きりん まど・みちお きりん きりん だれがつけたの? すずがなるような ほしがふるような 日曜の朝があけたような名まえを ふるさとの草原をかけたとき 一気に100キロかけたとき 一ぞくみんなでかけたとき くびのたてがみが鳴ったの? もえる風になりひびいたの? きりん きりん きりりりん きょうも空においた 小さなその耳に 地球のうちがわから しんきろうのくにから ふるさとの風がひびいてくるの? きりん きりん きりりりん まど・みちおには、動物の名前が題名になっている詩がたくさんある。 いちばん有名なのは、「ぞうさん」だろう。 「きりん」という題名のも、5つ以上あるのではないか。 この「きりん」だが、きりんの名前を、 〈きりん きりん きりりりん〉 と、すずやかに鳴らす、まど・みちおという詩人の、ことばに対する感覚のすごさに、ただ驚くばかりだ。 私などは、きりんと聞いたら、ビールしか思い浮かばない俗な人間だが、そんな私でも、この詩を読んだあとなら、 〈きりん きりん きりりりん〉 と、音が聞こえてくる。 私が、まど・みちおの詩が好きなのは、詩の内容に心うたれることはもちろん、もう一度読んでみたい、何度でも読んでみたい、と思うところにある。 〈きりん きりん きりりりん〉 声に出して読んでみると、この音を出すために、「きりん」という名前をつけたのではないかと思うほどだ。 吉田定一の、「うしさん うふふ」もそうだが、目で読んで黙読するよりも、声にだして詩を読んだほうが、詩をたのしむことができる。 日本の詩のはじまりである、万葉集の歌も、声にだして読み上げたほうが、歌の味わいが深くなるようである。 現代語訳されたものはまだしも、万葉仮名で書かれたものは、読むだけでひと苦労だ。 そもそも口頭で歌ったものに、中国からきた漢字をあてはめたものが、書きのこされた万葉集なのだから。 詩とは、読みあげるものだったのだ。 さて、私ももう一度、「きりん」を読むことにしよう。 |
手 八木 重吉 電気が消えた お手手ないない お手手ないないって もも子がむちゅうで両手をふりだした 死んじまうようなきがしたんだ 手がないとおもったんだ 八木重吉は、1898年生まれで1927年に30才という若さでなくなった詩人。 八木重吉の娘の名前が、桃子だ。 キリスト教徒でもある八木は、心の内面を深く見つめた詩を、数多く書いている。 八木の詩は、ことばもやさしく、表現方法もやさしく、子どもにわかりやすいように思われるが、詩の内容は、深く思案的で、むしろ大人むきだと思う。 八木の詩のやさしさに、心を癒されるのだろうか、おおくのファンがいる。 八木の詩の、やさしさとともに深い思案的な部分に、魅力を感じるのだろう。 やさしさのなかにほのかに感じる悲しみ、それも八木の詩の魅力だろう。 八木の詩を、もう一つ紹介しよう。 わが子の「いのち」、わが子が存在することへの深い慈しみを、読みかえすたびに感じる。 春 八木 重吉 ほんとによく晴れた朝だ 桃子は窓をあけて首をだし 桃ちゃん いい子 いい子うよ 桃ちゃん いい子 いい子うよって歌っている 「手」にしても「春」にしても、なんとやさしい詩の世界だろうか。 日常生活のありふれた光景を、スケッチ風に描いているのだが、この詩人の描き出したものは、かぎりないやさしさと、かすかな悲しみだ。 ことばもやさしく、情景もやさしい世界なので、子どもにもすぐ読み取れそうな詩だが、この詩の世界の意味するものを感じとり、意味を読み取るのは、子どもには無理だろう。 でも、この詩のやさしさは、きっと子どもにも、伝わると思う。 |
