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本日のやり取りから。 昼、お茶を入れに給湯室へ行く。ここ一年くらい時折見る女性(お姉さん?おばさん?)だ。何気なくお茶を入れようとしていると「チャイムなりました。?」と 自分ではうなずいたつもりだが、「返事ぐらい」ないのかと。 無視したと受け止められたのだろう。 他愛もないことだが、対人への“期待”について考えさせられることだ。 人は往々にして自分の言動について自己なりの都合、解釈を持って応答を期待する。 ところが、相手となる当事者自身の都合がある。例えば、考え事をしていた、間柄、当人の性格、気分、調子と色々ある。 お互いたまに挨拶を交わす程度だが、改めて考えさせられる。 自分または相手に「こうだからこうなるものだ」、「こうあるべきだ」と考え、期待するのはあくまで個人の思い込みだ。 他に何かを期待しようとしてギャップに遭遇すると本人の挫折感、対象への偏重した考えが生まれてしまう。 物事に対して最初からニュートラルな姿勢・思考であると結果に動揺され難い。 まず、期待せずに複眼を持って冷静に結果を受け止めることが大事と思う。 人間のちっちゃいことを言ってしまった。 |
ジョン(犬名)は今日で外出散歩が2回目になる。 我が家に来てはや半年、最近は片手で持つには重くなってきた。 ケーキ箱に入るサイズだったのが、大きくなり与えた寝床の籠が小さくなったようだ。 週末なので洗ってやった後、身の回りの手入れをしてやった。爪を切るのは相変わらず嫌がるが、だんだん観念するようになった。 付近の公園へ連れ出した。子連れ家族が点々と楽しそうに遊んでいる。 観る光景が珍しいのか、きょろきょろして落ち着きがない。 と、同種犬らしき子犬を連れた子供が母親となにやら言いながら近づいてきた。 ジョンが来たときを思い出すような(両手で隠れるほど)大きさだ。まだ1~2ヶ月だろう。うちのと同じ種類などと母親に言いながら子供がさらに間近にきた。 「こんにちは。オスですか。」という。「オスだよ。」と言っていると、ジョンが飛び跳ねながら吼える。外の環境に慣れてないのか警戒心からの行動だろう。向こうはメスだそうだがきょとんとこちらを見ている。母親から「怒っているようなのでこちらに来なさいと」諭され、また向こうに行ってしまった。 (まだ外慣れしてないのでごめんなさい。) 公園の中に入るには階段を上り下りしないといけない。あれほど嫌がっていた階段だが、興奮していたせいか少し手綱を引くと一瞬、躊躇したかと思うや警戒に降りていった。 (不安もちょっとしたきっかけで治るのだろう) 帰宅の途につくも階段をあっとゆう間に駆け上がった。(単純なものだ) 帰宅してもいまだ「ゼェゼェ」言っている。楽しかったのだろ。 なごやかな一日だった。 |
このたびのWBCに興じた人も多いだろう。その内容は他に譲るとして昨年のオリンピック以来感じるところがある。 公の場での韓国側の横暴な振る舞い、言動は置いとくとして気になってた日本側の姿勢だ。今大会では相手の無作法に反意を持って決起させられた結果、勝利に大きく貢献した観もある。 アメリカを始め主要な有力国は最初から結果が分かったかのようだった。 すなわち開催前から自国の実力優位であるとの驕りだ。それゆえ相対した場面で観戦側に試合そのものの興味を沸かせない。 こと韓国選手は日本との対戦で初回からヘッドスライディングしていたという。 理由はどうであれその闘志は見習うべきところだ。 相手に誘起されたとはいえ日本側にオリンピック当初見られなかった姿勢は後半幸いにも強く表れたのが良い結果につながったと感じる。 (オリンピック当時、日本選手が言っていたのは相手の気持ちが一枚上だったなど。相手云々より本人に強い気持ちがないのかとあきれた。) 本題だが。 なぜこんなことを言っているかというと少なからず周囲の人に感じてきたことがある。 老若男女問わず日本人はアジア各所に行くと変な驕りを強くし、現地への蔑視態度が顕著だ。たとえば、二言目には「日本では・・・」、「日本人は・・・」と言う人をよく見かける。露骨に表現しなくても、間接的に言動に表れることもある。 (こうゆう場面に遭遇するとあなたが創造したのか、見識の狭い個人の常識かどうしたのかというような事を思う。他人、自分の下らない自慢よりも純粋に相手側の文化、習慣などを理解する心の余裕を持ちあわせないのかとつい思う。) 一方、自分に利があることには低姿勢だ。