人生は、“山“の時があって“谷”の時もある。占いでは“大殺界”とか言う考え方があるようで、私自身も生きていることがどうしてこんなに辛いんだろうと思った時があったけど・・・乗り切った後で振り返ってみれば確かに“大殺界”と言われる年回りだった。大殺界には、“全てを失くさなければならない”・・・とあるが、私は確かに表面上(実際には人の知恵を借りて失わないものもあった)は財産や名誉や健康や家族の縁も失くした。 占いで人生の先を知って、“難”を逃れるという事前の策を講じず、大殺界を乗り切った私は、運命というものを信じたとしても、占いを必要としない理由がそこにある。起こるべきことは起こるのだし、“難”は自分が生きる上で必要であって・・・人生のバイオリズムのなかで、“難”は山に登るために必要ツールを手に入れるために目の前に現れる・・・という考え方が、運命を希望をもって受け入れていくために、最も合理的で自分に力を与えると信じて疑わない。 希望をもって、人生に立ち向かっている、素直で逞しさを持つ素敵なあなたに捧ぐ・・・ |
もう少しで、子供の卒業式である。ホッとした気持ちと共に、自分を少し褒めてやりたくなる。親子の関係はこれからも続くわけだが、親としての一つの勤めが終わる。今までより、もう少し自分のことを考えてみようかな。おそらく私は私の人生をもう少し続けると思うし・・・頭を使って、体も動かして、適当なストレスを感じながら、生きていきたいな。今、恨みもないし、イヤな人はいないし、後悔はあるけれど囚われることはないし、この世でできないことはできないと納得できるし、感謝の気持ちでいっぱい・・・これから、私が経験し感じた“私の生き様”を誰かに伝えてみたいな。私の知恵が誰かの役に立つように、誰かの命のなかで育っていくような、種を遺せたらいいな。勿論私の子供に遺せたらいいな・・・パスワードを教えられたらいいな・・・ そんな意味でも、このブログは、大切にしたいと思う。 子供の卒業式を機に、新たな出発を考えている私である。 |
小学生の頃 こんなことを考えた・・・ 自分の住んでいる地球があって、その周りには自分の知らない大きな宇宙があって、その宇宙の果てには、海の中から空気中に出たときくらいの変化のある違う世界があると思った。 自分が、海に飛び込んで、深い深い海の底に向かって進んでいくと、小さな光る物体があって、その物体をすごい顕微鏡で覗いてみると、その光の周りを回る一粒の丸い玉があって、その玉をもっとすごい電子顕微鏡で覗いてみると、そこには小さな人間が住んでいると思った。 自分が住んでいる地球は、自分の想像力の及ばない大きな大きな動物の鼻の淵についた鼻水のなかの一つ細胞のようなもので・・・その動物が小さなくしゃみをしたら、私の住んでいる地球もその周りの宇宙も、海のなかの小さな光る物体も、一瞬にして“0”になってしまうんじゃないかと思った。 だから、その大きな動物が、くしゃみをしないように・・・毎晩祈った。 実は今でも、ほんのちょっと・・・世界はそんなもんかも知れないと思っている。 |
“大変だ!”と叫んだときでなく・・・“大変だ!大変だ!”と心の中で二度叫んだ時・・・少し心が冷静になった・・・その時に考えないといけないことがある。今までの生き方、今まで信じてきたこと、今までの正義、今まで“そうでなければならない”と思っていたすべての事を・・・一旦フリーズして、融けていくのを眺めてみる。 そうすると、今まで当たり前だと思っていたことを“なにか変えなくっちゃ”と気がつく・・・ “大変“の意味は・・・“大きく変わらなくちゃー”と言う意味なんだから・・・ “大変だ!大変だ!”と、心のなかで二度叫んだ時、“なにか変えなくちゃー”・・・と、あなたの心が叫んでいるのを・・・ あなたは、ちゃんと聞こえてますか・・・ |
心から会いたい人には、会える・・・と私は思っている。なにか作りたいものがあって、技術的な知識や推論のうえでの裏付けがほしい時には、私の望む人、私の望むものを持っている人や、持っている人を知っている人が目の前に現れる。今まで思いを叶えてこれたと思う私には、“Dreams come true.”の人生なのである。 この“Dreams come true.”の実現スキームのポイントを自分なりに考えてみた。 1)まず 叶えたいことを絞り込むこと 2)叶えたいと強く思うこと その思いを継続すること 3)既に起こったすべてのことが 望むものを手に入れるための必然であると思うこと 4)失敗を恐れず 諦めないこと 5)後悔を引きずらず 悔しさをバネに変えること 6)世の中が自分を中心に回っていると 信じること 7)巡ってくるチャンスを捉えるために 常に身構えていること 8)そして 努力すること どうだろう、これを全部実行できたら、夢は叶う・・・と思いません? こんなことを言っている自分が大好きだ。 それにしても、出会いたい女性にはなかなか会えない・・・ |
昨夕、私の離婚後、長らくご無沙汰している方のポストに私の思いを書いた手紙を投函した。その人は離婚した私の元伴侶の“おばあちゃん”にあたる・・・。おばあちゃんと今一緒に住んでいる元・・の叔父さんと、元・・の母親とその長男との関係が険悪であるため、私の長男とおばあちゃんとの交流も断たれてしまっていて、私はともかく私の長男も、かれこれ7年間ほどお会いしていない。聡明な方であったと記憶するおばあちゃんはかなりのご高齢の筈である。7年間の我々の生き様と、長男の卒業の報告・・・機会があれば長男と話ができる関係を再構築して頂きたいとの願いを綴ったものであるが・・・さて、どうなるだろう。子供の電話番号は書いておいたが住所も私の連絡先もない手紙・・・予想としては、“何も変わらない・・”が8割くらいかな。“縁“というものは、理由があって切れるもの・・・その復縁は簡単に叶うものではないだろう。ただ今回の場合、“血の縁”だから、長男のために私ができる小さなこと・・・ 今更、私のやったことは、余計な事だろうか、甘い事だろうか、人々の心を険しくすることだろうか・・・などと頭の中を巡らしても仕方ない。犀は投げたんだから、すべての結果を受け入れよう・・・ |
