世間知らずの 私を残して旅立った あの人に言いたいことがあり できるなら も一度直に会って話したいと 何度か荷物を鞄に詰めたけど あまりに遠い旅の先 往復切符を買えないで 改札通れず今となる さっさと発ったあの人を 恨んだこともあったけど 思いの届かぬ苛立ちも 月日とともに薄れつつ やっと あの人の思いが知れる歳になる 「答えを自分で見つけろ」と 言えずに去ったと気がついた 「強くなれよ」と言ってくれたと 思えるようになってきた 生きてる意味を知りたくて 「答えておくれ」と叫んだが 一人で“理由探しの旅に出る” ただそのことが生きる意味 今は、生きる意味が身にしみる 私を残して去ってった あの人の無念が 今分かる あの人に 「有難う」と言える私が 今はいる |
20年程前、ある大手ゼネコンとビル建築の仕事をしたことがあった。設計者が京大主席卒業で直後に部長に昇格したため彼自らが手がけた実施設計(自ら図面を引く)最後の作品、構造計算担当者は阪大主席卒業、現場監督も優秀な人で・・・建築チームとしては最高のメンバーが揃った。 あるとき、いやな顔され拒絶されるだろうと思いつつ、施工段階でその時点ではかなりきつい設計変更を要求したのだが、言った私のほうから控え気味に「今からだと難しいでしょ・・・」しかし返ってきた答えは「出来ないことはありません。工期が延びる可能性と、工費が上がる可能性がありますが・・・」 この時から“人から依頼されて絶対に不可能とは言わない”ことが私の教訓になった。“出来ない”と言う答えはプロじゃない。 その時の設計者は、残念なことに4年前にすい臓がんで亡くなった。 その時の建物は今も堂々と威容を誇っている。 そして私の心にもその心意気が息づいている。 |
嵐の後、大海を漂流する小船・・・生き残った5人のなかには船長や航海士は見当たらない。方位磁石はあるが四方に陸は見えない。食料は底を尽き、水は始末してあと3日分・・・嵐から二日目の夜を迎えるが、捜索の手はいまだ届かず木の葉のように流されるまま・・・ そんな時一人の男が、「みんなで、この方向に向かって船を漕ごう。」と指差した。「力を合わせて真っ直ぐ進めば、どこかの陸に辿り着く!」と立ち上がった。だがしかし誰もまだ動かない。 あなたが、もしこんな小船に乗り合わせたら、どうします? 流され続けて陸が見えるのを待ちますか? 近くを通る船や捜索にきた飛行機に発見されるのを待ちますか? それとも体力を消耗して、陸を求めて一つの方向に漕ぎ出しますか・・・ オールを握るためには、言い出した人の熱意と人格が問われますよね・・・ 私は、以前そんな“言いだしっぺ”になったことがあった。その時皆は私に従わなかった。私への信頼感が薄かったためか、熱意が足らなかったからか・・・ こういう場合、じっとしている方が助かる確率は高いかも知れない。 だがしかし、私は漕ぎ出したい。自らの力で陸地に辿り着きたいと思う・・・ 人に動いてもらうときには、自分を信じて相手を信じて、誠心誠意、熱意をもって理論的に語るリーダーシップをとりたいと思う。 |
私の年上の友人は、7年前に事業に失敗し全ての財産を失った。そしてその理由を当時パートナーだった人の裏切りのために騙し取られたと考え、裁判所に申し立てたが結局敗訴した。その後いろいろな事業にチャレンジしているが、何一つ実るものがない。その彼が近々、再度元パートナーと裁判で争おうとしている。その人への思いが決着しないと次に進めないと言う。 友人は65歳である。私が彼の立場であれば、全てを失ったという結果を自分自身の大きな足らずと受け止め、新しいチャレンジに専念するだろうに・・・。 彼は事業がうまく行かない今の人生が元パートナーによって狂わされた結果だと“言い訳”しているようにしかみえない。これからも彼が事業で成功することはないと思う。成功者には“言い訳”はない。自分の余命、体力、能力、自己責任を客観的に認識できない者に成功は訪れない。 私なら、それだけ悔しい思いをしたのなら、成功者となって見返すという人生を生きたい。大きく構えれば悔しさは、良い目標、競争相手になるだろうに・・・ |
昨晩、20歳のチェリストとピアニストの演奏会に出席した。ロシア人の先生に師事している若いチェリストは、自分の演奏する曲を演奏順に料理に例え説明した。サラダ・スープ・メイン・デザートというように・・・今まで聞いたことのない解説であったが、妙に納得させられた。 メインの演奏(バッハ)の前に、彼はこんなことを話した。ドイツに滞在した時、あるレストランで1.2kgのアイスバイン(豚の塩漬け)を、ゆっくり、休み休み、苦しみながら一人で食べきった・・・この説明を聞いたとき、西欧のクラシックが私の頭のなかで少し理解できたように思えた。クラシックは肉食人種の音楽なんだと・・・米食う国の青年が、肉食人種の音楽を学ぶなかで、初々しい感性が語らせたクラシックの真理の表現だと思った。 日本人の彼が、ころからどのように欧米人の音楽を悩み・苦しみ・喜び、興奮し、吸収し、開花していくか楽しみに思う。 |
