私の中学校の卒業式の日、式が終わり全員一旦教室に戻らされ、担任の技術家庭の強面の先生が生徒一人一人に“今”の気持ちを語らせた。私は、“今は何も思いませんが、校門を出る頃にはなにか感じると思います。”と答えた。そうしたら“お前は、最後の最後まで蛍光灯やな…。”と言われた。 私の高校の卒業式の日、式には出席せずに一人で映画を観に行った。何を観たか思い出せない。 私の大学の卒業式の日、式後に行った居酒屋で…、隣の席にいた違うグループのなかに、私が受かった会社の就職試験で落ちた人がいて“どこか就職決まった?”と聞いたら、彼の隣にいた女子に“なんて、いやらしいこと聞くの…自分が受かったからと思って…。”と言われた。そうしたら彼らの仲間の話したことのない一人の男子が“彼(私のこと)は、そんな奴やないよ!”と、言ってくれた。 私は、どんな人間だろうか? 私は、どんな人間に見られているんだろうか? 私は、どんな人間になりたいんだろうか? 卒業を遠い昔に終えた“今日”ふと…考えた。 やっぱり私は、蛍光灯やな…。 |
突然経営者会議が東京で開かれることになり、取るものも取り敢えず電車に飛び乗った。ひょんなことから川崎当たりで電車を降ろされた。そして次の電車をホームで待った。ところが、いくら待っても電車が来ない。駅員に事情を聞くためホームから離れ改札口近くまで下りている間に、電車が来て発車してしまった。また、ホームでしばらく電車を待ったが、やはり来ない。それでまた改札口近くまで下りてきたら、その間に電車がやってきて、また私は取り残された。時間が無駄に経過していくジレンマで、どんどん落ち着かなくなってきた。 …と、言うところで目が覚めた。 妙にリアルな夢だった。目覚めた後は、実にすがすがしい。何も引きずっていなかった。 新幹線でない電車に乗ったこと自体おかしな話だ。でもこの夢と同じように事件の当事者になると、お膳立てが整えば、冷静に考えればおかしなことでも分からなくなってしまうのだろうな…。 黒澤明の映画で“こんな夢を見た…。”で始まる“夢”という映画があったけれど、彼もこんな感じの夢を見たのだろうか…。 夢は少しだけ現実から離れたものが面白い。 |
私のあだ名は“ドンキホーテ”… 昨晩のマダムの会で私の隣に座った病院の院長夫人が、私のことを“ドンキホーテ”と何度も呼んだ。 ドンキーホーテの物語を詳しくは覚えていないが、確かスペインの騎士の物語で…、どちらかと言うとかっこいい人物ではなく、目の前のことに真剣に向かっていくが、どこか間抜けで愛すべきおっさん…というイメージがある。 院長夫人は、どういうつもりで私のことを“ドンキホーテ”と呼ぶのだろう? 昨年の6月頃マダムの店の薔薇の会で初めて彼女といっしょになった。その時もし仮装パーティーをするとしたら、自分が何になるかと言う話になり、その時私が“壁になります。”と言ったらしい。すると彼女が“あなたは、壁と言うよりドンキホーテよ…壁よりドンキホーテの方がずっとあなたらしくていいでしょ…”と言われ、それ以来…私は“ドンキホーテ”になった。壁とドンキホーテを比較しようとは思わないから、どっちが良いか問われても答えられないが、彼女のパワーには逆らえなかった。 同じテーブルに、今年71才になる一年のうち半々を日本とフランスで過ごすシャンソン歌手がいた。肌の艶をみるとどう見てもそんな年に見えず生気がみなぎっている。彼女の同伴は、30才半ばの、頭が坊主刈りのゲイ風イタリアンである。どうみても彼女のアクセサリーだ。 スポットライトに当たり慣れたシャンソン歌手は、病院の院長夫人がテーブルの話題の中心になると面白くなさそうな顔をしている。また逆の場合は院長夫人が面白くなさそうな顔をしている。 一つのテーブルのなかに、女王様が二人いると、目に見えない主権争いの火花が散るようだ。 私は、適当に二人の話に相槌を打ちながら、終演を待った。 私は、間抜で愛すべき、大人のナイトを演じていた。 |
戦いにおける指揮官の資質の一つに、どれだけ味方の損害を軽微な状態で勝利するかを、戦う前に想定できるかどうかがあると思う。 逆に言えば、味方の損害を想定できずに戦う指揮官の下で、私は戦いたくない。 と…言っても私がこれから徴兵にとられ、戦いにいく訳ではないのだけれど…。 経営が戦いであるとすると、残す部分と切り捨てる部分を明確に持たなければならない。 ますます速くなる時代の流れのなかで、何かを残すために、何かを切り捨てなければならない。 全てを残そうとする企業は、確実に淘汰される。 日本の企業のほとんどが、今必死で戦っているように思う。 うまく患部を切り捨てた企業だけが存続するだろう。 私の会社は、トップの私が優柔不断であったために、淘汰された。 切り捨てる部分の想定ができなかった私の責任である。 切り捨てられる側も必死だが、切り捨てる側も必死で戦っていることが私には分かる。 将来、両者に幸せが訪れることを祈って、企業戦士にエールを送りたい。 |