から 宮入 黎子 ザリガニが すぽっと からをぬいだんだ 赤い じょうぶな から 着なれたやつ 田んぼのどろの しみたやつ 今 やわらかい 白い体なんだ からをぬぐって どんな気持ちだろう ぬぎすてるたび 大きくなる ザリガニ ぼくにも からがあったら バリバリ ぬぐ おとなになって どこへでも行く 〈から〉を脱ぎたいと思っているのは、誰だろう。作者の宮入だろうか。 もちろん、作者の宮入も、「から」を脱ぎたいと思ったからこそ、この作品を書いたのだろう。 でも、「から」という詩の世界の中で、〈から〉を脱ぎたいと思っているのは、作者の宮入ではない。 詩の中でのことばは、小学校高学年から中学生くらいの男の子の口調だ。 作者の宮入が、その年齢のときに書いた詩なのでしょうか。 いやいや、作者の宮入は、1932年生まれで、小学校の教師をしながら子どものための詩を書いてきた、れっきとした女性である。 「作者の宮入」と、くどいように書いてきたが、この詩の世界を読者に向かって話しているのは、作者とは別の人格をもった人物だ、ということを言いたいからなのだ。 作者の宮入は、〈からをぬぐ〉〈バリバリぬぐ〉行動をするのにふさわしく、小学校高学年くらいの男の子を設定して、この詩の世界を語らせているのだ。 作者は、自分があらわしたい詩の世界をを語るのに、いちばんふさわしい語り手を選んで、というか創りだして、語らせるのである。 これはもちろん、詩以外の文芸作品すべて同じだ。 絵本の「八郎」や「モチモチの木」などで、よく知られています斎藤隆介も、それぞれの作品世界にふさわしい語り手を、ほんとにうまく登場させている。 作者と語り手が別だというのは、詩をはじめとする文芸作品を読むときの、もっとも基本になるものである。 子どもたちが、詩を書くときにも、自分とはまったく違う語り手の視点から詩を書いてみるというのも、楽しいだけでなく、あらたな発見も生まれてくるはずである。 さて、「から」の世界だが、思春期前期の子どもの、親の干渉から逃れたいという気持ちが、よくあらわされていると思う。 でも、〈ぬぐ〉〈行く〉と言っているが、この語り手(話者)には、不安はないのだろう。そういえば、すぐ行くとは言ってはいない。〈おとなに〉なってと言っている。 〈からをぬぐ〉ことのわけ(理由)は、子どもでもすぐわかるだろう。しかし、その意味するものを、自分自身の問題として考えると、すぐには答えられないのではないだろうか。 |
雪 三好 達治 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ 土 三好 達治 蟻が 蝶の羽をひいて行く ああ ヨットのようだ 短い詩のばあい、題名のもつイメージが、詩全体を支配する。 長い詩でも、題名のイメージは大切だが、短い詩では、とくに題名のイメージが大切だ。 作者の三好達治は、1900年生まれで1964年に亡くなった、日本の代表的な詩人だ。子どものための詩では、「大阿蘇」などの長い詩も書いているが、子どもの詩だけではなく、戦前から多くの詩を書いている詩人である 。 この二つの詩も、とくに子どものために書いたというのではないようだが、親しみやすくイメージしやすいということで、教科書にもとりあげられた詩だ。 「雪」は、太郎が眠ってから雪が降るのではなく、太郎を眠らせる存在としての、雪が描かれている。 冷たいはずの雪が、母性を持ったあたたかいイメージさえ感じる。 たった2行なのだが、太郎・次郎と並べることで、三郎にも四郎にも・・・・・・と次々に雪は降り積んでいるのだろうな、というイメージがある。 「土」では、〈ヨットのようだ〉と言われたとき、地面が一瞬にして、大海原に変わる。 これが、詩の、ことばの魔法である。 〈ヨットのようだ〉という書き方を、比喩(ひゆ)という。たとえのことである。 蝶の羽を、ヨットでたとえている。蝶の羽が、たとえられるもの。ヨットが、たとえるものだ。 詩には、比喩表現が多く使われている。 あるものを、ほかのものでたとえるとき、たとえるもののイメージが、たとえられるものをおおきく包み込んで、重奏的なイメージが創りだされるからである。 たとえられるものとたとえるものが異質であればあるほど、読者の感じるイメージは、たとえられるもののイメージから、たとえるもののイメージへと、変わっていく。 小説や童話などの散文では、あるものを書きあらわすとき、できるだけ詳しく書こうとする。 上から見て、下から見て、右から左から、あらゆる方向から見て、あますところなく書きつくそうとする。 それに対して詩は、ことばの持っているイメージで、その世界を鮮明に描きだしてしまうのである。 |
