仕事の関連で私が信用した人から、思うような対応がなく、昨日メールで極めて事務的に問い合わせてみた。すると間髪入れず丁重な詫びと今後の予定について書かれた返信が届いた。 私の年齢で信用できる人物かどうか見誤ることがあるだろうか…。 もう少し静観することにした。 今日マダムの店に行き、今までに人から裏切られたことがあるかどうか…と、唐突に切り出した。すると臆面もなく、昔いっしょに住んだ彼氏が事業に失敗し、店の手形を知らないうちに勝手に切って、行方不明になり、おかげで沢山の借金を背負ったことがあると語った。 私はマダムに辛い記憶を思い出させて聞かないほうが良かったと思った。 マダムは続けて話してくれた。あのことが商売(レストラン)が厳しくなるきっかけになってしまったが、今は恨んでいない…と。レストランを閉めることが新聞に載り、彼から十数年振りに電話がかかってきた時にもなにも言わなかったそうだ。その時でもまだ好きだったかも知れないと言った。 彼氏には悪意はなかったのかも知れない。マダムに隙があったのかも知れない。お互いが惹かれあうように、弱い心と心の隙は、いつの間にか忍びよるものだろう。 私には、他人から裏切られた記憶がない。と言うよりも裏切られたと思っていないだけかも知れない。そう思える私は幸せだと思う。 そして下手に、他人のプライバシーに踏み込む質問は、慎もうと思った。 |
私の町に、ミュージシャンや大学教授や同業者やら、遊び人達やらが集うGood Barがあって、私も1年に一二度は訪ねる店であったが、昨日人づてに聞いたところによると2月に店を閉め、マスターは同時に豊中にある大きな店のバーテンに雇われて行ってしまうと聞いた。 私がまだ20歳代の頃から続いた店だった。当時は私にとって大人の行く店に思え、敷居が高かったが、私がチョコレート屋をやっていた時には、マスターが酒の肴にチョコレートを買いに来てくれていたこともあり、たまに覗いてみると、当時の町のそうそうたる客がタバコやシガーを吹かし、寛いでいた様子を今でも思い出す。 思い返してみれば昨年の暮れに訪ねた時に、10時頃だと言うのに我々以外にカウンターに客は1組しかおらず、しばらくして彼らが帰って行って、その後誰も入って来なかった。 だから景気が悪いのかな…などと、その時思ったことを覚えている。 酒への価値観が変わったと言うか、マスターが年をとったのか、客が年をとったと言うか…時代は変わったんだ。 オーナーの顔が見える店で“大人の店”と言われることには、落とし穴があるように思う。若い客をどう取り込んでいくか時間をかけ真剣に取り組んでいかないとならない。 若い人が“大人の店”と思うのは、店ではなく、そこに来ている客の顔ぶれを見てに違いない。だから店ではなく常連客が若い客を拒絶してしまう。 ともかく、近々店が閉まってしまうまでに、マスターに会いに行って…、新しいステージに立ったマスターに、近くのビジネスホテルに予約でもして、会いに行きたいと思う。 だが、それはどちらも一度限りになるだろう。 |
昨日行きつけの美容院でカットを終え、メガネをかけてみたら、ちょうどその時黒色のタートルネックを着ていたものだからスティーブ・ジョブズに似ていると思い、口に出してしまった。今から考えれば年齢が同じであることと、外見において髪の毛が短く、髭を伸ばしてメガネをかけているところは共通点と言えるが、欧米人と東洋人との骨格に大きな違いがあるし、なにより私は彼に比べ頭脳の明晰さ加減と眼光の輝きが劣っている。私と彼とは似て非なるもの…大それたことを言ったものだと直ぐに反省した。 カットしてくれたオーナーは、私が口を滑らせた世迷言を聞いて、さすがに客である私に全否定はできなかったのだろうが、“ジョブズより村上隆に似ていると以前から思っていたんです。”と、返してきた。 村上隆なる人物を私は知らなかったので尋ね返してみると、ちょうど店においている雑誌に写真が載っていると見せてくれた。 すると確かに骨格も髭の形もジョブズより村上隆のほうが似ている。さすがにオーナーは他人の髪を触るプロフェッショナルで大勢の頭の形を見てきただけのことはある。うまく話の流れを変えてくれた。 さて村上隆なる人物…ポップアーティストとして世界的に有名な人物のようで、彼の作品は数千万円で取引されるほどの人気作家のようだ。 成功者に似ていると言われているのだから、喜ぶべきであろう。 ただ、私の本音を言うと、私は痩せてはいないが彼ほど太っておらず、彼より男前だと自賛する。このことはオーナーには話さなかったが…。 いずれ、私の作る作品も一点数千万円で取引されるようにしたいものだ。 |
