“最近年のせいで物忘れがひどくなって仕方ありませんは…。”と、私の周囲の人が良く話すようになった。私の周囲の人の年齢が高くなってきたわけだが、自分自身も確かに忘れものがひどくなり、笑ってごまかす回数が増えてきたように思う。 何故記憶力が落ちかたか考えてみると、一般人は頭のなかの記憶に関する回路が学校を卒業した頃から退化し始めるのではないかと推測する。何故退化するかと考えてみると生活のなかで覚えなければいけない事が減少するからでは…と推測する。義務教育で平和に社会生活を営むため、良き平民であるために必要な情報を一方的に覚えさせられ、受験戦争で人生の勝者になるための情報を詰め込んだ後、多くの人はそれまでの記憶ペースを一気に低下させる人生を送りはじめる。 研究者や技術者や政治家や確かな経営者は、そうはいかないだろうが…。 しかもその後、人生の経験を積み重ねることで、持っている情報だけで次に目の前に起こる現象が予測できるようになると、ますます新しい情報を吸収しようとしなくなる。だから急速に記憶の回路が退化する…と考えて良いのではないか。 “年のせいで物忘れがひどくなる。”と言う表現は、間違いではないだろうが、厳密に言うと“記憶回路が退化して物忘れが激しくなった。”と…言うべきだと思う。 記憶力を必要とする生活をする研究者や技術者や政治家や確かな経営者は、年をとっても記憶力は退化しないように思う。 物忘れがひどくなってきた私は、“年齢のせい”にはせずに、これからでも記憶回路の復旧がかなうものと信じ、日々努力しようと誓う。 だけど間に合うかしら…。 他人事のように思っている人…他人事じゃーないよ。老いはあっと言う間にせまってくるよ!今のうちから、努力しとかないと、記憶回路は筋肉と同じで使わないと退化する。長い寝たきりの老後が待ってるよ…なかなか死ねない世の中になってきたんだから…。 |
今月、このあと2回ワインの試飲会がある。一つはホテルで行われるもので、ホテルのアスレティックジムの会員の女性にお得な前売りチケットを購入しないかと言われ…、C.O.D.で購入する食べ物が結構良いという噂も耳に入っていたのでこの度初めて参加することにした。 もう一つは、マダムのお店が昨年末から二か月に一度開く予定で始めたワイン会で、この度三回目となる試飲会である。マダムの会は企画段階から相談されていたこともあり、出席しないわけにはいかない。 ところでこの日記のなかに何度も書いてきたが、私はワインの味がよく分からない。また覚えようという気持ちもない。最初の1杯だけは、多少味わってはいるが、3杯目あたりから不味くなければどうでもよくなる。そんな私が、試飲会なんて笑ってしまいそうだが、そこは大人だから一応神妙な顔で飲み続ける。 私の子供の頃に、こっそり飲んだビールに大人の味は渋いものと知った。学生時代には、ホワイトやらレッドやら国産の安価なウィスキーを仲間と毎晩数本空け、大人になったような気になっていた。バブルに向かう頃、社会人になって高級ブランデーに成功者の香りを嗅いだ。その頃巷ではフレンチレストランかホテルのラウンジかクラブ以外、ワインなんて置いている店はなかった。そしてウィスキーとか水で割って飲む酒に比べ、一度栓を抜いたら飲みきらないといけないところが割高なイメージがあった。造られた土地や年や作り手によって値段が微妙に異なり、他の酒に比べて格段謎めいた飲み物だった。 しばらくしてフレンチレストラン全盛の時代に突入し、続いてイタリアンレストラン急増の時代になり、日本国民はみんな欧米の優雅な食卓を経験した。 時代が変わり、ビストロ・バール・トラットリアが街中に生まれ、ワインが手頃な酒になって、日本料理店でも、居酒屋でも姿を見るようになり、ウィスキーやブランデーは好きじゃないけどワインは好きという人種が増えてきた。 時代によって、酒の好みも変わってきたけれど、ワインは豊かな酒だと思う。私のなかで最後に行きつく酒になるだろう。 私はワインが好きである。飲み始めたら一人で1本以上は飲んでしまう。 だが3杯目からは、味が分からなくなる。 私には、味わった酒をいつまでも記憶する能力がない。ただその瞬間を豊かに過ごすために、分からないものにお金を払うことも、人生を楽しく過ごすためには必要なことだと思う。ワインは、私にとっていつまでも謎めいた飲み物でいい。 そんな気持ちで、今月の2回のワイン試飲会を楽しみたい。 |
