最近、恥ずかしいことだが、よく自分のキーホルダーのありかが分からなくなり、探し回ることがある。私のキーホルダーには7個の鍵がついており、紛失すると大変厄介なのことになるのだが・・・幸いなんとか大事に至ることなく過ごしている。 今日の話は、私の頭が老化してきたという話ではない。そのことについては、また別の機会に話すことにして・・・大抵いつも見つかる場所は、何度も探した筈の自分のポケットの内が多いのだが、今日は自分が不注意であるという話ではない。そのことについても、また別の機会に話すことにして・・・ 鍵が見つかった時に、私は数年前の何倍も有難く思う。“なんや、こんなところにあったんか”とか“こんなことに時間を費やしてもったいない”と以前なら、それで終わっていたところだが、最近は心の底から感謝するようになった。なにに感謝するのかと問われると説明しにくいのだが、自分が生きているということが“偶然”とかでは説明できない大きな流れの一部であり、“必然”として日々の出来事があるという・・・その流れのなかに自分自身があることを再認識するための“感謝”ではないかと思っている。 しかし、それより繰り返し鍵を探すことの方が大問題である事は、自分でもよく分かっている。 |
数年前まで、人の心を変えようと努力したことがあった。でもそれは私の力量を超えるものであると納得した。人の心はそんなに単純なものではない。DNAとかカルマとか人生経験とか生活環境とか宗教とか親の考え方とか挫折とか・・・語りきれない複雑な要素が絡んで人の心は成り立っている。人生経験の僅かな私が、いくら知識を得て頑張って熱弁をふるっても、人の心を変えるなんてできるわけがない・・・と思った瞬間、気持ちが楽になった。 小さな私が考えることは、その人に対してどれだけの時間を割くかを見極めること・・・自分の力量を超えて接さねばならない人には、時間をかけない。他の人の力や時間の経過でその人自身の力が満ちることに任せれば良い。自分自身の力量がその程度だと認識することが、お互いのために賢明だと思う。 ただ、どうしても放っておけない人に手を差し伸べねければならないことがある。この場合は、その人を信じなければならない。心から信じきって、その思いを言葉ではなく伝えねばならない。そのためには待たなければならない。どれだけ時間がかかろうと待たなければならない。そんな人が自分の周囲にいるということが私が生きている証だと思う。 |
今日、代表者変更に伴う会社のゴム判作成のために印章屋さんに行くことにした。前回4年前に行ったお店に行こうと思っていたが、打ち合わせで立ち寄った先で車で行かなければならないそのお店より、その途中(同じ方角)に2軒も印章屋さんがあるから、その方が近いよ・・・と言われ、歩いて教えられたお店に向かった。一軒目に入ろうとした時、一瞬の差で若い二人が先にお客になった。店主に訊ねると、“今来られた(二人)ところだからとしばらく時間がかかります。”と言われもう一軒のお店に向かった。言われた場所にはお店が見つからないので薦めてくれた人に電話した。その人が場所確認のために電話してくれたのだが、返ってきた答えは“今日は土曜日でお休みみたい。”・・・ それで、最初に思っていたお店に向かった。 そのお店の主人に言った。“ここへ来る前に2軒立ち寄ったんだけど、どちらも縁が無かったみたい。今日はここに来る運命にあったみたいです。”と・・・主人は、無表情に仕事を続けた。 店を出る前、私はもう一言、主人に言った。“これからは、真っ直ぐここに来ることにします。” 主人は下を向いたまま、ニッコリ微笑んだ。 思いもかけず・・・いっぱい歩いた。時間もかかった。 くさらない自分を・・・かわいく思った。 |