“勢い”の意味 ・ 他を圧倒する力。 ・ 社会を支配する力。 ・ 自然の活動力。 ・ 盛んな意気。元気。 ・ 物事が動くときに加わる速さや強さ。 ・ 余勢。もののはずみ。なりゆき。 とある。 生きていくうえで、“勢い”は大切だと思う。 考えないのも良くないが、あまり考え過ぎると勢いは低下する。 直感を信じるということは、勢いを感じるという事だろうか…。 自分に勢いがない時には、誰かの勢いに巻き込まれてもいいものだろうか…。 私は勢いで結婚したが、離婚した。後悔はない。今は幸せだ。 最近自分に“勢い”がないのが分かる。 考えすぎているわけではないのだが、動けない。 少しあせり気味…。 心が満たされていると“勢い”はなくなるのだろうか。 私には、まだ“勢い”がコントロールできない。 そう思うと、満たされていない自分が見えてきた。 今日は昼から“勢い”にのってみたい。 |
学生の頃、アルバイト先の飲食店の顧客が酒を飲んで私に腕相撲を挑んできた。定年退職前の、もう若くはない男性だが、腕相撲で今まで負けたことがないと自信をもっていて、同じように私も負けたことがなかったものだからお互い真剣に力を出し切った。勝負がつかずに動かなくなったものだから、私のほうから“引き分けにしましょう。”と声をかけ、グリップをほどいてしばらく経過したが、若くない男性の息は荒かった。 後で同じアルバイトの友人が“どうして負けてあげないんだい。相手は年寄りのお客さんだし、酒を飲んでるし…心臓麻痺で死んだらどうするんだい。”と、私に悟した。 私はハッとして、友人が大人に思え、自分が周囲の見えない子供に思えた。 今年の元旦、ラグビーを趣味とする今でも筋トレしている34才の甥から腕相撲を挑まれた。力が均衡して動かなくなった。私は“体に悪いからもうダメ。やっぱり強いは…負けた。”と、途中で止めた。 私は年上なんだから、負けてくれればいいのに…と思った。 そして、そんな風に思った自分が、やけに年寄り臭く感じた。 |
私が6年ほど前に“大動脈解離”という病気が発症したとき、救急車で運ばれた病院で正しい病名が診断されず、どことは言えない体の内側から突き上げてくる痛みを感じつつ、痛み止めを投与されながら病室に一人寝かされていたことを、ふと思いだした。 眠ることのできない痛みでじっとしておれず、体をよじり、目を見開いて天井や壁を見つめていた。 あの時、自分がはじめて経験する強い痛みを感じている時、世の中には今自分が感じている痛みより、もっと激しい痛みがあり、例えば死につながる痛みというものがあって、その痛みに比べれば自分が感じている痛みは、まだましに違いないと思った。 後日病名が判明した時、その時自分が死にかけていたことを知らされた。 あの時にあの痛みを知ったから、人生にそれ以上の痛みがあることを理解できるようになった。 あの時以来、生きるということが、肉体を通して感覚、感情を経験することだと知った。 私が入院した時に、全く同じ病気だと診断された私よりずっと年上の知人がいる。彼は解離の始まりの部位が心臓から離れていたので手術をしなかった。今では私以上に無理ができない体だ。彼は昨年前立腺癌の手術を受けた。 昨日、彼と久しぶりに病気の話をした。 彼にとって“死”は身近な存在のように思う。そして“死”を怯えている。だから私の理解する“死”について話した。すると、楽になったと彼は言った。 自分のなかに、“死”を経験しようとするものが存在していることを、認めるかどうか…。 そしてその存在を自分と認識できるかどうか…・ 生きるということは、“すべてを肉体を通して経験すること…。”だと私は理解している。 知人は、私にそのことを他人に話し広めるように勧めた。 しかし、私はそれが私のなすべきことだとは思えない。 しかし、あなたにだけは、話しておこうと思った。 |
私には、長年悩まされている首の痛みがあって、整形外科でレントゲン撮影して診断を受けたところ、第6と第7頸椎の後部に年齢が増すことで生じる突起ができ、可動部を狭くし圧迫によって起こる痛みだと説明を受けた。これが私の受けた痛みに対する唯一の医学的診断である。だが、その医者は“心配するほどのことはいが、同時に治す方法もない。”と言った。 心配することはないのは結構だが、痛みがあるのに治す方法がないのは辛い。 そのため、自分なりにストレッチしたり、首の筋肉をつけるトレーニングをしたり、いろいろ試してみるがいっこうに良くならない。整骨院に通ってはいるが治療後の数時間しか効果がない。カイロプラクテイックに行って“コキッ”と骨と骨の間の癒着を剥がしてもらうとしばらく楽になるが、それでも2~3日するとまた悪くなるという塩梅だ。 3日前にある人から、首に巻く専用カイロを勧められ、早速薬局でもとめて試してみると、思ったより改善の効果がみられ、マイブームになっている。 結局血のめぐりを良くする効果なのだろう。体を温めることが体調管理のために大切なんだと気が付いた。 普段シャワーしかしないのだが、これからは風呂でゆっくり体を温めよう…。 温泉にも、もっと行ってみようと思った。 |
