祭日でクリスマスイブの今日も私は車で会社に向かった。山道に入る前の国道を通行中…、フロントミラーに私の車に接近し過ぎている自家用車が映った。運転者を確認するとごく普通のおばさんである。最近、私はたっぷり車間距離をとって走っているので、山道に入っていれば道を譲るところだが、朝の国道では下手に停車すると迷惑になるから流れに乗って走り続けるしかない。このままでは、もしも前方に事故でもおきて急ブレーキをかけることになれば完全に突っ込んでこられる。だから軽くブレーキランプを点灯して注意を促した。すると一旦離れたが、しばらくするとまた接近してきた。困ったものだと思っていたら、そのうちその車は右折して視界から消えた。ほっと一息ついて、フロントミラーを見たら、違う車がまた接近し過ぎている。運転者を確認したら、またもや普通のおばさんである。私の前方に車がいなくなったので今度はアクセルを少し吹かして振り切った。 よくもまぁー、みんな他人を信じられるものだ。自分一人で対応して、かわせない距離に相手を近づけている。 接近し過ぎて痛い目にあったことのある私は、自分の力の及ばない範囲で他人の懐には入らないし、他人も入れない。 適当な距離感をつかんでいる。 だけど、これは一度自分が痛い目に合わないと分からないのかもしれないなぁー。 イブにおばさんに追いかけられた私は、小さな溜息をついた。 |
知人の器屋で、陶芸作家でもある画家の原画展を催しており、今朝観に行って、手頃な価格の作品を2枚買い求めた。 私は、家の倉庫に…それほど良いものはないが絵画や器や工芸品を少しはもっている。そもそも自分が描いた50号の油絵やアクリルの10号の13枚シリーズの作品もあり、全部出してみたら結構な量になるだろう。 倉庫にあるということは、今の家が手狭で作品のほとんどが埃を被っているわけだ。 いつか大きな壁や廊下にニッチのある家に引っ越して、それらの作品を季節ごとに入れ替えて飾ったり、段ボールに収まっている美術書を常に棚に並べて楽しみたいと思っているのだが…。 さて、このたび買い求めた作品は一筆描きの仏画と書である。今まで集めたものは洋風のものが多かったから、和風の作品ははじめてのコレクションだ。小品なので作家は自宅のトイレにでも飾ってくれ…と、言っていたが、今のところ本当にそうなるかも知れない。そもそも投機目的ではなく個人の楽しみで作品を買い求める場合、家のどこに飾るかイメージできていないといけないのだろうが…、今の環境では考えられない。このたびは衝動買いである。 この日記を書いたことを機会に、作品を飾れるスペースに移ることを真剣に考えよう。そうでないとこの度の小品は、倉庫にしまわれて陽の目をみないか、誰かへのプレゼントとして私の手元から離れていくことになるだろう。 いい車に乗りたいから頑張って仕事するとか、いい女にもてたいから頑張る…って言う話があるけど、私には車の趣味はない。今でもいい女にはもてたいけれど、若い時ほどの気持ちの高ぶりはない。だから、作品を飾れる家に引っ越すために、もう少し頑張ってみることにしよう。 今日もとめた小品の居場所を、ちゃんと作ってやりたいものだ。 それが自分のしたことに責任をもつということだ。 |
今日のマダムの店のランチタイムは静かで、立ち寄ってみると店にはマダム以外に誰もいなかったので、コーヒーを一杯だけたのんで話し相手になってもらった。 例によって“クリスマスに彼氏から現金を渡されたらどうですか?”と、聞いてみた。すると“好みではないものを渡され、困ってしまうより、好きなものを買って…と言ってお金を渡されるのもいいかも知れない…。”と、少し時間をとってゆったりと答えた。 今度はマダムから話始めた。“昔付き合っていた彼氏にお願いして、毎月500円玉を袋に入れて渡してもらっていたのよ。そして彼が待ち合わせの時間に遅れたり、来てくれなかった時に、彼はこの500円を稼ぐために頑張っているんだ…と、思うようにしてたの…。”と、昔を懐かしむように少し視線を上に向けながら喋った。 私は、“いい話ですね…一杯のかけそば…みたいですね。”と、少し的外れの答えをしたが、マダムは笑いながら相槌をうってくれた。 マダムは、70才を目前に控えている。おそらくこのまま結婚せずに一生を終るだろう。そう考えるとマダムの話を聞いて少し寂しさを感じたが、さすがに本人には伝えられなかった。 マダムは今年のクリスマスも店に出て若い二人を幸せにしているだろう。 マダムのクリスマスも素敵な一日になるように祈りたい。 |
