今朝も会社にやってきた。まだ昼間だけ常駐する管理員も出勤しておらず、まず管理室に入って昨日の日報をチェックしていると、見慣れない男がビルの外へ出ていくところが目に留まった。トイレでも借りに来たのだろうと気に留めなかったのだが、同じビルの4階で朝早くから仕事していたある会社の女性社員がわざわざやってきて、“あの人…大部前からビルの内をうろちょろしているんです。”と、訴えるように私に話かけてきた。直後にその男がまたビルのなかに入ろうとして、こちらに向かってきた。私は“なにかごようですか?どちらに行かれます?”と尋ねた。“いやーっ、ちょっと見ているだけなんです。”と答えたので、“現在、このビルの上階は機械警備中なので立ち入らないでください。”と、牽制した。すると男は、“あーっ”とだけ言って出ていった。 私は男の後を追って、どこへ行くか見届けた。すると…ビルの前のベンチに座りガイドブックのようなものにメモ書きしていた。気にはなったが、外に出たことだし、これ以上問い詰めるのもどうかと思い、管理室に戻ろうとしたら、さきほどの女性社員が、“あの人、まだ誰も来ていないビルの4階のエステサロンの扉をガチャガチャとゆすって開けようとしてたんです。なんだか気持ち悪くて…。”と、言うもので、私は踵を返してベンチに向かった。“あなたは、誰もいない店舗の扉を開けようとしたらしいですね。このあたりはよく盗難事件が発生する地域なので、あなたのような行動は、あなた自身のためにならない。”と、警告した。男は、頷くばかりだった。 私の経験上、泥棒は事前に現場の下見をする。逃走経路も頭に入れる。以前、下見に来た不審者に声をかけ、逃げた相手を追いかけたことがある。 あの男は、悪人ではないような気がする。どちらかと言うとちょっとおかしい人の部類だ。 もし悪人だっとしても、私が顔を覚えていることが分かっただろうから、このビルは被害を免れるだろう。 相手を追い詰めて逆手に出られないように、言葉を選んで警告する知恵と勇気が大切に思う。 |
私が子供の頃、雨にあたると(放射能が入っているから)髪の毛が抜ける…と、言っていた。その頃、ソ連や中国では原爆実験をさかんにやっていたのだろう。 私が子供の頃、光化学スモッグ注意報が発令されたら、校庭で遊べなくなり体育館内で体育の授業を受けた。みんなマスクを持っていた。 私が子供の頃、世界地図を見ていて、世界の大陸は、元は一つじゃなかったのかと先生に尋ねたら、そんな馬鹿なことはない…と、言われた。 私の子供の頃、一般家庭では白黒テレビだった。 私が子供の頃、SLが、まだ普通に走っていた。 私が子供の頃、悪い事をしたら先生に殴られた。チョークを投げてくる先生もいた。 私が子供の頃、体育の時間にスクワットをさせられた。水分補給は体育の時間が終わらないとできなかった。 私が子供の頃、ポケットティッシュを持っている生徒が金持ちに見えた。(みんなチリ紙を折りたたんで持っていた。) 私が子供の頃、日本は欧米の物真似製品を作る国だった。 私が子供の頃、工場の近くの川は、生物のいない死の川だった。 私が子供の頃、エコの輸送手段…市電が走っていた。 私が子供の頃、私の学校では、“いじめ”はなかった。 私が子供の頃、新幹線のことを“夢の超特急、ひかり号”と、呼んだ。 私が子供の頃、1ドルはいつも360円だった。 私が子供の頃、世界中で自分以外の人間が一人だけいるとしたら、女より男の方がいいと思った。(今は、女性のほうがいい。) 私の子供の頃の話は…昔話になった |
私のホールで毎週一回練習していたコーラスグループの練習が、今日が最終日だ。指導する先生の都合で、来週から駅前に新しくできた会場に移ることになった。 今日の練習前に、私はみなさんの前に引っ張り出されて、御礼を言われた。菓子折もいただいた。 “今日は皆さんの卒業式ですね。おめでとうございます。新しい会場に移られて、さらに高みを目指してください。数年間皆さんの歌声を聞かせていただきましたが、日に日に上手くなって行かれたように思います。先生が良かったから…ピアノの先生も良かったから…そして皆さんが頑張ったから…そして練習会場が良かったから…。皆さんにお願いがあります。これからも町で会ったら挨拶しましょう。有難うございました。” 即席の挨拶にしたら、なんとかそつなく言えたかな…? だけで、ちょっと寂しいな。 |
