2月1日から日記を書き始めた。日記といっても、このブログのようなものではなく、単に今日誰と会って、何を話したかを記録するものだ。これは考えることがなくただの記録・・・。同時に別のノートにその日思いついたことや面白いと思ったことを記録することも始めた。これはネタ帳・・・。このブログを含めて3部構成からなる私の生き様の記録が将来形を変えて自分の血と肉になるだろう。私は始めたことは結構続くのでしばらくは毎日書くことになると思う。なかでも今書いているブログが一番楽しい。私のダメな頭をかなり使って時間もかけているが、この適当なプレッシャーが心地よい。・・・というか心地良いと考えるようにしている。そう思わないと続かない。また毎日続けて記録を伸ばすことも小さな快感になっている。 今週金曜日からしばらくの間、仕事が立て込んでいて不規則な生活が始まり、毎日継続が厳しいと予想される。 現在パソコンに向かわないと書き込みできないが、携帯での書き込みの方法を覚えたほうが良いかも知れない・・・。 あるいは、あるテクニック(ごまかし)を今から使うことも考えている。 |
NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」のパーソナリティー脳科学者の茂木健一郎は昨年秋に脱税が発覚し、今年の3月?でNHK降板が決まっているそうだが、まだよく理解されていない“脳”の仕組みを分かりやすく解説する能力を買われてか・・・倫理規定の緩やかな民放では、バラエティー番組にも引っ張り蛸のようだ。昨日の“ベストハウス123”で彼が脳の興味ある潜在能力について解説していた。 脳は自分が経験したこと(見たこと・聞いたこと)を自分の意識(覚えていない)がなくても一度情報として取り込むと一生消えない“指紋”のように焼きつけると言うのだ・・・そのことを数ヶ月前に一瞬目にした(本人が記憶にないという)その人の無意識下の記憶にある風景を、外部から脳波の計測によって読み解くという公開実験を行った。 人の記憶は側頭葉という部位に蓄えられるようだ。しかし、いくらストックされた情報が膨大であっても、情報の源から記憶を引き出すための伝達回路が細い人は、情報は何の役にも立たないゴミ同然であり思考力が劣るらしい。この回路を太くする生活習慣をつければ、入った情報をうまく活用して脳全体の活性化を促すようだ。自分の記憶回路を探る前にネット検索で情報を得てしまう現代人は、この情報伝達回路は細くなる傾向にあるらしく、情報伝達回路を太くするためには記憶を呼び覚ます“思い出す”という行為が大切であると解説していた。“自分は年だから”とか“最近物忘れが激しくなって”などと納得することは禁物であるらしい。脳の“アンチエイジング”には、諦めない・自ら老齢を意識しない・周囲が年齢を意識させないことが大切であり、年を重ねても訓練によって伝達回路を太く保ち脳を活性させることは可能のようだ。 |
茂木健一郎は、こう続けた・・・“脳は睡眠中(レム睡眠)に起きていた間の記憶を整理し、そして記憶に関する夢を見る。” 脳に情報を定着させるためには、情報の取り入れの次に(情報過多による能力低下の前に)情報を整理する時間を待たなければならない・・・と。 脳は睡眠中に休んでいるのではなく、無意識のなかで情報を分類してパソコンで言うところのフォルダに整理しているというのだ。そのため試験勉強で徹夜をして、詰め込み情報のままで試験を受けるよりも、あるところまで情報を入れた状態で一旦睡眠をとり、情報が整理された目覚めの後で、おさらいをするとか、新しい情報を取り入れたほうが効率的だというのだ。 目覚めの後の脳は整理されているので、眠る前に悩んでいたことの解決策が自然に浮かんだり、昨日まで思いつかなかったグッドアイデアが生まれたりするらしい。 以前、やはり茂木さんの番組で宮崎駿が“アイデアがどうしてもまとまらない時は、短時間でも一旦寝てしまう。目覚めたときにうまいアイデアが生まれることが多い。”と言っていたことと符合する。 事実私も、朝にひらめくことが多く、あまり考えずに実行するようにしているし、同時に過去の出来事やこれまでに関連した人々の記憶を引き出している。このことは特定の人からまとめて指導を受けたわけではないが、これまでの経験から朝の日課となっている。 脳に対するこれらの知識の理解も“公式”の一つのように思う。 |
