新型インフルエンザの予防接種を受けた。私の周囲で新型にかかった人は一人だけ・・・それも仕事関係の人でお盆明けにかかって1週間会社を休んだけれど、家族も会社の人達も誰にも感染しなかったようだ。どちらかと言えば私には違う世界の病気だったように思う。有難いと思うべきなのだろう。 この度、念のために接種したが、その際、主治医から聞いた。 来年のインフルエンザシーズンには新型ではなくなっいて、通常のインフルエンザとして季節性のインフルエンザの予防接種のなかに含まれるとのこと・・・ 私は、安全性・信頼性に少し不安の残るワクチンを接種した貴重な存在になるかもしれない。 安全性・信頼性が確かなことを祈る・・・ |
今日は疲れた。どうしてかと考えてみると・・・きっと、“アバター”を見たからだと思う。前回、松本人志のシンボルを誘ってくれた若い友人から急に誘われ観に行ってきた。ストーリーのことはさておき、立体映像・CG・モーションキャプチャー・・どれをとっても今まで見た映像のなかで群を抜いた素晴らしさだった。疲れの原因は、立体映像に馴染みのない私の頭が、新しい刺激に長時間さらされたからだと思う。普段使わない脳の一部が活性化し疲労感を呼んでいるに違いない。この刺激を味わうために是非、ご覧になることをお勧めする・・・ ストーリーはと言うと、ジェームスキャメロンだから間違いはない。彼の次回作品は2年後に日本人原作の映画化になるらしいが、楽しみにしたい。 立体画像用のゴーグルの下で感動の涙を流したが、ただ2回続けて見れるかと言うとだめかも知れない。 1度は見ておくべき作品だと思った。 |
10歳年上の友人は以前事業に失敗し多くのものを失い、復活しようと日々努力しているが、いつまで経っても道が開かれない。一つのことに専念した時の失敗のリスクを考え、いろいろなことに手を出し、全てが中途半端に終わっているように思う。一つの事に集中できる人は、同時に二つことに成功する可能性をもつが・・・一つのことに集中できない人は、何も勝ち取ることができない。これは当たり前のように思えるが、人生経験の豊富な私の友人でさえも成功の道を歩めない。そしてうまくいかない理由に、他のこともやっているので集中できないからと言う妙な納得を繰り返す。失敗のリスクを押さえ込めるだけの練習とか、努力とか、度胸とか、楽観的な平常心とか、ある意味馬鹿な不器用さがないと、欲しいものは手に入らない・・・私は年上の友人にこれからも、馬鹿になれと言い続けたい。 だが、今更65歳の人に、言っても仕方のないことかも知れない・・・と、少し思っている。 |
息子が中学生の頃、私は彼にこう教えた・・・「嘘がすべてダメとは言わない。ただし人を不幸にする嘘はダメ!人を幸せにする嘘は時と場合によってよしとする。そして後で嘘と分かる嘘はついてはいけない。」と・・・数ヵ月後、ひょんなことで、息子がある人に話したことから、私の教えをどのように理解したかが分かった。彼は「嘘をつらぬけ!」と理解していた。 人に自分の思いを伝えたいと思う時、その人の理解力、人生経験の程度、そして聞く耳の方向を推し量らなければ、思いは伝わらない。 その時の経験が私の教えとなった。場合によっては、その人が成長し、壁にぶち当たり、或いは友人や恩師や恋人の心を突く一言を待たなければならない。 待てると言うことが、私と息子との距離の近さに違いない。 明日私は、息子と二人で忘年会を考えている。 |
子供を育てるのは50歳を過ぎてから・・・と、ある本に書いてあった。その理由に、その年齢になるまであなた自身が子供だから・・・と書いてあった。 私は、この意味が50歳を過ぎた今、やっと分かった。親子の関係は、友達同士でいいんだと・・・同じ視線で喜び、悩み、涙する・・・だから話し合える。親の顔をした親に、本当の自分の気持ちを話せる子供って少ないと思う。その視線は親が合わせてあげないと、子供からはそのスタンスはとれない。子供の優れた部分を理解し、それを敢えて言ってあげて、自分自身の弱さも子供に晒して・・・それでやっと子供の心が開かれる。親の自分も子供から教えてもらうことがあるんだと分かったときに、やっと親になれるんだと思う。 私の子供が、よくできた子供だと思われた方もおられるかもしれないが、そうでもない。 これが親というものかも知れない。 石川遼のような子供を持つ親はなかなかいないのだろう。 |