大すき 小泉 周二 遠くに見えたらワクワクします 近くに来たらドキドキします 目と目が合ったらズキンとします あいさつできたらポーッとします 離れて行ったらシーンとします 見えなくなったらキューンとします 小泉周二は、1950年生まれ、小・中学校の教師をしながら、詩を書いている詩人で、「海」「放課後」「こもりうた」などの詩集がある。 誰が誰に〈ワクワク〉しているのだろうか。 この詩の話者が、「大すき」と思っている相手に、〈ワクワク〉しているのだ。 この話者は、男の子だろうか、女の子だろうか。 どちらにしても、中学生から高校生くらいではないだろうか。それとも、年齢は関係ないのだろうか。 この詩には、2つの特徴がある。 1つめは、見てすぐわかるように、声喩(〈ワクワク〉〈ドキドキ〉など)がとてもうまく使われていることだ。 題名が「大すき」となっているので、わかりやすくはなっているが、もし題名がなくても、みごとな声喩のために、この詩の世界は鮮明である。 声喩でなりたっている詩、といってもいいと思う。 声喩は、感覚的なことばなので、イメージの文芸である詩には、声喩がよく使われているが、この詩ほど声喩を連続させて、詩の世界を表現している詩はあまり知らない。 2つめは、すべての文末が、〈します〉になってい.。 〈します〉と、現在形になっていることで、臨場感がある。 すべての文末が〈します〉となっているので、まるで、この詩を読んでいる人の目の前を、詩の登場人物が、歩いて来て歩き去っていくような感じがする。 このように、すべての文末が、同じことばで書かれていることを、脚韻を踏むという。 日本の詩では、脚韻を踏んでいるのはあまりないが、西洋の詩や中国の詩では、脚韻を踏むことが、詩の条件となっているほどである。 中国の四行詩の「絶句」で、脚韻のみごとさを味わってみてほしい。 この詩の話者は、これからどうするのだろうか。 毎日毎日〈ドキドキ〉〈キューン〉としていくだけなのだろうか。それとも、相手に「大すき」だと、伝えるのだろうか。 でもそれは、また別の詩の世界のことである。 詩とは、ある日ある時の鮮烈な思いを、ことばにすることなのである。 そして、そのピュアな思いに、読者も共感して、作者と読者が一体となって、詩の世界を創りあげていくのである。 |
三日月 松谷 みよ子 いかついくちばしを胸ふかくさしいれ くらい森をみはりながら ふくろうは かんがえる 生まれてくる子には 赤い三日月をとってやろう 上にのってゆうらりゆれたり ころがしたり くわえたりしてあそぶだろう 森がそこだけ ぼうっと ひかるだろう きのこなんかも ひかるだろう やがて父親となるふくろうの いかついくちばしが つぶやいている 松谷みよ子は、「竜の子太郎」などの創作民話や、「ふたりのイーダ」など命をテーマにした作品を書いている作家だ。 「三日月」も、民話的な雰囲気をもった、とても印象的な詩だ。 この詩は、民話的な雰囲気の詩であるとともに、ファンタジー詩でもある。 1連と3連は、現実のふくろうという鳥のことを書いたのだとしても、おかしくない文章の内容になっている。 しかし、2連で書かれていることは、現実の世界ではありえないことである。 そのありえないことが、父親が子どもにしてあげたいこととして思うと、すべて納得できるものだ。 ことがらとしては、現実ではありえないことだけど、イメージとしては納得できる、ことばを変えていえば、リアリティがあるというのが、ファンタジーとしての作品の価値を決定づけるものである。 〈いかついくちばし〉という、同じことばが、詩の最初と最後にでてくるが、最初の〈いかついくちばし〉のふくろうと、最後の〈いかついくちばし〉のふくろうのイメージが、変わってくる。 ふくろうは、「夜のギャング」といわれるほどの猛禽類なので、最初の〈いかついくちばし〉のふくろうのイメージは、怖さを感じるだけだ。 そのふくろうが、子どものことを考えている2連は、父親としてのやさしさがイメージされてくる。 この2連のイメージがあるために、3連の〈いかついくちばし〉のふくろうのイメージが、同じことばであっても、1連の〈いかついくちばし〉のふくろうのイメージとは、ちがってくるのである。 詩は、イメージの文芸といってもいいだろう。 もちろん、ほかのすべての文芸も、イメージをもとにして、筋をたどって読みすすめていく。 だがとくに詩は、題名も含めて、一つひとつのことばのイメージで、詩全体のイメージを作りあげていくのである。 |