(言う側の多くは気づてないようだが、相手もばかではないので見透かされている。) ところが、変なコンプレックスからなのか欧米に対しては謙虚(腰が低い)。 こういったちょっとした事が依然、周辺諸国に溝が埋まらない一因なのではと感じる。 自分も若い頃こうゆう面は少なからずあった。それでも相手に先入観なしに素直に接すると、対応は違う。(いまでもこの気持は大事にしている。) 確かに多くの面で優位性のあることは多々ある。しかし、これはたまたまその時代、環境にいるというだけで立場変わればどうだろう。 日本もちょっと前まで何もない時代だった。 体制、環境など違いはあるが、やはりその国、人に対する尊厳は大事にしなくてはいけない。 たとえ、期待通りの結果が返ってこないにせよ(相手に一方的に期待しないほうがいい)常に謙虚な気持ちは持つべきだとは思う。 虚栄心のような外に対する高慢なプライドまがいではなく、内に対する謙虚さ(自己への客観的な視線など)は必要だと思う。 同時に劣者、弱者に対する優しさしかり 愚痴っぽくなったが、ずっと引っ掛かることなので書いてみた。 |
今朝、通勤途中いつも通りラジオ番組を聴いていると桜の開花情報と題して水戸の偕楽園、角館・・・となぜかこの2都市に触れていた。ふと思い出した。 (回顧となるのもめっきり出る事がなくなったことからくるストレスだろうか。) 水戸は茨城の県庁所在地。一度仕事でこの付近の町にいったのだが滞在期間の少なさからかほとんど印象が残ってない。当地の人に名物?の「あんこう鍋」を奨められてご一緒したが身がたんぱくで、さ程といった印象だった。 一昨年に水戸へ行く機会があった。羽田→上野にでて常磐線で北の方へ下る。利便性もあって駅周辺に宿をとった。 休日に電車で普段とは逆方向(上り)に行ってみた。 水戸を出るとすぐ視界に広大な庭園風景が飛び込んでくる。日本三大庭園のひとつだけあり一時の間、線路ごしに景勝地の眺め続く。 じっくり庭園観賞する奥ゆかしさを持ち合わせてないのでこれで満足してしまった。 ところで水戸というと黄門様。駅を始めいたるところに黄門様がおいでで(像)、風雪に耐えしっかり庶民を見守っておられる。こんなに同一有名人が複数みられるところも珍しい。 (勧善懲罰の典型である、かの有名な時代劇は幼年期お世話になりました。) 次に水戸といえば納豆。どちらかといえば好きなほうだ。 昼食はいつも社内食堂で仕事先の人とご一緒していた。毎度必ず納豆を食べている。納豆を食べるときは実に真剣というか熱意のようなものが感じられる。そこで、「やはり納豆は好きですか?」。「はい、朝、昼、晩食べます。特に、ここのは美味いです。」 (なるほど。よく分かりました。) 次の日、期待がてら食べてみるも、特別な驚きはない。味覚がおかしいのだろうか?しばし考えつつ、その晩、藁に巻かれた一品物を買い再度賞味。やはり今までと変わらない。 所詮、素人には分からないものだと納得してしまった。 とある時のこと。隣県の千葉よりなじみのある顔がやってきた。懐かしさもあって茨城人、千葉人を一緒に宴をもった。雑談に華を咲かせる中、両雄の対抗心に火をつけてしまった。昔「ちばらぎ」東京近郊の人がいってたのを思い出し、ついこの言葉を言ってみた。 千葉方の目の色が変わった。特産の話からはじまり、淡々と違いを講釈しだした。面白かったので「目くそ鼻くその話」などとさらに油を注ぐと勢いを増して、「東京ディズニーランドは東京ではなく、千葉にあるので正確には千葉ディズニーランドだ。」とご丁寧に解説してくれた。 その他この地方の戦乱期の話を聞けたこともあって面白かった。 この種の話では昔同僚だった関西人が徳川について言っていた事がある。彼によると日本の都は古来より関西にあったのだが、徳川家康が東に移して以来、中央でなくなったことが事の外、腹立たしいらしい。(関西方面の人にとっては徳川(家康)は国賊なみに思われてるようで、このことは脈々と受け継がれてるらしい。過敏なとこには触れない方がいいだろ。) 水戸の四方山話となったが、一方、角館というと商家、武家屋敷が残る東北の町だ。 地方によくある古城下町といった印象で、深い自然の中にたたずむ趣のある処といったところだ。ただ、土地柄、他の町とは違い戦火の難から逃れやすかった環境にあり、建物など過去の形がそのままに多く残しているようだ。 押入れに使うことなく「みちのく小京都 角館」と記された赤いうちわが眠っている。 日本には「小京都」が氾濫している。いまや俗化された言葉で新鮮味がないのが残念だ。 今日は別の話を書くつもりが水戸一色になってしまった。 |