イギリスのコベントリーと言う村に“ゴディバ王女“がおられた。あるとき王様が村人にそれまでより多くの租税を課すと決めたとき、生活に窮する村人のためにゴディバ王女は王様にやめてほしいと嘆願した。王様は、もし王女が一糸纏わぬ姿で村を歩くことができたなら、税を重くするのはやめようと答えた。王女は次の日、馬に乗り本当に裸で町の中へ出た。このときすべての村人は扉と窓を閉ざし、王女の姿を見ないように静かに時の過ぎるのを待った。この物語が、犠牲的な精神で民の幸福を願った献身の象徴としての王女ゴディバの物語である。 私は、コベントリーのどこかの街角に掲げられていた直径30cmのブロンズのレリーフを持っている。チョコレートのゴディバのシンボルとは逆向き・・・左向きのレディーゴディバである。これは、私の宝物の一つである。 |
昨日、駅前に“車椅子バスケ”の募金を募る高校生?と先生?の集団がいた。気になりながら通り過ぎたが、今年営業最終日の銀行から帰る途中に彼らの前で足を止めた。 今年は去年までと違い何度か募金をした。その募金がなんであれ、若い人たちが、世間の人たちが自分の叫びをどう受止めるかを試していると感じた時、こたえたく思った。 自分に今、1000円しかお金がないと思えば、募金はできない。100円のお金があると思えば、募金ができる。あると思うか、ないと思うか・・・募金を募る若い人の叫びが聞こえたとき、この瞬間に自分が“ある人生”を生きるか“ない人生”を生きることを選択するのかを試されているように思う今年の自分である。 ただ、毎日駅前を通ると思いが変わるかもしれない。 |
サンケイ新聞のネット版のブログを見ていると、ある人は一日に三回投稿していて、このペースがほとんど1年中続いている。仕事ではないのに、この頻度を保つための情報量と整理力、分析力、文章力はたいしたものであるが、自分に課した継続という目標がいかに大きなものか・・・ 私は、昨年の12月に小さな後悔を残した。月の途中から毎日の書き込みを目標としたが06日がだけが欠落している。今からではこの穴埋めをする術がない。残念で仕方がない。 記録と言うものが、自分に課したささやかな目標の積み重ねであるとすると、今日の私の書き込みは、大きな可能性の広がりを意味する。一月連続投稿、年間連続投稿・・・(それらはあり得ない) 取り敢えず、飲みすぎによって一瞬熟睡し、つい先ほど目覚めた私は、新しい年の第一歩を踏み出した。 |
日記を書いていて、自分のためになっていると気がついた。日常生活の出来事に、話のネタ探しで今までになく注意力が増しているように思う。自分だけの記録としての記述ではなく、公開を前提とするブログ故の理由からだと思うが・・・これは自分にとって、プラスの副産物だと今、気がついた。即ち自分の人生が客観的に見れるようになった。私の生き様の一つのセンテンスごとに反省と修正と納得がなされていく。生き方が整理されていくと次の展開が自然に見えてくるように思う。たぶん生きることへの悩みを持つ人の多くは、目の前でおこる出来事の整理ができないことが原因であろう。 客観的に自分を見つめる術はいろいろあるのだろうが、私は年の初めにその術を一つみつけたようだ。今年はさらに私は前進する・・・ 私が前進するためには、見てくれる人が大切だと実感している。 |
日本では、数年前に“もったいないお化け” が話題になったが・・・ 私は最近、日本のもう一人(一つ)のお化けが気がかりだ。それは“仕方がないお化け”で・・・人が“仕方がない”と呟いた時に必ずやってくるお化けなのだ。こいつはこの言葉を言った人の夢を食べてしまう。何回も言うとその人は夢がなくなって抜け殻になってしまうらしい。このお化けに出会わないようにする術はただ一つ・・・絶対に“仕方がない”とは言わないことだそうだ・・・ クロアチア人のブルケッサさんは、このお化けを撃退するおまじない知っていた。“あきらめちゃ ダメ! 何とかなるのよ なんとか” あなたにもこのおまじないを教えておこう。 |