カトリックの教えで、水のなかに住む動物で“長いもの”“うろこのないもの”“足のあるもの”を食べてはいけないと言う教えがあると聞いた。具体的に言うと、海蛇・鰻・鮫・海豚・蛸・海老といったところであろうか・・・世界三大珍味に“キャビァ“があるが、古代魚のチョウザメにはうろこがないから、カトリック教徒は食べられないはず・・・カトリック教徒の敬虔な信者は、日本で寿司屋に入ってもあまり食べるものがないんだ。昨今文明人のヘルシー嗜好も宗教的な戒律の前では野蛮人の食べ物でしかない。さて戒律とはいかなるものか、破ったからといって差し支えのないものだと考え一部に例外を認めれば、全てが崩れ去る恐れがある。iPS細胞やクローンなどの研究が進む今の時代に神話をもとにした戒律が存在するのも無理があるように思うが、神話は神話として教えの原点は大切にしながらも、宗教もその時代その時代に応じて辞書のように改訂版が生まれればいいのにと思う。ひょっとしてそうしてるのかな・・・私の知識不足かな・・・ そうしないと、いつまでたってもヘルシーでおいしい寿司が食べられないもんな・・・ |
昨晩、高校の同級生から食事に誘われて夕食をともにした。彼の知り合いがやっている“豚”料理の専門店へ行ったが、もう一度行きたいとは思わなかった。勿論不味くはないのだがインパクトがない。 そうそう、今日は料理の話ではなかった。 彼は、高校を卒業して、プロギタリスト目指して東京へ行き、その後アメリカに修行に行ったのだが、修行中にふらりと入った楽器屋で、遊びでギターを演奏していた小学生?が自分よりもはるかに上手かったので、そのことがきっかけでギタリストの道を諦めた。その後パサディナの大学を卒業し、マフィアのボスもやってくるようなクラブのマネージャー等の仕事をしながら、20数年間アメリカ生活をして数年前に 日本に戻ってきた。日本を代表するトップ企業の代表としての海外生活ではなく、裏のアメリカを生きてきた彼の話は実に面白い。彼の悩みは・・・日本がまだ実力社会ではなく、就職面接でもキャリアの前に年齢で撥ねられてしまうということ・・・英語が話せると言うだけでは、希望する会社にはなかなか就職できないらしい。 私は、投資信託の運用で生活には困らない彼と、アメリカの裏社会を知っている彼と、これからたまに会うことになると思う。次回は坂本竜馬の血を引くと言う彼と土佐の高知で、鰹のたたきを食べよう・・・いやいや、彼のルーツを探る旅に出ようという話になった。 |
昨年、私の町におそらく日本で一番お客様の少ないスターバックスができて・・・いつ行っても、空席が目立ち、これでは商売になってなさそうだし、利益優先の企業のことだから、いつ撤退するんだろうと誰しも思っていたんだけれど、しばらくすると外人客が増え始め、ゆったりしてるもんだからパソコン持ってきて仕事?している風の人がやってきて、子供連れのお母さん達がテーブルを囲むようになって・・・あれれ、あれれと思ううちに、最近ではこの町で今まで見かけたことのない学生風の人たちが溜まるようになってきた。 何故そうなったか考えてみると、その店は地震で倒壊した文化財指定を受けている建物を、当時の材料をそのまま使用して再現したもので・・・そのなかに、輸入したアンティック家具を空間をとって配置した・・・まさに本物の一軒家の異人館なのである。天井の高い空間、背高の扉、暖炉、光溢れる格子窓に鎧戸・・・本物のなかでゆったりお手ごろ価格のコーヒー・・・“本物を安価で提供する。”人が集まる理由は、これに違いない。不況のなかで商売の一つ形としてお手本になったことは確かのように思う。 それでも、この店が採算がとれているかどうかは定かではないが・・・今では、私も、この店がこの町で存続してほしいと願っている。 |
今朝“会社の扉の入り口の鍵を忘れて社内に保管している鍵が取り出せず、展示会の準備に来た人のために展示場の開錠ができない。”との電話が入った。私は朝食を食べることを諦め、朝の体操も途中にして車に飛び乗った。高速道路を利用すると25分で到着する。電話してきた彼には同じビル内にいる筈の予備キーの所持者を教えたが、まだ来ていなかったらしく、立ち寄り先の病院までタクシーで鍵を取りに20分で往復し、私が到着した時にはすでに展示場は開いていた。結局、事なきを得た。問題が起こる時と言うものは、複数のアクシデントが重なる。 今日の場合・・・ 1)いつもなら展示会場の使用者が前日に鍵を取りに来る筈が来ていなかった。 2)スタッフが鍵のある部屋に入るための鍵を忘れてしまった。 3)予備キーを持っている人が、病院に立ち寄った。 4)私が、いつもよりゆっくり家を出る予定で朝の時間を過ごしていた。 これだけの、偶然が重なることは、普通はないと思うが・・・危機管理を考えると、起こるべくして起こったと反省し、改めるべきは改めねばならない。勿論今後の対策も講じたが・・・ 心のなかのどこかで、起こるときには起こるよな・・・とも思う。 世の中に“偶然”なんてないのかも知れない・・・ |