朝起きると昨日からの雨がまだ上がらず小雨が降っていた。私の家は有名な温泉の近くにある。市内でも最も電波状態の悪い山中にある。 いつもはテレビのNHKニュースをラジオ替わりにつけているのだが、今朝は雨が降っていて画像と音声が途切れて何を言っているか分からないので、仕方なく民放の“みのもんた”の番組に切り替えた。 そうすると、昨日の北朝鮮のミサイル発射の情報報道が米韓に比べ日本が遅かったことに対する釈明のために防衛副大臣の渡辺周氏が出演していた。そのなかで彼は“昨日の朝7時に登庁し、午前中は大臣と政務3役で地下3階のオペレーションルームへ3度足を運んだ…”と語ったのだが、どうも私には解せない。 地下3階のオペレーションルーム…という場所があまりにも具体的過ぎないか…イージス艦でも館内にあるオペレーションルームの場所は極秘事項になっているはずである。ましてや防衛相内にある国防に関するオペレーションルームの位置を特定するような発言が、こんなにあっさり朝の民放番組のなかであっていいものだろうか…。 日本の国防は、こんなにもオープンでいいのだろうか…と一人でぼやいている。 私は朝から、こんなにしょうもないことを考えてはイライラしている。 日本は、今日も平和な国だ。 |
一昨日、同窓会のあった日の午後居留地研究会があり参加した。NPO法人になって初めての総会が開かれ、続いて二題の研究発表があった。そのうちの一つに、一昨年に実施された居留地内の一画での建築物の建て替え工事に伴う埋蔵物調査について市の教育文化財課の担当者からの発表があった。その内容はたいへん興味深いものであった。 私の町は、居留地時代の百数十年前に、横浜に次ぐ日本第2の茶の輸出港であったのだが、現在は当時の面影は町のどこにも見かけられず、市民の間でも昔話としても語りつがれることもない。 埋蔵物調査が行われた場所は、茶葉の輸出を業とする外国の会社が船積み前に葉を鋳物の鍋で炒った工場の跡地であり、そのカマド跡の煉瓦やモルタルの床跡の調査研究だった。その会社は現在も静岡に場所を移して営業していると言う報告があり、その話で終わりかと思ったのだが、そのあとがまだあった。 埋蔵物調査は、調査を進めるに従って上から順に構造物を取り去っていくらしいのだが、全ての人口構造物を取り払った後で数十センチにわたって堆積物調査を行った結果が研究発表の最後に発表された。 その結果、過去500年以内の特定できない年代に居留地があった場所に津波が襲った痕跡が認められると言うのだ。このことは昨年研究発表に伴う新聞発表があるまでは誰も知らない事実であり、その発表後に東北での大津波があったことになる。 居留地としての開発が進むまでは、この地は農家が数十軒点在する閑散とした土地だったわけだから、津波の記録も残っていなかったのだろう。人がいかに昔は住まなかった土地に過去の自然災害を知らずに密集生活をするようになったことだろう。数百年前のことも、私たちは何も知らずに生きている。 地球規模の歴史からみれば、私たちは本当に薄い表皮の上に生活していることを実感させられた。 |
今から歴史研究家に会いに出かける。 我が町の居留地時代に英国人によって描かれた一枚の絵からインスピレーションを得た絵本作成のための打ち合わせである。もとの絵は歴史研究家がみつけたもので、3年前に研究会で発表を終えているが、研究会内部でお披露目されただけで、他には公になっていない。 発表資料として数枚のコピー配布で終わるところであるが、一枚の絵にスポットライトを当てて歴史を読み解くという手法に痛く感激し、私が絵本出版のためのプロデュ―スを申し出たものである。 私は、歴史には興味があるが、研究家ではない。 そもそも研究家という部類の人種は、研究に没頭することに興味があっても、それを一般に知らしめる能力に欠けている。 “龍馬がいく”のような小説を作る者もいる…研究家と言うものは、研究の延長にある推測の話はしない。従って司馬遼太郎は作家であって純粋の歴史研究家と言えないのである。 この度の絵の解読に関しては、幾つかの推測が成り立ち、それが私にとっては面白い。 研究家ではない私が、研究家に変わって出番があるわけだ。 来年には出版予定である。その時には話題になって、私が誰か分かってしまう。 まぁっ いいか… |