昨年「篤姫」を無視して以来、今年はと「天地人」に期待した。 回を重ねるも、なんとなく物足りない。やはり同じように感じる人も多いようで視聴率も減退のようだ。 顕著なのが中心となる主役のミスキャストだとの意見が多々ある。同感だ。 史実と嘘の面は置いておくとしても、智略を秘めた一武将を表現するにはあまりにお粗末としか言いようがない。人には向き不向きもあるだろうし、役者自身、特段、批判するわけでないのだが、真剣に人物像を理解・表現しようをしているだろうかと疑問符が残る。それゆえ何も伝わってこないと感じる人が少なからずいるだろう。 (数年前に歌舞伎役者が頻繁に泣く作品があったが、人情ものの如く武将たるものが人前で簡単に涙腺が緩むことがあっただろうか。この点は大いに不満だ。) 人それぞれの見方はあるが、興味本位のドラマと違い、大河ドラマには史実に対する尊厳、正確な時代考証が求められるし、この点に期待する人もいる。 つい批判調になったが期待してただけに残念だ。 前々回で亡くなった上杉謙信役の阿部寛。 彼は役柄問わずオールラウンドに事をこなせる俳優だとあらためて感じた。ドラマなどはあまり見ることはないが、台湾に行ったいたときに再放送?をみた。 (出張に出ることが多かったせいか国内事情には疎く、「看護士」が分からなかった。いつ「看護婦」と呼ばなくなったのだろう。?) 因みに台湾では公共TVは有線放送で数10チャンネル(CH No.は100ちょっと)ある。日本の番組はNKH、過去の娯楽番組など数CHある。 その数少ない放送のなかで、確か「結婚しないorできない男」?だったか主演ドラマを流していた。阿部寛演じるキャラクターが面白いので時々見ていた。外貌は少々譲るとして(気にしないで)、ドラマながら似たところがあると勝手に感じてから妙に親近感をもってしまった。 さておき、以来役者としての資質の高さを認めるところだ。 |
寒くなると温かいお湯で緑茶を飲む機会も多い。子供のころからの習慣か 以前は冬でも冷たい麦茶を飲むことも多かった。(因みに麦茶は「茶」といっているが茶葉を使用してないので正確には分類上、お茶ではない。玄米茶なども) 飲み物には意外と気を使ってきた。清涼飲料水の類はできるだけ飲まない、果物ジュースは100%など。(酒については全然気を使わないのだが 元々、茶は中国を発祥として世界各地に広まったものだ。イギリスの紅茶とは言うがこれは茶葉を完全発酵させたものが普及したものだ。英語の「tea」の語源は中国の一地方の「テェ」からきている。(緑茶は酸化発酵させないもの、烏龍茶は適度に酸化発酵させたもの) ヨーロッパでも広くお茶は飲まれてたがコーヒーが入ってきてから(硬水がコーヒーの方に合うとのこと)、あまり飲まれなくなったそうだ。 日本でも中華料理の席にはジャスミン茶が出てくるし、中国・台湾でも料理の席では一般に出る。自分は昔から独特の香り(花)がだめで飲まないのだが。このジャスミン茶は花茶として愛飲されるが、茶葉に花弁を混ぜたものなので純粋にお茶には分類されない。 中国では草として料理に使用されていたのが最初で次第に今のように茶葉を煎ってお湯でだし汁を飲むようになったとされている。 台湾に行った最初のころペットボトル飲料が普及しておらず(日本でも缶主流)、会社に哺乳瓶(もちろん飲み口は違うのだが)のような容器に茶葉と湯を入れて持ち歩いてるのをよく見かけた。 また、上部に茶漉しのついたティーカップの縦長版のような陶器に茶葉を入れ、お湯を注いで飲んでいるのを見かけた。(急須が要らず、個人で飲むには合理的。容器を土産に持ち帰り使っていたこともあった。) やはり本場だ。お茶の歴史が長いだけあって習慣、飲み方など知らないことが多い。 中国茶には日本で愛飲される緑茶をはじめ、原種ほか産地・製法(発酵のさせ方)の違いだろうか、烏龍茶(種類が多くある)、高山茶、鉄観音茶、プアール茶といったものがある。 (このへんは台湾でよく目にするものだが、中国にも多種ある。) 日本で高価な緑茶といっても知れてるが、向こうのいいお茶になると考えられないくらい高価である。(値段の桁が違う) 何度か飲ませてもらったことがあるが、特にいいものになると味はもちろん香りが違う。 烏龍茶は一度、会社の土産に持ち帰ったときどうやって飲むか聞かれたことがあった。普通に緑茶と同じように言うと烏龍茶は冷やして飲むものかと思っていたと言われたことがあった。 仕方ない。元々日本には飲む習慣がなく、近年ダイエット効果?ならぬ、うたい文句でペットボトル入りの一飲料として普及したのが始まりだ。しかし、緑茶と同様、本来純粋にお茶としての飲み方で味わうものだ。