おれはかまきり かまきり りゅうじ (工藤 直子) おう なつだぜ おれは げんきだぜ あまり ちかよるな おれの こころも かまも どきどきするほど ひかってるぜ おう あついぜ おれは がんばるぜ もえる ひをあびて かまを ふりかざす すがた わくわくするほど きまってるぜ 「おれはかまきり」という詩は、工藤直子の詩集「のはらうた」のなかのひとつの詩だ。 「のはらうた」は、野原にいる、動物や昆虫、風や雨までもが、自分を主人公にして書いた詩を集めた詩集だ。 つまり、それぞれの人物たちが、自分の条件をもとにして、詩を書いた(話した・つぶやいた)詩集だ。 それぞれの人物の詩は、ほんとにその人物ではなくては、とうてい書くことができない、それぞれの人物特有の、詩の世界になっている。 ためしに、「おれはかまきり」のことばを、変えてみますと、カマキリのイメージとは、ぜんぜん違う詩になってしまう。 はーい なつだよ ぼくは げんきだよ あまり ちかよらないで ぼくの こころも かまも どきどきするほど ひかってるから はーい あついね ぼくは がんばるよ もえる ひをあびて かまを ふりかざす すがた わくわくするほど きまってるだろ もとの詩にくらべると、こっけいな感じすらする。 人物の条件と違うことばで書くと、こんなにも違うものになるのかということを、この詩人は、短い詩のなかで、まざまざと描きだしてくれている。 もちろん、作者の工藤直子は、「条件が・・・」ということを考えて、この詩を書いたのではないと思う。 読者が、《条件》という考え方でみたから、その違いがはっきりみえるのである。 |
大漁 金子 みすゞ 朝焼子焼だ 大漁だ 大羽鰮の 大漁だ 浜は祭りの ようだけど 海のなかでは 何万の 鰮のとむらい するだろう ※ 大羽鰮(おおばいわし) 金子みすゞは、1903年生まれだから、いまから100年も前に生まれたことになるが、そんな時代のこの詩人が、なんと無垢な心を表現できたのかと驚かされる。 金子みすゞの詩は、話すような歌うようなことばで書かれている。だから、金子みすゞは、童謡詩人と言われている。 〈祭り〉と〈とむらい〉という、生活のなかの大きな行事が並べられている。これも一つのくりかえしであり、同時に、鮮やかな対比でもある。 自分(たち)の喜びが、そのまま他の人(たち)の喜びになれば、その喜びは倍増されることになるだろう。 でも、自分の喜んでいることが、他の人の悲しみになっていることを、知らずにいることが多いのではないだろうか。 そのことを、この詩人は、鮮やかに描きだしている。 いま子どもたちは、受験体勢の教育のなかで、自分の喜びが他の人の喜びとなる心を、押しつぶされている。 ことばの上では、「みんなといっしょに」などと、子どもたちに伝えられることはあるが、実際の行動として求められるのは、他の人のことよりも自分のことだというのが、現状ではないだろうか。 そんなことはない、と明確に言い切れない、なんともいえない気持ちを、私自身重く感じている。 この、なんともいえない気持ちを、金子みすゞは、詩の形で示してくれたように思う。 いま子どもたちは、やりきれない思いをことばにできずにいるが、やりきれない思いを抱えているのは、子どもたちだけではなく、大人もそうだろう。 そんな思いに共感してくれるような詩が、金子みすゞの詩だと思う。 詩人というのは、なんとすごい感性を持っているのであろうか。 100年も前に生まれたのに、現在の私たちの思いに、ぴったり共感する詩を作るのだから。 金子みすゞの生涯が舞台や映画になるのが当然なことだと思う。 金子みすゞの詩を読むと、そのことがよくわかる。 |