私は月に一度、知人のヘアスタイリストがオーナーの美容院に行く。今日の午後もカットに行った。 この店はシャンプーがおそろしく丁寧で、途中気持ちよくていつも寝てしまう。今日も何度も自分の寝息(いびき)で目が覚めた。私のシャンプーはいつも決まった若い女性スタッフが担当する。シャンプーの後、オーナーにカットしてもらって、その後カットした髪の毛をもう一度洗い流してもらう…。 その時、彼女にこんな質問をしてみた。 “クリスマスプレゼントに現金を渡されたら、どう?”すると彼女は“いやーっ、私は、いやですね。それだったら、いっしょに買いに行ってもらいます。”もう一度尋ねた。“じゃー、いっしょに行って、そこで男が値切りはじめたらどうする。”すると彼女は“そっ、それは止めてほしいですね。悲しくなりますね!”と、言った。 私は、別れた妻に、はじめて贈ったプレゼントを気に入ってもらえず、以後彼女の希望でプレゼントはキャッシュに決めていた。私にはプレゼントに対するトラウマがある。いまだに女性の心がつかめない。 シャンプーしてくれている彼女に“いっしょにプレゼントを買いに行って、どれか決まったら、彼女を一人でカフェに行かせて、その間に値切ってもいいかな?” なんて質問をするのは止めることにした。いくらなんでも彼女の答えは想像がつく。 このように、私は今も、女心を少しづつ学んでいる。 |
自分のなかの他人より劣っている部分を、はやく把握し、足りていない部分をカバーする方法を見つけて手を打つことができれば、劣っていることが個性になっていく…と言う話を、私もいろいろな人にしたことがあったけれど、今年の春頃に偶然観たテレビ番組で、脳に極めて大きな障害のある女の子を持つアメリカで会社を経営する日本人のシングルマザーが、“周囲の人は、私を励まそうと思ってのことだろうけれど、私の子供にもなにか優れたところがあるに違いないと言うけれど、私の子供には他人より優れたところは一つもない。”と、話した映像が今でも私の頭から離れない。 世の中には、私の想像をはるかに超える貧困、暴力、無知、飢餓、悲しみ、痛み、障害があるのだろう。 それらのことを私は、まだ知らない。いや目を背けているのだ。 その世界に生きている人達に私は、どう声をかければいいのだろう。 答えが分からない。今は言葉がでてこない。 あの母親の言葉が私の胸に突き刺さっている年の瀬だ。 |
“ありがとう・すいません・おねがいします” 人とのコミュニケーショ、ンをとるために大切な言葉。 全く口に出せない人がいる。 口に出しても伝わってこない人がいる。 その人達は、心のなかで感謝している…心の底から申し訳なく思っている…と、口にするけれど… 本当に心から思えば、心に響く言葉になって体のなかから湧きだしてくると思うのだけれど、 伝わってこないということは、口先の言葉に違いない。 私は、体の内から湧き出してくる熱い言葉を吐いて生きていきたいと思う。 今朝、私の心に届かない“ありがとう”を聞いて、ふと、思った。 |
先日のコンサート“Mozart×Beethoven女にもてたのは、どっち?”の時のパネルディスカッションでパネラーの一人が男女の知性観について語った言葉が私の耳の奥に残っている。 “女性のなかには男性ホルモンがあり、男性のなかにも女性ホルモンがある。男女共に、うちに潜む女性ホルモンと男性ホルモンのバランスの違いで知性の滲み出し方が変わる。女性ホルモンだけが突出した女性は知性が欠けて見える。男性ホルモンだけが突出した男性も知性に欠けて見える。知性的な女性とは内に潜む男性的な面を匂わせながら、背景に女性らしさが見え隠れする人…、知性的な男性とは内に潜む女性的な面を匂わせながら、背景に男性らしさが見え隠れする人だ…。” 私は、納得したけれど…あなたはどうだろう? |
