1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊。忘れもしない。 なぜか今回の話題がタイムリーなものになってしまった。 そう、あれは20年前のことだった。 ミュンヘンから(たぶん10時間ぐらい)に戻り、ベルリン行きの列車のチケットを買った。フリーのDBパス(フリーチケット)はあったが、夜行列車のため新たに購入した気がする。 そそくさと食料を買い込み、列車へ乗り込む。 長距離列車のため皆、大荷物を持っている。搭乗率は100%をゆうに超えている。リックとカバンを持って4人がけの席に座った。自分は進行方向と逆向きの窓側、対面には無精ひげを生やした少し年長風の若者、右隣とその対面は母親に抱きかかえられた子供と、もう一人の子供だった。 ミュンヘンを経ってしばらくすると対面の若者が缶ビールを飲みだした。ここまでは別段風変わりではないが、このあとが凄い。次から次へ延々飲むのだ。少し寝て目が覚めると 相変わらず同じ光景。この人は移動の間(ベルリン到着まで)ずっと飲んでいた。後にも先にもこれだけ飲む人は見た事がない。 先程の母親と子供。どこか表情が暗い。これは列車の雰囲気が全てそうだったが、今考えると、当時東側からの人たちが多かったからだと思う。あの当時、壁の崩壊直後とはいえまだ東ドイツは社会主義国だ。ベルリンも西、東に分かれていた上、東ドイツ側にある。 男は無精ひげが多かったし、女は化粧などほとんどがしてない。皆一様に、無表情で服装は地味、体型はどちらかとゆうとやせ細っている。これは一昔前の中国で感じた事と同じだ。生きがいらしきものが感じられず、覇気がない。 母親の話に戻るが、ちょうど日本から飴玉を持参していたので、子供にやった。子供は最初とまどった様子だが、すぐに食べた。ふと母親を見ると感謝の表情を浮かべるのでもなく、ましてや迷惑ともとれない。要は無表情で反応がないのだ。気にせずさらに子供に与えると、子供も無表情で食べている。ここで初めて旧社会主義圏の表情を見た気がした。 いまだにあの時のことは鮮明に憶えている。 ちょっと一言 もともと写真を撮るのはあまり好きではない。印象深いことはいつまで経っても心に刻まれている。あえて全てを残す必要はないと思う。(とはいっても、写真を撮るのだが・・) 閑話休題、翌朝、ベルリンに到着。毎度のこと、駅に着くとまずホテル探しだ。そこへ荷物を預けてから市内散策。やはりブランデンブルグ門。壁崩壊から約1ヶ月半だ。 ここでも日本人にあった。なんと若い女性なのだが、やはり一人で旅してるという。 彼女は地下鉄で東ベルリンに行くという。(なんとも勇気ある子だ) 少し話して別れた。市内をしばらく歩くと、歴史博物館らしきところへ到着。玄関番の老人に足元を見て注意された。何を言ってるか分からず入るを止めた。(後々、考えると足元をきれいにして入れとのことだったようだ) そのままブランデンブルグ門へ直行。さすがに歴史の分岐点だけに感慨深い。しばし直立不動。とくにこの周辺は旧社会主義圏と隣接しているため、いろんなことが肌で感じられる。門衛の交代時間、西側、東側其々から一斉に壁によじ登る。ついでによじ登った。 そこでまた感無量。 残念なことだが、世界各地で民族間紛争が未だ残っている。積年の怨恨が人々から消えることはない。互いの歩み寄りもあるのだが。コソボ紛争のあったある教会の老シスターがこんなことを言っていた。「教会には破壊等で傷ついたものは置かない。また、マスメディアが過剰に紛争の状況、破壊その他現状を流す。これは非常に憂慮すべきことで、決して良いことではないと」 もっと別の方向に向かえないかと。至極、もっともなことだ。 |
普段気付かないが知らず知らず中、日本独自の発想していることがある。 ちょっとしたことでそうかなと納得してしまう。 こんな記事がある。 中国での論争の席上、日本に帰化したある中国人が、つい「先行き不透明だから・・・」と言ったそうだ。 そこで他の中国人は「先行き不透明だなんて、先行き不透明に決まってるじゃないか」「おまえは未来が分からなかったら、何も出来ないのか」と言われ、唖然としたとのこと。 一見、屁理屈のようだが、なるほどと思った。 日本人は時間に几帳面だ。 電車の発着時刻。分単位に律儀なところは数少ない。時間通りが当たり前だと思っている。ところが、海外では、意外に時刻表は目安程度のところが多い。 また、ちょっとした会合に、時間通りに揃うのが珍しいくらいで、30分、1時間の遅れは当然のところもある。 時間に対する意識の違いなのか、時間よりもその先の目的が大事との発想からなのか。 ごく当たり前と思うことも、時々、発想転換をしてみると意外につまらないことだったり、反対に前向きな考え方に変化したりする。 たまには物事の発想を変えて見るのもいい。 |