ピアノの調律用語で“ユニゾン”という言葉がある。ピアノの中・高音域の鍵盤の一音は3本の弦を同時に打つことによって生まれる。3本のうち1本が断線しても、残り2本でも音は出るわけだが、3本の時と比べると音の響きが微妙に違う。ピアノの調律師は強く打てば切れそうに細い3本の弦の真ん中の音に両端の音を合わせていく。ユニゾンの整った3本の弦が奏でる一つの美しい音色・・・ 中心に位置する音にブレが生じると3本の弦の奏でる音は歪を生んでしまう。時間が経って沢山使えば音がずれてくるのは当たり前・・・“家族“も同じかも知れない。中心になる人は常にあるべき姿とズレがないかチェックして、狂った場合には自分も周囲も修正する。そうしなければすべてが増幅して狂ってしまう。中心になる人は自ら優れた調律師となって芯になる音であり続けなければならない・・・ 家族が澄んだ音色を奏でる関係であり続けるために・・・ |
他人に甘い人は、自分にも甘いと言うが、どちらかと言うと私自身も甘いほうに属する人間だったと思っている。厳しければ、今でもこれまで関わった事業の一部でも継続していただろう。私の人生の半分は部下に思いを伝えられないジレンマのなかにあった。この年になって腑に落ちたことは、“私が人の上に立つ器ではなかった”という事・・・残りの人生では二度と組織でリーダーシップをとるつもりはない。 人生における“厳しさ”とは、一本筋が通った自分のルールをもっているかどうかが第一義であろう。“厳しさ”を理解しながらも、そのうえで相対する人によって例外を作ってしまうこと・・・それが“甘さ”だと思う。この年で充分自分の“甘さ”に気がついた私は、これから縦社会で再チャレンジするのではなく、個人プレーの世界で生きたいと思っている。 この年で、その環境の変化を自ら選択できる状況に感謝したい。 個人プレーの世界でも・・・ やはり、自分にはもっと厳しくありたいと思う。 やはり、他人にももっと厳しくありたいと思う。 |
最近お茶に興味が湧いてきて・・・これまで、コーヒー党であったが、やけにおいしい日本茶が飲みたくなって・・・。“コーヒーとケーキ”というお手軽欧米文化嗜好を素敵なものとして長い間実践してきたが、“日本茶と饅頭”ではなく“濃い目の日本茶と西欧焼き菓子”という和洋折衷が恋しくなってきた。私の子供の頃には、水や日本茶の缶やペットボトルをお金を出して買うなんて考えられなかった。思えば時代が大きく変わったのか、それとも本来の姿になったのか・・・日本茶嗜好は自分が年をとったからではないと考える。おばあちゃんが両手で茶碗を囲い込んで啜る音が聞こえてくるイメージのお茶ではない。スーツ姿で仕事の途中で“一息ついたひと時の一杯”のイメージである。だから饅頭ではない。(かっこいい饅頭ならありだが・・・)焼き菓子なのである。 これから、スマートにおいしいお茶を飲ませてくれるお店が増えてくるに違いない。 私は、平均的日本人であると思うから・・・。 |
人生が“修行”とか“学びの場”と言う人たちがいるけれど、私はその考えに共感できない。一生一度の“生”を受けた私たち“人”が失敗の繰り返しを許されていると思うべきではなく、生きるか死ぬかの真剣勝負をするために“生”を受けていると考えたほうが身の為だ。間違いの繰り返しが許される私たちの体を占有している何者か(霊?神?)と(人)である自分を混同してはいけないと思う。少なくとも年をとって人生を振り返った時に“学びの場“であったと感慨にふけっても、未来に関しては真剣勝負で生きるべきだ。 私の周りの幾人かに、“人生を学んでいる人“がいるが、その人たちを見ていると同じ間違いを繰り返す。学びの場では失敗は想定内であるから仕方ないか・・・ 人生で“学び”や“修行”が不要だとは言わないが、“学びの場”に身を置くべきではない。 真剣勝負で生きたほうが、得るもの(学ぶもの)が大きいに違いない・・・ |
先日、私の65歳の友人と話をした。彼は私の言葉を神の言葉だと言った。だがしかし私は人間であり、しかも不完全な生き物であることを自分自身でよく理解している。私が話すことは、組織のトップを経験した65歳の人なら、理解していて当たり前のことだと思う。それを初めて聞いたような態度で素直に私のアドバイスを聞くところが曲者である。彼は、これまでにも幾度となく人を欺き、本当の自分を分からずに過ごしてきたに違いない。今から出会うとすれば近寄りたくないタイプの人間だ。だがすでに関わってしまった私は、これからも、この年上の友人に話しかけることになるだろう。 彼の聞き方は結局自分の思いの実現に都合の良い部分だけ取り入れるているだけで、本来人が話している心を込めた指摘と全く違う理解をする。素直に「有難う。分かった。」というものだから、話がそこで終わってしまう。そのことが、どれだけ周囲を振り回すことになるか・・・ 「分からないと言ってくれ!」と叫びたくなる。 私には何度も同じ間違いを繰り返し目標を達成できない素直な(素直そうに見える)友人を・・・私の言葉を神の言葉だと言う謙虚な友人を・・・救うことは出来ないと思う。 彼を見ていると、“分からない。”と言って立ちすくむ人の方が救いがあるように思えてならない。 生きていると、一目では想像もつかない、厄介な人に出会うものだ・・・ |