昨晩、マダムの店の外から薔薇のおじさんがマダムと話をしているのが見えた。いつものように軽く挨拶して帰ろうと、店の扉を開けた。薔薇のおじさんは、私と同じ大動脈解離になり手術はしなかったが食事療法と投薬を続けている。その後癌で手術もしたから、見るからに不健康そうである。 話しの拍子に死後の話しになり、私の考えている‘死’について話すと、おじさんは真剣にいくつもの質問を返してきた。 ふと、おじさんが‘死’を恐れていると感じ、さらに力をこめて私が死を恐れていない理由を話した。 どれだけ、おじさんに勇気を与えられただろうか?別れ際…おじさんの顔の強張りが薄らいでいた。 死に直面した時、その痛み・苦しみ・恐怖は、私も拭い去ることはできない。しかし、それを望んでいる自分もいることを私は確信しているのだ。 |
昨晩、ある事故の責任の所在を問うために工事業者と話をした。明らかに工事の不備によりに起こった事故であるが、工事業者は根本的責任が他にあると言い張った。 話が進まない…。 私は“あなたの言い分が分からないわけではない。だけど、あなたが責任を回避すると迷惑をかけたところへの謝罪をするものが誰もいなくなる。あなたは、ご自分には責任がまったくないと思っているのですか?”と、問うた。そうすると彼は黙った。 話がこじれればそれなりの費用を払って第三者の世話になることになる。賢明な者同士なら時間をかけずに当時者同士…数字で片を付ける。 そんな妥協点をみつける私のやり方に、“甘い!”と言う人がいる。 だが、私はそんな進め方しかできない。振り返ってみて、それなりに決着がつき損をしたと言う記憶がない。 自分のやり方で。これからもやるしかないと思うのだ。 |
町を歩いていて、知人から声をかけられた。彼は事業に失敗し、昨年10月に全店舗を閉め町から離れた。 やつれているでもなく、いつもと同じ様子で安心したところ、お茶を飲みに行こうと誘われスタバへ向かった。そしてアイスコーヒーを一杯づつ頼み小一時間話をした。 彼の突然の店舗撤退で利害関係がある人とも私は知り合いだから、そこのところは全く触れない話に終始した。 人それぞれに考えがあり、言い分がある。今後の彼との関係のなかでは、これまでと同じように利害関係を作らないでいようと思っている。それが長く付き合うポイントに違いないと思うのだ。 |
電車の運転席の後ろから前方の線路をみていると、カーブが近づくと、どのように車体が傾くかが分かってきた。そして傾きの反動で逆方向への揺れと共に車体のブレが発生する。別に物理的な法則を言うつもりはないが、前へ進むと言うことは微妙なブレを伴うものだと理解できた。 ブレが生じるものだと分かると、常に揺れに対する身構えができるから、最近になって、やっと吊革を持たなくても立っていられる。 みんさん電車の一番前に乗ってブレの予測を体験してみていただきたい。 揺れに対応できる体勢を見につけようではありませんか。 |
今朝電車のなかで、年配の男性が片手にクルミのような凹凸のある物体を片手の中で、音を立ててクルクル回していた。私にとっては、とても耳障りな音だったので「その音は気持ち悪いから止めて下さい!」とか「みなさん迷惑されていますよ!」と喉元まで声が出かけたが、こらえて…いぶかしげに男性の手を見つめサインを送ってみたが、男性は我関せずという風に回し続けていた。 私がその場から離れるという手もあったけれど、運転席の後ろからは離れたくない。 だから、線路を見つめながら他のことを考えるようにしたら気にならなくなった。 ものごとに集中し過ぎて、イライラを感じたときには、気分転換が必要だと思う。特に口に出せないことは、気を紛らわせて乗り切ったほうがいいのかもしれない。 それでも、思っていることを相手に悪意を持たれないように伝える術は持ちたいものだ。 |
視力が良いと言うことは、すべてのものが良く見えると言うことだが、良く見えるということが、そのものを良く理解できると言うことではない。 視力が悪いと言うことは、すべてのものがあまり見えないと言うことだが、見えないことが、そのものの本質を理解できないと言うことではない。 物事を理解するために必要な視点は、先ず俯瞰する位置に立つかどうかであり、その意味で目の悪い人が、物事をボーッと眺めるように見ていることは、大局を見るにつけ有利なように思う。 とりわけ、視力の良いものが、最初に自分の目の良さに頼らず、敢えて目を細め視力を低下させてみるような…、あまり細かいところを見ないところから始めることが、一番正しい理解ができるように思う。 |