昨日、報道番組に高橋尚子が出演していた。巨人軍のキャンプ地を訪ね・・・高橋由伸選手とのトレーニングについての対談で高橋尚子が“体幹”という聞きなれない言葉を使って“体幹を鍛えるトレーニング”を由伸選手に教えていた。そのトレーニングを見ていると、私が毎朝欠かさず続けている運動とほとんど一緒だったので驚いた。“体幹”の意味をまだ完璧に理解したわけではないが、ネットで調べてみると、その説明のなかで“木”のイメージが示されていて、木の一番太い幹にあたる人間の体の胴体が“体幹”で枝や葉っぱが、足や手や指だという分類のようだ。“体幹を鍛えるトレーニング”とは腹筋・背筋・胸筋等の普段の生活では鍛えられない体の根幹となる筋肉にストレッチや負荷をかけ、基礎体力を増強させる運動らしい。続ければダイエットにもなるらしい。私は、誰に教えられた訳ではなく日々改善、改良して今の複合運動に辿り着いた。 自分が“たいした奴”に思えた・・・最近、ここ30年で最高の体調である。 ただ両高橋選手とは、一回あたりのセット数が違う。どおりで私は彼らよりスリムではない。 |
数学には公式があって、その公式を知っていれば誰もが同じ答えを導くことができる。だがその公式がどうしてできたかまで理解している人は少ない。人生にも公式というものがあって、なぜそうなるのかよく分からなくても、そうすれば答えに到達することができる・・・と思う。ただ人生の答えは一つではない。公式を使っても同じ結果にはならない。どんな結果もオーライかも知れない。 だから人生においては、逆に答えを先に明確にかざして、後から公式を当てはめるべき・・・と思う。答えは、宣言した方が良い。例えば“金メダルを取る”とか“宇宙飛行士になる”とか“船で世界一周する”とかの答えの方が・・・漠然と“お金もちになりたい”とか“かっこいいいスポーツカーがほしい”と言う希望よりも、答えが現実に近づくに違いない。 さて人生の公式とはどんなものか、私にはまだ少ししか分からない。一つは“感謝の気持ち”一つは“信じる力”一つは“集中力”・・・それらの複合? 後はまだ分からない。 なぜ“感謝の気持ち”が人生の公式なのか分からない。学者ではない私は分からなくてもいいような気がする。 私にとって“一般的な宗教”は、人生の公式を教えてくれる場だと理解している。ただ答えを明確にもたない人が公式だけを覚えても、なにも生まれない。まず自分が生きる答えありきだと・・・私は思う。 |
私の日課は 1)朝の散歩 2)朝の体操(ストレッチ・リンパ・体幹等) 3)血圧・心拍・体重測定と記録 4)夜の体操 5)夜の体重測定 6)最近はこの日記への書き込み等であるが、実は1)の途中にもう一つ、私にとって重要な日課があって・・・それは“感謝の時間”である。先ずこの世界の創造者?への感謝、次に擬人化された神仏への感謝、次にご先祖への感謝、次に家族への感謝、次にあなたへの感謝、次に氏神様と土地の主への感謝、次に過去に私が関わった人たちをグループごとに(沢山の人がいるのでグループごとに毎日ローテーションしている)感謝する時間をもっている。感謝の対象と順番は、何年もかかって今日のようになった。(まだ感謝の後があるのだが、このくらいにしておく。) 感謝の対象となる人のなかには、私に敵意を持った人、ストレスを与えた人、私から去っていった人も含まれる。 なぜ“感謝の時間”を持つようになったか説明するのは難しいが・・・この時間をもつことで、自分自身が孤立した存在ではなく、大きな(すべての)ものの一部であり、それらに繋がっていると確認できていることは確かだと思う。 これが、生きる答えを具現化する人生の公式の一つだと・・・私は思っている。 |
近くに出雲大社の神官だった人がいて話をした。神官は以前は死ぬまで神官のままでいられたそうだが、世の中も変わり20世紀晩年に神に仕える身でも停年退職の仕組みができて今は駐車場の管理員さんをしている。神道のことは、あまり分からなかったが、その人の話を聞くと神道とはキリスト教や仏教のように教義というものがなく、古事記や日本書紀のような古典文学の神話を基に森羅万象(すべてのもの)に神が宿るという考えだそうだ。昨日も書いたが“うまく生きる”ための人生の公式を教える宗教の教義というものに、あまり必要性を感じない私には、自然(すべてのもの)と向き合って一体を感じ悟りを自ら開こうとする神道に興味が沸いてきた。ある意味、究極の宗教という考え方も理解できる。 私は、“生き方を教えられた者“と“生き方を知らない者”との間に意図的に差を生み出すような教義に頼らず、日々の生活の気づきのなかで、全てのものと一体を感じながら自分自身の公式を作っていきたいと思っている。 明日も氏神様を訪ねて、その思いを確認しよう・・・ |