この世の中を作ったのが、もし神様だったら、そのなかにとても素敵な神様がいて、子供のような無邪気な発想をする神様や、とても冗談の好きな神様がいたに違いない。 私はダーウィンの“進化論”の考え方の理解が子供の頃から一般の人と違っていて、この世の中のあらゆるものが自ら進化していったのではなく、その生物を創造した神様が進化したから進化した生物が生まれたのだと信じている。 虫に似た花や、花に似た虫や、自分の体の色を変える魚や爬虫類は、外から見た自分を認識出来るわけはないから、客観的な視点が加わっているはずだ。それが愛すべき神に違いない。 そう考えるから、“擬態”という現象が理解できる。そう考えないと“擬態”には無理がある。 創造主である神が作った“進化を続けるという原則”のもとに、私たちは日々進化しながら生きている。その神が、無邪気て愛すべき存在だと思うと、つらいことがあったとしても、例え神様の声が聞こえなくても、立ち止まらずに前へ進んで行っていいに違いない。 進化を与えられ生きている私たちは、創造者である神に、人間という姿のうちに自ら進化することを求められているはずだから…。 重荷を背負い続ける多くの生存者に捧ぐ。 |
こんなニュースがあった。 大規模な太陽嵐が地球に接近 通信、送電網に悪影響か 【ワシントン共同】米海洋大気局(NOAA)の宇宙気象予報センターは7日、太陽表面の巨大な爆発現象「太陽フレア」が6日に発生し、放出された電離ガス(プラズマ)などによる太陽嵐が地球に向かっていると発表した。 AP通信によると、太陽嵐は最近5年間では最大の規模で、通信や送電線網、飛行機の運航などに悪影響を及ぼす恐れがあるという。プラズマは時速640万キロの速さで地球に向かっており、米東部時間の8日午前1時~午前5時(日本時間同日午後3時~午後7時)ごろに地球に到達する見通し。9日午前(日本時間同日深夜)まで影響が続く可能性がある。 私の知人が、プラズマの影響で、なにか良くないことが起こるのではないかと、facebook上で心配していた。 幸い、何もなかったようだ。 今日も世界が平和でありますように… |
私は長らく優良運転者だったのだが、昨年7月通勤途中に車輛事故現場に気をとられて脇見運転をしてしまい、前のワゴン車に追突…。鞭打ちの人身事故を引き起こし、即刻、現場検証中の警察官に事情聴取された。幸い相手方の症状も大事に至らず昨年末に全快したと連絡を受け一安心していたら、思ったより早く免許更新の案内が届いて、自分がすでに優良講習の受講者でないことを思い知った。 今日、早速更新手続きに行ったら、何十年振りかで2時間の講習を受けることになった。 講師が個人的な教訓と前置きして話したことが、印象に残った。 幼稚園児の孫と散歩していて、自分が車道を歩いていたら孫に注意されたと言うのだ。“人が歩いていいのは、歩道と白い線のあるところだけだよ。おじいちゃん!”と言われたそうだ。白い線のところとは、言うまでもなく横断歩道である。 信号が青になって横断歩道を渡ろうとしたら孫に止められ“おじいちゃん!まず手を挙げて、右見て、左見て、確かめてから渡っていいんだよ。”と言われたと言うのである。 講師は、孫が全てを理解して自分に注意したかどうかは分からないが、幼稚園の先生の徹底した安全指導をえらくほめたたえた。 この話…私も、素晴らしい話だと思った。幼稚園の先生が園児に“信号を鵜呑みにするな!信じることのできるものは己だけ。自分の命は自分で守れ!”と、言っていると考えたら、素晴らしい話だ。 世の中、“自己責任”について、もっと考えるべきだと思う。当然騙す方は悪いが騙されるほうも悪い。人の指図を聞いて崖から落ちて死んでも文句言っていくところ、ないしな…。 “自己責任”についての教育は、義務教育でなされてるんだろうか? 他人をあまり信用しないことだよ。騙されたと思っても必要以上に恨まないことだよ。自分の落ち度はしっかり認識しなくちゃ。 なんて…講習会で納得して帰ってきた。 |