ワープロの時代からP.C.が普及しはじめたころ、当時のP.C.は情報を入手し、文書を作成し、表計算し、ホームページを作って情報を発信し、メールをやりとりし、専門のソフトをダウンロードしてポスターのデザインを行い、設計図を書き、絵を描き…一台でなんでもできる万能ツールだった時代があった。 その頃、どうしてパソコンでテレビを観ることができないのだろう?と疑問を持った。 そのうちに、テレビを観ることのできるP.C.ができ、携帯電話が普及し、電話にカメラがついて、テレビも観ることのできるようになり、今ではパソコンに電話ついているというスマートフォンの時代になりつつある。 P.C.は、明らかに何でもできる便利ツールから情報入手及び伝達と文書及びデザイン作成関連とが分離し、専門性をもった機能が重視されるようになってきたように思う。 いったい誰が、この進化をコントロールしているのだろうか? 家電メーカーか、C.I.A.か、宇宙人か、やはり神か… その人たちは、どこまで人類の未来をみているのだろう? 家電の新製品見本市のニュースで、パソコンにテレビがついた製品(スマートフォンがでかくなって電話がついていない機種)がこれからの主流であると聞いて、ふと考えた。 |
“トレカ”をご存じですか? 以前から描きかけては、気乗りせず描けずにいたイラストを、昨日中に完成させようと二日前から根を詰めて一気に描き上げ、本日午前中に仮納品(これからも手直しはする予定)したもので、ほっと一息ついたから、午後から繁華街を散策した。 駅近くの商業施設にお宅っぽい人たちが集まるフロアーがある。今まで横目で通り過ぎるだけのショップの中に入って、どんなものが置いてあるか見学してみた。 フィギュアの店や、店員がメイドのコスプレをしている服屋とかは、テレビのニュースとかでみて、なんとなくわかるところだが、普通のCDショップかと思ったらアニメソングの専門店であったり、種々様々なデザインされたカードが何列ものショーケースにぎっしり並べられた店があるのには驚いた。カードには其々に結構高価な価格表示があり、平日昼間だと言うのに学校行かなくていいの…と言いたくなる若者やらスーツ姿の人たちが、たむろしている。 いっしょにいた知人の話によると、トレーディングカードと言われるアメリカで生まれ、発達したこのカードは、レアものになると愛好家の間で億単位の金額で取引されているようだ。芸術と言われるものなら画商が値段を釣り上げ高額で売買されることは知るところだが、たかが印刷された厚紙がとんでもない値段で取引されると聞かされ口が開いて塞がらなかった。 私にはカードに価値観を見いだせない。 私自身がまだまだ知らない世界があることを認めよう。 世の中には、趣味嗜好、価値観、美的感覚の異なる人々が周りにはいっぱいいるんだ。 きっと自分が普通だと思わないほうがいいのかも知れない。 周囲の人は、みんなレア…自分自身はもっとレア…そのくらいに思っているほうが無難に違いない。 印刷したカードの価値を膨らませることを思いついた発案者…笑いが止まらんだろうな。 私としてはカードを取引する側より、カードトレードの発案者になりたいと思った午後のひと時であった。 |
偶然にスイッチを入れた正月番組に池上彰の特別番組があって、そのなかの一つのテーマとして世界中で信仰されている宗教の解説があり、エルサレムにある三つの宗教遺跡を実際に彼が訪ねてユダヤ教・イスラム教・キリスト教についての解説をしていた。 昨日、繁華街の散策に飽き、映画を観に行こうと震災以後行ったことのない(地震で取り壊され新しい都市ビルになった)建物にある映画館へ何を観るでもなく足を向け、待たずに観れる映画のチケットを購入し“灼熱の魂”と言う映画を観た。 この映画館は俗にいうハリウッドものはあまり上映しない。わりとマニアックでマイナーな映画コンペティションで賞を獲った作品を上映している。 カナダ・フランス合作の“灼熱の魂”という映画は、パレスチナにおけるキリスト教とイスラム教の間に翻弄されるある家族の数奇な運命を描いた作品だった。全く予想していなかったストーリーであった。 私は、現在“傘”の張地のデザインを手掛けている。そこには星と月と十字架が描かれることになると思う。 私は決して宗教問題に立ち入ろうとしているわけではない。これを機会に宗教を学ぼうとも思わない。 ただ、私が作ることに必要な情報が、むこうから向かってくるのだ。 自分の人生に必要なことは、いつでも自分に向かって流れてきている。それに気が付いて己の手を伸ばすか否か…。それが積み重なって大きな差が生まれる。 私は、躊躇していた“傘”のデザインに今から取り掛かることにした。 |