今日はわが町の教育文化財課が主催する文化財保存のための、ある市令発令30周年のイベントでの講演会を聞きに言った。二人の講演者のうちのお一人が、私が昨年春に四苦八苦して三ヶ月かけ英語を訳した本の作家で・・・私に人生の転機となるひらめきを与えてくれたオーストラリア在住の女性であった。講演内容は本に書かれていたことと同じであり興味ある発見はなかったが、作家にお会いしたいと思う気持ちが実り心弾む思いであった。昨月入会した研究会の幹事の方に頼み込んで紹介を依頼し、お話できたのだが、別の場で会ってお話させていただきたいとの唐突な申し出を受け入れてもらえたのか(名刺をお持ちでなかった)メールアドレスを口頭で教えていただいた。今月15日にはオーストラリアに帰られるハードスケジュールのなか、うまくお会いできるか少し不安もあるが、明日思いを込めたメールを送るつもりである。 “うまく行く。うまく行く。うまく行く。”・・・と念じている。 “うまく行く。うまく行く。うまく行く。”・・・と繰り返す。 心から信じれば、思いはかなうと信じている。 今日はいい日だった。明日もいい日に違いない。 今日もぎりぎり間に合った。ホッ・・・ |
《天も地もなく、あるのかないのかも分からないどこまでも続く暗い空間があり、その中心から突然“たかまがはら”と言う声がおこり、どこからともなく光の粒が集まりはじめ『天御中主』と言う神が現れた。》 これが『古事記』に記載されている宇宙創生の物語である。驚くことに現代物理学理論のようなお話・・・『天御中主』という神は、その後に登場する幾多の神々と違い性別もなく形もない・・・ましてや『人』の形などとは全く異なる姿なのだ。この神は、その後二度と古事記に現れない・・・まさに一般的には認知されていない[擬人化された神がこの世を創造したと考えている人には考えもつかない]この世の創造主の物語である。 私の近くにいる神官であった人からこの『古事記』の話を聞いた。驚くべき日本神話に描き出された宇宙創生の物語・・・ 私は、そのような創造主と共に迎える朝のひと時の喜びを、自然に身につけたようだ。 |
昨夕、オーストラリア在住の歴史研究家に“お会いしたい”とのメールを送った。日が変わる直前に返信メールがあった。“明日の7時に宿泊先のホテルに来てください。”・・・と。渾身の思いを込めた私のメールに、思い通りの返事が返ってきた。 研究家は明日ホテルを経って、他の町に移動するギリギリのところで私を招き入れた。今夕、心弾ませホテルに向かった。オーストラリア国立大学の学術研究員である彼女は、私の話を正面から受け止め、研究家としての彼女のテーマである史実をもとにフィクションとして物語を作成しようとする私の思いを理解し励ましてくれた。嬉しかった。 彼女との出会いを果たした今、私は次のステージに入る。 明日、次に会わねばならない人に電話しようと思う。 “うまく行く。うまく行く。うまく行く。”・・・と念じている。 心から信じれば、思いはかなうと信じている。 今日はいい日だった。明日もいい日に違いない。 |
今日は、年上の友人の葬儀があった。昨年暮れからの病状の一進一退を繰り返しながら・・・よく頑張った。奥さんと笑顔で会話した。主治医からの“家族召集の指示”を何度も受け、夫の死は覚悟済みだったのだろう。そんな奥さんに私は明るく振舞った。彼女には、その方が良いと思った。 いつもの葬儀よりも悲しかった。 私と20歳違いの享年75の友人には、やはり来賓は少なかった。 仕事の上では私が上司であったが、今は友人だと思っている。いろんな話を聞いてくれた。いろんな話を教えてくれた。いつも互いの気持ちを推し量ることができた。 感謝の気持ちが湧き上がった。 心のなかで“ありがとう”“ありがとう”“ありがとう”“ありがとう”と・・・何度も繰り返した。 “ありがとう”“ありがとう”・・・以外の言葉は、頭に浮かばなかった。 友よ安らかに眠りたまえ・・・ |