三重県某市に出張したときのことだ。 夜、市街地に出てみた。街中に入ってすぐのところに旅行代理店がある。 閉店した玄関前で一人の若者が弾き語りをしていた。ごく平凡な光景だ。 軽く飲んだ後、目に留まったので声を掛けてみた。 若者は長渕剛を尊敬しているらしく、「長渕であれば何でも・・・」という。(京都の先生が・・・と、もっと上手の物真似がいるのだろう) 敢えて、「他には・・」と尋ねてみると、「他はできない」と返ってきた。さらに「例えば・・・とか」と誘導すると、「やはりできません」と意思が固い。(相手はなかなか折れない。なんとか長渕以外を歌わないかと、大人気もなく説得にかかる。) そのうち、「じゃあ、スガシカオは?」と尋ねる。少々、思慮のあげく、「1曲だけ“月とナイフ”という歌がだったら」と折れた。 「それをお願い」と言って間もなく、ギター演奏が始まった。ごく短い曲だった。 次の調子だ。 「ぼくの言葉が足りないのなら ムネをナイフでさいて えぐり出してもいい 君の迷いと言い訳ぐらい ほんとはぼくだって 気づいてたのさ いつかまた あんなふうに誰かを憎むのかな だとしたらもっともっとだきしめて トゲのように 心にささればいい あなたにずっとずっと残ればいい いまさら何も言わないけれど 君の言葉は全部ウソでいいんだろう こんなことばかりくりかえしてたら ぼくの涙はいつか月にとどくだろう ぼくはまたあんなふうに誰か愛せるのかな その時はきっときっと かぐわしい風のように時が流れればいい いつまでもずっとずっと続けばいい」 詩の内容は、個性的過ぎる?表現もあるが、メロディが耳に残る。(正直、詩は聴いてなかった。) スガシカオの曲は、曲調が独特で、詩が味わい深い。 先程の出来事と一緒に、なぜか、この歌が心に残っている。 彼は今でも歌っているのだろうか? ふと、頭を過ぎった。 |
台湾に台南とうい街がある。 北から順に大きな街を下っていくと、台北、台中、台南となる。 南へ下るほど地方色、民族色ともに強くなる。 その中に合って、温厚な人柄が多く、居心地の良い街が台南だ。 ここに、担仔麺(タンツーメン)という麺ある。この地方の名産らしい。 醤油ベースのスープにそぼろ?と小ぶりの海老が載っただけの至ってシンプルな麺だ。店ごとに多少、味が違うが、あっさりスープとそぼろの甘さが融和して実に美味い。 ホテルの向かいに、地元で有名な店があり良く通っていた。意外に飽きない味で、週に2~3回は行っていた。(この店が一番シンプルかつあっさりして良かった) もう1つこの地方の名産に意麺というのがある。 こちらは、野菜、海老ほか具材が多く入っており、スープは塩味のようだが味気がない。麺が特徴的で、太めで中空の縮れ麺が入っている。スープにあまりに味がないので、よく醤油や豆板醤を入れて食べていた。(何かだしというのがあるのかと疑わせるほど、薄味だ。) また、台湾には牛肉麺(ニューローメン)という代表的な麺料理がある。 これは煮込んだ牛肉片に、濃い目の煮だし汁が入った麺だ。台湾全土、何処でも味わえ、種類が豊富だ。こちらは台湾では珍しく、味が濃い。店により香辛料がきついのが特徴だ。 台湾で麺料理を注文する際、日本にない習慣を。 それは、麺のリクエストだ。数種の中から麺自体を選ぶことが出来る。これは、注文票の品目の横に何通りかの麺が書かれており、その中から選ぶといった具合だ。(大抵、日本のちゃんぽん面のようなものを注文していた) 他にも麺があるが今回は割愛する。 何より、担仔麺が一番美味い。(と思う。) 鳥魚子(からすみ)を初めて食べたのも台南だった。 こちらは珍味で、ボラの卵を塩漬けしたものを、塩抜きし、天日干しにしたものだ。 食するときは、まず表面を炙り、スライスしてそのまま食べる。空港などで土産物として陳列されている。作る手間や貴重なだけあって少々高価だが、一度味わって見るの価値はあると思う。味の喩えが思い浮かばないが、兎に角、美味い。 久ぶりに食べ物の話をしてみた。 |