ギター教室に言っていつものようにレッスンそっちのけで先生と話をしていたら、次の生徒がやってきて、なにも習わなかったけれど満足したし…いいや、と思って“帰ります。”と、言ったら…、先生がそのままでは悪いと思ったのか、“最初の一音だけ弾いて帰って…。”と、おっしゃった。一瞬冗談かと思ったら、最近習った曲の出だし部分を弾かされ、続いてその曲の第一音だけ弾くように指示され、言われるままに弾いてみると…“その最初の一音で聴く人は、演奏家の力量、感受性を予測する。”と話された。 その話は、私の心をしっかり捉えた。初めて会う人の第一印象が大切だとは分かっていたけれど、演奏にはもっと聴く人とのファーストコンタクトが重要かも知れない。演奏する人の最初の一音で聴く人は演奏家の技術だけでなく、どんな演奏になるのか、音を大切にする人か、どんな感性の持ち主かをも見抜いてしまうことだろう。 年をとって経験を重ねた私は、優秀な演奏家が舞台に上がる瞬間の所作をみて、演奏のはじまる前に、期待できる演奏になるかどうかだいたいのところ予測しているかもしれない。ましてや最初の一音はと言うと期待のピークと言えるかも…。 これから、私はもっと第一音を大切に弾こうと思う。その姿勢が演奏のすべての音を大切のすることにつながっていくのだろう。 いつか、私の第一音が聴く人に演奏を期待させるような、真心のこもった音が出せるようになりたいと思った。 ただし、今のところは、第一音で大したことない…って見透かされるだろうな…。 ほとんど練習しなかったけれど、先生の一言が、私にとって素晴らしいレッスンになった。 私の演奏は、これから少しだけだが確実にレベルが上がると思う。 |
同じものを持っているのに、足りていると人と、足らない人がいる。 例えばポケットに500円玉が1枚あり…、目の前に、声を限りに叫んでいる東北大震災の募金活動をする中学生の集団がいたとして…、自分に500円玉が1枚あるから今募金しようと思う人がいるし、自分は今500円しか持ってないし…どうせ、今募金したって、そのお金が何に使われるか分からないから、次の機会にしよう…なんて自分を納得させて通り過ぎる人もいる。 この状況で募金をした人が偉くて、しなかった人が冷たい…なんてことを言うつもりはない。 あくまでも、同じ状況にあっても、人によって全く異なる考え方があり、違う行動をとる人がいると言いたいだけだ。 世の中には、足りている人と、足りていない人がいる。 “ある”人と“ない”人がいる。 私は、“ある”人になりたい。 私は、“ない”ことに愚痴を言う人にはなりたくない。 “ある”と、思って生きている人には、 感謝の気持ちが生まれ“ありがとう”という言葉が自然にでてくる。その言葉が接着剤となって、新しい“ある”へとつながる。そして、その循環が自分と周囲の満足感を増幅させる。 “ない”と、思って頑張って生きている人は、その気もちをバネにして、新しいものを生み出す可能性をもつ。 “ない”と、思って愚痴を言うだけの人は、自分に今あるものも、どんどん離れていく。 たった、それだけの違いだろう。 どれがダメで、どれがいいという話ではない。 世の中には、“ある”人生を生きる人と、“ない”人生を生きる人がいる…。 私が言いたのは、ただそれだけのこと…。 私は、中学生の募金活動を見て、毎回募金はしていない。 |
昨晩、私の町の“町をまもり・そだてる会”に出席した。この会は、住人・商業者・行政・学識経験者が出席する会で、町の歴史上重要な建築物の保全だけでなく、住人のゴミだしの問題、空き店舗問題、ユニバーサルデザイン化、多国語による表示看板、観光客導入等の問題を話し合うだけでなく、町を活性化させるためのアイデア提案募集を受け付けたり、さらに新規出店する店舗の営業内容の説明や、建築するマンションの間取り、外壁の素材・色のお伺いをたてに関係者がこの会に詣でる。 昨晩は、町の住人や既存商業者との間でトラブルを起こした障害者を雇用するレストランのオーナーが呼び出されて出席していた。このレストランは健常者の付添なしに黒い制服を着させた知的障害者の集団だけで客引きやビラ配りをやらせている。 住人と既存商業者は通行客が恐がると指摘すると、レストランのオーナーは、そんな話は聞いたことがない。だれが言ったかと逆切れし、障害者の社会と接触の大切さを熱弁した。さらに同じように客引きをしている店を、どうして放っておくのかと非難し始め、しまいに弁護士を引っ張り出す…云々と言い始めた。 どちらが正しいとか私は言うつもりはないが、それぞれの言い分の主張を繰り返す衝突を見ていて、不謹慎にも笑いがこみ上げて吹き出してしまった。 宗教戦争なんて、こんな感じだ…なんて単純に考えてしまった。 それぞれが正しいことを主張するだけだったら、ぶつかるしかない。 相手が正しいと思うことを理解したうえで、自分の正当性を主張しないとね。 正しいことは、一つだけじゃないもんね。 人がいたら、その数だけ正義があるんだよね。 もっと相手のこと勉強しとけよ、もっと相手の考え方や心情を理解しようとしろよ…自分の主張を聞いてほしかったら…と言いたかった。 ただ、あの障害者を雇用するレストランは、今後新聞沙汰になる問題を起こしそうな予感がする。 人を教育・訓練・開発・支援する組織が、あんな協調性のない主張をするなんて…問題外だと思った。 |