今日は、大病院での初診療の身内の付添で半日過ごした。私もその病院の診察券を持っており、半年に一度は定期検査で訪れる…親しみのある病院だ。 検査の結果、身内の腹部には腫瘍ができていることが判明し、年明けには幾つか考えられる切除方法を絞り込んで手術することになった。。 身内は、ショックを受けたようだ。私の若かった頃は、本人への告知は一般的ではなかった。私の父が二度目の癌手術をした時も私達家族は黙っていたしな…。 今では、病名を隠すと言う罪悪感から身内や担当医は逃れることができるようになったが、それにしてもあっさり告知するようになったものだ。一には癌=死という方程式が崩れてきたんだろう…医学の進歩なのだろうが、その進歩が高齢化社会を生んでいるに違いない。 自分の寿命を70才過ぎと踏まえている私は、75才以上は延命治療のないホスピスへ…なんて国があったら行ってもいいと思うなー。 身内を出汁に言うのもなんだが…なかなか、あっさりとは死ねん世の中になったものだ。 なんてことを言いつつ…母にはもう少し生きていてほしいと祈る。 |
私はピアノの調律を眺めていることが好きだ。私自身が弾けるわけではないが、奥行きの長いピアノと短いピアノでは低音の響きに大きな差がでる事や、常に和音で音を合わせるとか、鍵盤の動きをスムースにそして均等にしておかないと上手いピアニストの連打に鍵盤の動きが付いて行かないとか、また音色を変えるためにフェルトを削ったりする…いろいろなことを調律師から教わった。知識が増えた分…少し耳が肥えたかも知れない。 昨日のコンサートのピアニストは、予想通り素晴らしかった。リハーサルもたっぷりと時間をとっていたが、ピアニストは前日調律に少し気がかりなことがあったかも知れない。しかしその微妙な音色やタッチの違いの分かる聴衆はめったにいないだろう。ひょっとすると演奏家は昨日の客を見切っていたかも知れない。 昨日のコンサートは今回初めて開催されたモーツァルトクラブとベートベンクラブの合同イベントだった。其々の作曲家の代表曲を一曲づつピアニストによるデモ演奏を聴いた後、評論家や研究家達によって“Mozart×Beethoven女にもてたのは、どっち?”と言うテーマでパネルディスカッションが行われた。 世界では知られていないが自分の研究では…と、前置きして、同性愛であったとか、兄弟と関係があったとか、結構好き勝手に面白おかしく話が盛り上がり、会の最後に聴衆の拍手の大きさで、どちらが女にもてたかを決めた。 その結果を報告しておこうと思う。 軍配はモーツァルトにあがった。 だからと言ってどおってことないけれど、レベルの高い大人のお遊びを楽しく見させていただいた。 |
昨日は、仕事場の近くの神社の集会所で町の活性化について話し合う会議があり私も参加した。奇しくも市の都市計画課に在籍する私の姪も出席しており、珍しい名前の同性の参加者が二人という事で分からない他の参加者から私の妻にしては若すぎるし…どういう関係かと質問を受けた。 私の姪は、阪大工学部大学院卒で都市計画を学んだ才女である。私とは頭のできが違う。ゆくゆく助役くらいには昇進するのではなかろうか?彼女を見ていると、ひょっとすると私も頭が良いと思われた方もおられたに違いない。しかし残念だが誰もその逆は考えないだろう。 参加者のなかに、私が以前からお会いしたいと思っていた歴史研究家の方が出席されていた。いつか私の方からお訪ねして教えを請いたいと思っていたところ…、会議中に意見交換し閉会したのち、研究家からご挨拶に近づいてこられた。 その方は、オーストラリアの国立図書館に所蔵されている…日本に在住したオーストラリア人が1910年代から1970年代かけて日本に在住した欧米人の生活実態を丹念に記録した文献を完全日本語訳された方である。 私にとっては雲の上の研究家であるわけだが、この巡りあわせは、思い続ければ叶うということだろうか…。 私との名刺交換の後で、私の姪とも名刺交換されていた。そこでも姪との関係が話題になった。尊敬する大先生も私が頭が良いと勘違いされたに違いない。 まぁー悪い事ではあるまい。近いうちにまたお話しする機会があるだろう。その時に予想を裏切らないように…、賢い話をさせていただきたいものだ。 |