私の元部下だった男が、一昨年の秋に独立してイタリア料理店のオーナーシェフになった。なんとか1年頑張ってやってきた昨年の秋に、やはり私の部下で、訳合って故郷の山口に戻った男がもう一度都会で働きたいと言ってきて、シェフのレストランに働きにやってくると聞いていた。 今日、ランチに行って、その店の扉を開けたら、6年ぶりに会う元部下が私を迎えた。彼は今日から働き始めたようである。私も久しぶりに店を訪ねたので、まさに偶然だ。しかもランチの時間が終われば私に挨拶にくるつもりだったと言うのだ。 シェフを前にして、山口から出てきた部下に“シェフが、あなたが働きに来るから、頑張って売上倍にするぞ…と言ってたよ。”と言ったら、シェフが“本間に頑張らなあかんのですは…。”と口をはさんだ。 店を出る間際に“ここへ来る回数を倍にせなあかんな…。”と、私が言ったら、“本間…頼みますは…。”と、二人の視線が語っていた。 扉が閉まった後で、“でも、二倍は来れんなー。”と心のなかで呟いた。 偶然という必然のひとときだった。 ともかく、今日もいい一日のようだ。 |
昨晩家に帰る前にマダムの店に寄ってコーヒーを飲みながら話をした。 “人間…誰にでも未来の人生に対して不安や恐怖があって怯え萎縮して生きてしまうことがあるけれど、その不安や恐怖が訪れる前に明日交通事故で死んでしまうこともあるのだから、あまり先のことをくよくよ考えずに生きていったほうがいいですね。”…と、マダムに言ったら、“私は、風と共に去りぬ…の、スカーレットの最後の言葉が好き…『タラに帰ろう!』…どんな苦難に出会っても、最後に自分の戻る場所があると信じ前に向かっていく姿に憧れる。”と、言った。 私は残念ながら“風と共に去りぬ”を読んだことも観たこともない。 しかし、私の考え方が後ろ向きで暗く、マダムの考え方の方が肯定的でまともだということは分かる。 これから、他人に対して、くよくよせずに生きよう!と、話す時には、マダムの言い方を借りることにしよう。 |
自分が他人と違う考え方や感じ方をもっているということは、決して悪いことではないだろう。むしろ事業家にとっては必要な特性だ。他人と同じレベルで考え、同じレベルのことをやっていては、抜きんでることはできないだろうから…。 私の場合、他人の思いつかないことを考えつき、それが正しいと信じ行動を起こすところまではできたのだが、次の段階で、いっしょに同じ方向に突き進む部下を育てることができなかった。 社長(私)は、変わっているから…とか、進み過ぎているから…とか、現場を知らないから…とか言われ、その後で凛として未来を語れなかったから、部下を手足にすることができなかったのだろう。 結局、私は他人を動かすための、重要なファクターだと言われる飴も鞭も使いこなせなかったようだ。 だから、過去にやっていた事業を全て止めてしまうことになった。 昨日書いたfacebookで書いたコメントに対して、みなさんの食いつきがやけに悪い。素晴らしい情報を載せたのに、いつもより読む人が少ない。何故なんだろう。みんなには、この情報価値がわからないのだろうか?不思議でもあり悲しくもある。 そんな状況に直面して、私がいろいろ事業をしていた頃の思いが蘇った。 二度と繰り返すことのないことで…、今が幸せなのだから、もう後悔することもなかろうに…。こんな風にいつまでもウジウジしているところもリーダーに不向きなポイントなのだろう。 この当たりで自分の器を納得する。 |
私の知人のパン屋の主人の店が、このところずっと休んでいる。 彼と私は、妙に話が合って…、一ヶ月に一度はお互い訪ねあって小一時間ほど話をすることが慣例になっている。仕事上でも接点はないことは無いのだが、互いに金銭の絡む関係になることを避けて敢えて同じ仕事の土俵には乗らなかった。 ところが、昨年の秋ごろから疎遠になり、先日久しぶりに彼のカフェでコーヒーでも飲もうと思い訪ねてみたら、店内の備品はそのままだが、人の気配がなく閉まっていて、普通なら休みの報せの出ているはずの入口の扉にもなんの告知もなく、彼らしくなく、変だなと思ったことを覚えている。気になって、それから数日経って店の前を通ったがやはり人気がなく、裏の工場にも人の気配がない。 それでも毎年ちょうど今頃、ヨーロッパに遊びに行っていたから、きっと今年も彼女といっしょにバカンスに出かけているのだと思い込もうとした。 ところが、昨日企画屋の社長が、“パン屋の主人が夜逃げしたって聞いたんですが、知っていますか…?”と、話しかけてきた。私に答えられる由もなく、黙っていたが、言われてみれば、店の気配からしてその可能性のないこともなく息を飲んだ。どんな事情があるにせよ彼のようにスマートに生きてきた人間が、最後まで立ち向かわず逃げたと思うと辛いものがこみ上げる。 彼に対して最悪の結果を予想している自分が嫌で昨日は電話できずにいたが、さきほど思い切って電話してみた。しかし呼び出し音が延々と続くだけで応答がない。 他人に迷惑をかけることも、迷惑をかけることもあるのだろう。人生いろいろあると思うが、そのために利害関係のある付き合いはしなかったのだから…。いつか彼から電話がかかってくることを待ちたいと思う。1時間後か1年後か分からないが…。 |