私は他人から芸術家タイプと言われることがよくあるのだが…、確かに美術学校を出て、27才でアメリカのある田舎町の画文集を出版したことがあり、その後、生まれ育った町の人達の写真集も出版した。だが、自分では芸術家だとは思わない。これは謙遜ではなく心からそう思う。 美術学校を出たから芸術家と言うのは短絡的過ぎる。私の場合、高校時代に理数社と古典の勉強を全くしなかったから一般大学に受かる可能性はなく、美術系であればデッサンや色彩構成等を少し他人より頑張ればなんとかなると思ったので美術の道を進んだだけのことである。とにかく、決して絵を描くことが好きでたまらなかったわけではない。 芸術を志す者のなかには、恐ろしく純粋に作品造りに向き合える人・おそろしく感性の高い人がいることを私は知っている。私のなかの“芸術家”とは、非常にレベルの高い存在であり、到底私ごとき能力の及ぶところではないのだ。 無理やり芸術家と私の共通点を探すと、集団活動が苦手で、他人と同じことをすることを好まないことだろう。一般人は、なんらかのグループに入りたがり、周囲の人と同じことをしていると安心するようだ。義務教育はそんな安心を求める人達を競争社会に送り出す教育だと思う。その点、美術学校は少数派を容認する学校に違いない。 もし、個人プレーを得意とする人がみんな“芸術家”ということであれば、私も芸術家に違いないのだが、それだけでは芸術家を語るには片手落ちだ。個人プレーのうえに、ひらめき・集中力・情熱というどんなジャンルでもトップになるために必要なファクターが揃ってはじめて“芸術家”と言えるのだ。 私は何者なのか…?経営者ではなく、スポーツマンではなく、サラリーマンではなく、職人でもない。芸術家でもない。自分では分からない。さて、私は何者か…? 私は小説家になりたいと思っている。ひらめき・集中力・情熱をもってチャレンジしようと思う。小説家も芸術家の一部だろうか…。さて、私は何者か…? ちょっと変わったおっさん…今のところ、このあたりが適当な評価に違いない。 |
いんふる私は、花粉症で…鼻水がとまらず、目が痒くてたまらない症状が出るのだが、ここ数年は主治医から薬を処方されシーズン少し前から服用して難を逃れている。今年も大事に至らず乗り切れそうだ。 昨日、喉の奥に違和感を感じ、風邪の引きはじめかと思い葛根湯を飲み始めた。今のところ症状の悪化はない。 このシーズン、もう一つの心配事…インフルエンザも気になるところだ。今年は予防接種を受けなかったのだが、幸い感染シーズンも終わりに近い。世間では3年前の新種のインフルエンザの騒ぎがどこへ行ったかと思うほどの静けさである。小学校では学校閉鎖もあいつだそうだが、私の周囲ではインフルエンザで倒れた人の噂もあまり聞かなかった。 昨年インフルエンザで学校を休む児童の率が国内平均より高かった九州のある町では、保健婦さんの提案で昨秋から明治乳業のR-1とかいうヨーグルトを全児童に飲ませ続け、その結果この冬の感染率を大きく低下させたとニュースで聞いた。このヨーグルトには体内の免疫力高めるなにかが入っているらしい。 私も、食べてみたいと思って、スーパーやコンビニでこのA-1を探しているのだが、まだお目にかかれていない。 科学的根拠は分からないが、対ウィルスの効果は予防接種より高いのではないかと思われる。 誰かが買い占めているのだろうか?明治乳業に直接電話して聞いてみようかしら…。 ともかく、インフルエンザに効果があると正式に公表されたら、製薬会社と医療関係者には大打撃だろう。ひょっとすると医学界から圧力が、かかってるかもしれんな。いやいや…それは邪推という事にしておこう。 ただし、症状を抑え込む医療ではなく、免疫力を高める食品や薬の研究は、人類の健康維持のためにますます発展する分野になるだろう。 人間は、ますます死ねないようになってくるな…。 |