(マスコミの原因による間違った伝来だ。) ここで一度教えてもらったお茶の飲み方を一つ (日本の茶道は知らないが、お茶のちゃんとした飲み方の一つだろう) まず、各茶器が用意された。中国茶用の茶器は小ぶりだ。(正式?) 茶盤という「すのこ」がついた2層式の台に茶壷(急須)、茶杯(お猪口のようなもの)、聞香杯(香りかぐためのもので、お猪口を縦長にしたようなもの。台湾のみ?)が準備された。 最初に各茶器に湯をかけ温める。その後、茶壷に葉を多く入れ容器から湯があふれるほどに注ぐ。蓋をしてさらに茶壷の上から湯をかける。少ししてお茶を聞香杯に注ぎ、そのまま捨てる?か茶杯に移し変える?。(うら覚え) 中身のない聞香杯を鼻に近づけ香りを楽しむ。 そして二煎目のお茶を茶杯に注ぎ味わい、さらに残った香りを楽しむ。 比較にはならないだろうがワインのような楽しみ方(飲み方)だろう。 まあ、こういったところだ。 主催当人はこのとき「日本人はお茶の味が分からない。飲み方を知らない」などとのたまっていたが、「はいはい」と聞き流しつつ飲んでいた。確かに香りはよかった。 最後に 高校時分、伝統高なんだか知らないが通っていた学校が近くに茶園を所有していた。毎年、茶摘の時期になると全校生徒が茶畑で葉っぱを摘んでいたとゆうかちぎっていた。 さらに自分たちで収穫?したものを買わされていた(あくまで希望者のみだが)変な伝統はいらないとつぶやきながら採取したものだ。 |
白洲次郎 最近NHKでドラマ化放映された。 前宣伝で楽しみにしていたがうっかり第1回を見逃してしまう。残念。 第2回は見逃さないようしっかり録画。(それにしてもTVにハードディスクとは便利な世の中になったものだ。) さておき、白洲次郎が持つ日本の男にかつてあった「気概」、「実直」、「正義感」、「毅然」・・・・のような言葉はどこにいったのだろう。 昨今の政治家その他公職人にはないのだろうか。 打算的な損得勘定で行動したり、長い物に巻かれろではないが保身一辺倒はどの世界でも多い。 白洲次郎は自己の主義主張、信条を大事にした人として共感できまた、尊望する。(世の中には根拠なき自信の類はよく目にするが) また、数々のエピソードはあるが相手の地位・身分(上位、下位)問わず言動が終始一貫しているところがすばらしい。 白洲次郎の人となりを表す言葉で興しろい言葉を二、三。 ・占領統治下のGHQに対して 「われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」 ・日本男性に対するメッセージ 「今の日本の若い人に一番足りないのは勇気だ。「そういう事を言ったら損する」って事ばかり考えている。」 (“若い人”は昭和時代なので今現在なおさらであろう。) ・妻正子との結婚を承諾してもらうため、正子の父に言った台詞 「お嬢さんを頂きます」 (さすが!) 余談だが、白洲次郎とまではいかないにしろ昔の人には少なからず、こうゆうすばらしい面はあったと思う。 今はいないが子に多くを語らなかった父親について思い当たるところが朧ながらあったような気がする。 (後に母親から聞かされ知ることも多かった。不肖ながら息子はたいしたことがないのだが。) 福岡市内で今週末より白洲次郎と正子の世界展とのことなので気が向いたら足を延ばして見よう。 |
見聞の限り、男と女には次のような違いがあるのではないか。 ・行動姿勢 男性の「積極性」、「自発的」、「行動的」に対し、女性の 「受身」、「依存」 ・思考 男性の「論理的」に対し、女性の「感情的」 ・特徴的な感情 女性の「母性」に対し、男性の「父性」?(正確には母性に対比する 特徴は残念ながら男性にはない。) ・本質的な「強さ」 男性より女性が数段上だ。(男にはやはり母親の存在は大きく、世の 男性諸氏が相手の女性に頭が上がらない大きな要因だろう。) 女性は「ロマンチック」なる言葉・状況を好む。相手の女性にロマンチックでないと言われたことがある。これは女が頭の中でイメージする傾向にあるのに対し、男は知らず知らずのうち常に行動すること自体が「ロマン」だ。だから、あえて特別に「ロマンチック」な状況を作る必要がないのだと思う。 最後に一つ引用を。 「男はもともとどうしようもなく弱くて、生まれつきやさしい。だから、子供のときから 強くあれ、強くあれと育てなければならない。女は生まれつき、強くてこわい。だから、やさしくあれ、やさしくあれと育てなければならない。」 なるほど。 |
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