鯰 高村 光太郎 盥の中でぴしゃりとはねる音がする。 夜が更けると小刀の刃が冴える。 木を削るのは冬の夜の北風の為事である。 暖炉に入れる石炭が無くなっても、 鯰よ、 お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食うか。 檜の木片は私の眷属、 智恵子は貧におどろかない、 鯰よ、 お前の鰭に剣があり、 お前の尻尾に触角があり、 お前の鰓に黒金の覆輪があり、 そうしてお前の楽天にそんな石頭があるというのは、 何と面白い私の為事への挨拶であろう。 風が落ちて板の間に欄の香いがする。 智恵子は寝た。 私は彫りかけの鯰を傍へ押しやり、 研水を新しくして 更に鋭い明日の小刀を瀏瀏と研ぐ。 彫刻家、「智恵子抄」などで有名な、高村光太郎の詩だ。 高村光太郎には、同じ鯰という彫刻がある。 彫刻の鯰は、刃あとは鋭いのだが、全体の印象は、まさに鯰のヌメッとした感触を感じさせる、彫刻の傑作だ。 「鯰」の詩は、中学生から高校生には、ぜひ読んでもらいたい詩と思う。 漢字の読みも難しくて、一気に読み下すことはできないかもしれないが、詩の内容としては、中学生や高校生に難しいものではないはずだ。 漢字の一字一字は読めなくても、漢字のかたちをみれば、なにを表しているのかは、想像できるだろうし、まず読んでみてほしいと思う。 日本語は難しい。とくに、漢字を憶えるのは大変だとよく言われるが、私はそうは思わない。 漢字は、とても論理的構造的にできていると思う。魚がつく漢字は、それこそ魚に関係あるものだし、木がつく漢字は、樹木に関係あるし、「さんずい」があれば、水に関係ある漢字とわかる。 いま学校で勉強する教育漢字は、すべて読めて書けるようにならなければいけない、となっている。 そんな馬鹿なことはない。読める漢字がずっと多くて、なぜいけないのだろうか。 漢字の、構造的なことを知れば、子どもたちは、もっともっと漢字を読めるようになるはずだ。 それなのに、国語の教科書に出てくる順番どおりに、一つずつ、漢字を読ませ、書かせ、憶えさせるようなことをしているから、子どもたちは、漢字が嫌いになるのだ。 こんなことでは、子どもたちに直接教えている先生も、たまったものではないはずだ。 さらに問題なのは、先生が独自の方法で教えようとすると、「学習指導要領」違反だと言って、先生方を規制することである。 詩から離れた話になってしまったが、「鯰」の漢字を見ていて、漢字についての考えを書きたくなった。 この文章も、漢字が多いな・・・。 |
かぼちゃのつるが 原田 直友 かぼちゃのつるが はい上がり はい上がり 葉をひろげ 葉をひろげ はい上がり 葉をひろげ 細い先は 竹をしっかりにぎって 屋根の上に はい上がり 短くなった竹の上に はい上がり 小さなその先たんは いっせいに 赤子のような手を開いて ああ 今 空をつかもうとしている 原田直友は、1923年生まれで、子どものための詩をたくさん書いている。 詩の全文が、一つのセンテンスになっている詩だ。 ためしに、句点(。)や読点(、)をどこに打っていいか探してみてほしい。どこにも打ちようがないことがわかるはずだ。 詩人が、ことばを大切にすることはもちろん、句点や読点までも、いかに心配りをしているのかが、よくわかると思う。 「かぼちゃのつるが」という題名も、文の連続性をイメージさせるものになっている。 「かぼちゃのつる」という名詞に、「が」をつけることで、「かぼちゃのつるが」は主語となり、あとに述語が続くことを前提にしているのだ。 それが、この詩の連続性をイメージさせているのである。 比喩表現もされている。 〈かぼちゃのつる〉が比喩しているものは、幼児から少年の子どものイメージだ。 子どものひたむきに成長していく姿を、〈かぼちゃのつる〉でたとえているのである。 このような比喩を、擬人化という。 擬人化は、詩にはよく使われている。 工藤直子の連作「のはらうた」も、擬人化された詩だ。 |