話していて相手が感情的になった時…なにを言っても通じなくなる。 そんな時に、下手に口を挟もうものなら、さらに火がついて向かってくる。 嵐が通り過ぎるのを待つ方がよい。 ただただ、冷静に相手の話を聞けばいい。 その人の本音がそこにあると思いながら…。 |
物事を判断するなかで、0か100か…白か黒か 一つしか答えがないと思っている人は、以外と多いようだ。だから第三者の判断を仰ぐことになる。 だいたいの、落としどころが分かっている私は、第三者の助けなく話し合いで決着をつける自信があるのだが、いかんせん相手が感情的になって私を全否定してきたら、やはり第三者の手を借りなければならない。 なんと無駄なことを…と、思うのだが、これが現実だ。 こんなことで、時間をとりたくはないのだが、これが現実だ。 |
大震災の直後、車の移動ができるようになって間もなく…、墓の様子が心配で見に行った。案の定、墓石は倒れ、ずれ、本来なら陽の光を受けずに静かに地面のなかにじっとしているはずの骨壺の蓋が開き、骨がむき出しになっていた。 この時以来、私は死んでも墓には入りたくないと思った。どうして私の体の一部が大地に帰るという自然の摂理に逆らって狭く暗い壺のなかに閉じ込められるのだろうか?と思ったのだ。 だから、樹木葬も分からないではない。でもやはり果樹には抵抗があるなー。 |
尊敬する果樹園芸のオーソリティーの教授は、自分が死んだら土に埋め、そこに果樹を植える樹木葬を私に勧める。もともと墓はいらないと思っていて、散骨を希望しているから教授の提案に耳を塞ぐつもりはないが、果樹と言うのがミソである。桜とかなら分からないでもないが、果樹となると少し抵抗がある。 いつか木が大きくなって、実がなったとき…、私の子供やその伴侶、それに孫たちが1年に一回集まって実を摘み口に入れる光景とか、そのまま誰も収穫せずに腐っていく風景、あるいは営業目的で収穫されて見ず知らずの人が食べている風景…、そのどれをとっても違和感がある。 やはり、散骨がいいと思うのだ。 |
私には、神・時間・幽体離脱・リーディング・予言・死・眠りその他超能力についても私なりの理解があり、ときどき他人に話してみるのだが、誰もが初めて聞く話だと興味を示しても、それ以上話は進まない。 私は神や宗教家や学者になるつもりはない。だから他人に話をした後は、私が考えるようなことは、人が生きいくうえでは必要のないことなのだと納得する。 だけれど、私より、上手く話ができる人がいたら会ってみたい。 |
有難いことに…私には、身近に人生における偉大な先生がいる。 やってはいけない禁じ手、物事を企てる時の手順、どうすれば他人の気を害せるか、失敗するには理由があること…いろいろ教わった。 残念なことだが、実は彼は反面教師である。やることなすこと全く上手く行かない。いろいろ気づかせてもらったお礼に、私はいろいろアドバイスするが、全く通じない。 彼は話しの途中で “それ…分かるは…以前こんなことがあって…”と言って、自分の話を始め、結局いつも話題が飛んでしまう。彼から教えられた最も大切なことの一つに他人の話の途中で“分かった”と、言ってはいけないことだ。その一言で、その人が最も伝えたい話を聞けずに終わってしまうのだ。 私の反面教師に、この大切なことを、いつまでたっても伝えられない歯痒さを感じながら、これからも彼から多くのことを気付かされるに違いない。 |
昔の人は寿命が短かったこともあるが、奈良時代以降12~16才で元服(大人になるための儀式)を済ませていた。近代になって20歳未満は子供という考え方が根付いた。 考えてみたら、体格の完成度ではない、技術や俊敏性を競うスポーツの世界では、最も身体能力の優れた世代は15才前後のような気がするし、きっと記憶力、発想力、判断力もその頃が最も優れているのかもしれない。 そう考えたら、16~17才の人達に選挙権を持たせ、しっかり考えて投票させたら、先入観なく公平に候補者を選択するかもしれない。 大人が20差未満の人達を子供の枠に抑え込まないで、もっと大人の世界に引きあげる教育があってもいいような気がする。 |
夜泣きする犬がいる。 可哀そうだから…うるさいから…そばに行って食べ物を与える。声をかける。そうすると犬はしばらく静かになる。 そして、翌日また夜泣きをする。その翌日、また繰り返す。次の日もまた繰り返す。 犬が泣く理由は、 お腹がすいた。痛い。恐い。寂しい…のいずれかの理由だ。 野生で声をあげるという行為は、敵に居場所を知られ、狙われる危険があるから、絶対に避けねばならない。泣けるという環境は、ある意味良好な環境だ。 犬を夜中に泣かさないようにするには、 泣いても近づかない。顔を見せない。餌をやらない。場合によっては天罰(顔や声はださずに驚かす)をくだすことも必要だ。 泣いても、なにも手に入らないことを教え、泣けば天罰が下ることを教えることが大切だ。 泣かせているのが自分であると分かれば、泣いても淡々と無視し、厳しく接した方が良い。愛を注ぐ時はまた別の時、泣かないときに抱きしめてやればよい。 憐れみをもって与える愛は、本当の愛ではないのだから…。 |
昨日、‘ノア’を観に行った。 私はクリスチャンではない。 私は世界を作ったクリエイターがいると信じているが、人を試す神がいるとは信じれない。人が思う神は所詮…人が作ったもので、どんどん人はクリエイターに近づいていくが、人が思い描く神は存在していなと、映画を観て、つくづく思った。 |