人間の脳は、普段その能力の一部しか活動していない・・・と脳学者は言うけど、それは本当のことだと思う。サバーン症候群の人たちは、一度見た風景を写真以上の精度で再現できたり、交響曲を一度聞いただけで写譜したり・・・この偉大な能力が、突然変異でその人だけに与えられたものであると考えるより、全ての人間がその能力を持っているが、なにものかの意図があって、能力をフル稼働させないリミッターが装着されている・・・と考える方が納得できる。 車で言うリミッターというものは、暴走を防ぐために付けられているわけで、運転技術のない初心者がスピードの出しすぎで事故を起こしたり、エンジンの回転が上がりすぎて爆発してしまうことを避ける役目をもっている訳だが、きっと人間も現在持っている肉体は、全開した頭脳に対応できるだけの能力を備えていないのだろうと思う。やはり脳(心か?)は偉大なる力(すべて)と結びついていて、この世界のなかで敢えて不完全な人間という箱舟にのって、悩み、苦しみ、喜び、泣き、笑い、挫折を経験し、悟る・・・という旅に出ているような気がする。 |
一人の芸術家が作り出す作品が、技術の熟練や重ねた人生経験によって晩年になるほど、優れたものになっていくとは決して思わない。私の個人的な見方とも言えるが・・・例えば小磯良平の晩年の絵画に描かれた女性像は魂の抜け殻のような魅力のない作品だ。流通する商品としての価値感から言えば、ある程度名前の売れた作家の作品は、名前だけで取引した方が画商にとって利益が確保される。しかし、いかに有名になった作家の晩年の作品でも駄作は駄作以外のなにものでもなく、若い時の青臭く一見欠点の見える作品でも優れた作品はあるはずで・・・その優れた作品は作家が死んで、当時の画商も死んだ後に利害関係のない人たちによって正当な評価が成される時がくるように思う。 人も、年を重ねるごとに優れた人間になるとは思わない。人生経験が未熟で知恵もなくても、もがき・・苦しみ、思い通りいかず・・・若さや、運命を恨めしく思う人生であったとしても、しっかり生きていれば、数年後に振り返って、或いはあなたが死んでから子供たちがその当時のあなたの人生を愛おしく大切なものと評価する時がくるかも知れない。 そう考えて、不器用でも日々を精一杯生きることが大切に思う。 残念ながら、今の私は・・・甘すぎる. |
一昨日未明・・・知人が心臓に痛みを訴え救急車で病院へ運ばれた。一旦心拍停止したがAED?で蘇生した。心筋梗塞と診断されカテーテル治療を受け今現在もICU(Intensive Care Unit)のなかにいる。通常病棟への移動のメドはまだたたない。彼には、ある事情から身内が見舞うことがない。私ともう一人・・仕事関係者だけが毎日ICUへの入室を許される。別居している精神疾患をもつ偽装離婚した奥さんと入院中の肝炎の一人娘のために精一杯生きてきた彼は、思い返せば、心筋梗塞が併発するまでに上半身に“しびれ”の自覚症状があったそうだ。彼は自分にも、家族にも、世間にも強い自分を演じて働き続けた。 365日働き続けた彼は、これから変わらなければならない。タバコを止め、偏った食事を改め、仕事による徹夜を厳禁とし、たまにはストレスを和らげる休息を取らなければならない。 心臓の激痛と思うように体を動かせない不自由を経験せねばならなかった彼は、今生きているという事実を誠実にとらえるなら、今・・変わらなければならない。 これから先どんな人生が待ちうけようとも“もう少し生きていなさい”と、なにものかに言われたのだから・・・ |