘息だったということもあるが、季節の変わり目は鬼門だ。喘息が治ってからもアレルギー性鼻炎と診断され、そのうちに花粉症と言う昔は聞かなかった病気と付き合うようになった。 不調かどうかは、自分がそう思うか、思わないか…という事であれば、間違いなくこの季節は私の元気が失せていて不調である。世間では花見で浮かれているが、昔から花見シーズンだからと私が浮足立たない理由がそのあたりある。 数週間前ギターの先生との世間話で、“私は、一日に一つ何かを捨てることにしている。”と、話していたことを思い出した。それで、急に今朝から片付けものを始めた。 自分が不調だと思うときは、何も考えずに過ごす時間を持てば良い。机の上も頭の中も整理する時間だと考えたら良いのだ。 今までの経験では、こんな時は、じっとしていると答のほうから近づいてくる。 私は聖人ではないから、気分にむらがあって当たり前…。流れに身を任せる時間も大切にしようと思う。 |