辛いことがことが起った時、また続いてた辛いことが起こりそうな気がするって気持ちは私にも分かるけれど・・・もし、この世界が自分が中心で、深層心理のなかで思ったことが、多少変化しながら実現化していくと考えれば、『起こりそうな予感』は、また辛い思いを経験したいと宇宙に宣言しているような気がして、私には危険なことのように思う。だから、まだまだ未熟な私は、悪い予感は意識して打ち消すようにしている。 だがしかし、それでも打ち消しきれない予感もあり・・・ 自分の生きている理由が新しい経験をするために経験をすることだと思うと・・・ 経験と経験の間には、次の経験に備える時間が少しほしいと思う。 私は、まだ自分が世界の中心であると言う自覚が本物ではなく・・・。 だがしかし、心の底からそう思えて、自分の思うとおりに世界が動きはじめたら・・・ひょっとすると『面白くない人生』かも知れない。 『思い通りの人生』と『面白い人生』とを、どっちを選ぶかと問われれば『面白い人生』を選びたい。 だから、経験するすべてのことが、面白いと思えたらいいのに・・・と思う。 |
「死んだら、灰を海に撒いてな。」と息子に言った。「えっ・・・」と息子は答える。 「お父さんが死んだら、灰を海に撒いてな。」と・・・繰り返す。「えっ・・・」と息子は答える。 「骨付きの肉撒いたら、問題やろ。山に骨撒いて犬が掘り返したら事件になるやろ。」 息子は言った。「あぁ、その灰か・・・。」 「肺・・・撒くなよ!」と唖然とした。そんな私の息子である。 最近、死んだ後の事を考えることがある。ドナー登録して・・・検体に使ってもらって・・・灰は海に撒いてもらって・・・どうも骨壷のような小さくて暗いところに私の体の一部を閉じ込めることに抵抗を感じる。私の体が、死んでから誰かの役に立てばと思う。その代わり、私の生きていた証を、作品を作ることで残したいと思う。 次回5月の定期検診の時に、主治医に相談してみよう。 |
“隙に入り込む”・・・と、“懐に入れる”・・・は、どちらも内に入れることに違いないが、“隙に入り込む”の場合、入るほうも入られるほうも、どちらも無意識のうちに、いつのまにかその関係になってしまっていることがあり・・・その場合は厄介だ。お互い気がつかないうちに精神的にも物質的にも消耗して、場合によっては共倒れすることもある。この隙は同じ弱点を持つ人同士の間で生まれやすい。 入られるのは自分であるから、自分が隙を作らないように心がけなければならないわけだが、なにせ自分の隙は、自分には自覚が薄いから“隙”であるわけで・・・分かっている人には隙ではない。だから、はっきりとは掴めないが隙が自分にあると自覚している人には信頼できる第三者が必要で、判断を下す前に客観的な指摘を受ける必要があると思う。 “懐に入れる”は、相手の力量が全て分かっていて、内に入れて遊ばせる・・・ということだが、この場合の関係は、互いの力量の差が余程開いてないと成立しない。 私はそこまでの力量がないと自覚している。だから、なかなか“懐に入れる”関係を持つことがない。 そこで、相手が悪人ではないということを前提に、自分が相手より劣っているということを自ら媚びてみるのも良いのではないか・・・と考える。隙というものが力量の僅差のなかで生まれるのなら、相手より自分が劣っていると宣言してしまうことで差を作り出すと言う・・・こんな方法もありかも知れない。適当な第三者が近くに見あたらない場合は、この手もあると思う。 自分の弱さを晒すことには少し勇気がいるけれど・・・ |