この度、NHKスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」が始まった。3年に亘り全13話を放送予定で、今年の放送分5話のうち、あと2回を残すところとなった。 これは故、司馬遼太郎の長編小説で、明治維新後、近代化への変革期に生きる松山出身の3人、秋山好古、実之、正岡子規を描いたものだ。 日本という「小さな国」が「国家」を目指して懸命に歩んだ時期をこの3人の生き方を通して伝えている。 彼の作品には珍しく、フィクションに忠実に描かれている。作品に対する思い入れは事の外だったに違いない。(私が「坂の上の雲」を書こうとしたのは、書き始める十年もまえのことでした。司馬談) 「坂の上の雲」は日本の希望の象徴を「坂の上にたなびく一筋の雲」に喩え、また、掴めそうで掴めない雲として表現している。 ただ、物語は秋山好古、真之兄弟が軍人となり戦争へと突き進んでゆくが、決して軍国主義を賛辞、肯定しているわけではない。 「司馬遼太郎が語る日本」の中で、「坂の上の雲」と海軍文明で語っている。 彼は若い頃、2年程、陸軍に入隊していたが、ある時期から「それまでの質素なスタイルだった将校服が、ナチスのような将校服に変わった」「非常に不潔なというか、嫌な気持ちを感じた」と話している。特に陸軍には尋常ならぬ嫌悪感を持っていたようだ。 「海軍は文明であり、陸軍はどこの国でもそうですが、土着そのものです」「日本陸軍は長州騎兵隊の名残のようなものであり、自国の文化に固持する。文明拒否の姿勢が強く、言葉も生の英語を喜ばずにいちいち日本語にしたものでした。そのようなど土俗の精神が特に日本には強かった」 一方、日本海軍についてはイギリス海軍に触れ、紳士のマナー、精神、スマートさなど、これを模範としたことを幸いとしている。「紳士教育というものが日本で行われたことはありません。学習院でさえとらなかった教育だった。」「おまけに艦に乗りますと、世界共通の海軍文明がありました。」と表現している。また、「イギリスの議会、外交、マナーを考えると、イギリス人は物事を普遍化する能力がある。」「スペインやフランスの海軍はまだ醸造所の段階であり、イギリスは蒸留酒にしたんですね。」 当時の列強国々の中でイギリス海軍を賞賛している。 最後に「司馬遼太郎が語る日本」の冒頭で司馬遼太郎らしい表現を。 「歴史小説は書くよりも調べるほうがおもしろいものです」(中国、車中で) 「子規を長く生かして、ほうぼうを歩き回らせたかったですね」(中国、廈門への道) 「だいたい女の人がその民族の文化を継承していくことになります」(青森、川内町で) 「われわれは未来に対して歩いていく。日本史の中に大事なことはすべてあります」(熱田神宮で) |
過去、訪れたことのある場所に再度、足を運ぶ機会があると思う。 人は年齢や感情などの心理状態によって、見方、感受するものに変化がある。 気にもしなかった風景、ものが目に付いたりする。知識が増えた?分、余計なことを考えたりする。 そういえば、何処へ行くにもなんとなくがつきまとったが、目的を広く持った方が数倍楽しくなると思えるようになってきた。(最近は引き篭もりが板について、中々抜け出せない) 本も然り。 以前、感動・チェックしたことに何も感じず、別の文に新たに目を止める。本を読み返すと、当時どうでもいいと感じた内容なのか、サラッと流した内容なのか、よく分からないが内容に新鮮さを覚える。昔、こんなことに気を止めていたのかと、つい首を傾げてしまうこともある。 2度目は新たな発見があるかもしれない。 |
正月は鳥取に来ている。久しぶりの出張となった。 新幹線で岡山に向かい、そこからローカル線で約2時間かけて北上する。陸を瀬戸内海より日本海へと縦断する。これといって観光名所がないが(鳥取砂丘?)、相変わらずのどかな街だ。 強い寒気の襲来で朝方乾いていた路面が、夕方には雪で覆われている。2、3日 降雪が続くらしく、降り始めてから2日でゆうに30cm積もっている。(1日目で公式発表は25cm) 歩道は歩けない状態で、雪の少ない車道を車を気にしながら使わなくてはならず、不便だ。 宿の窓の外には、どこかの社有車が車体の1/3ほど降雪に埋まり、屋根は押しつぶされる程の積雪があるのが見える。(市内のいたる所で除雪作業がみられ、一般家庭でも除雪が大変らしい。昨日、地元業者の人が、凍結防止剤の塩化カリウムを何十トンか撒かなければならず、塩化カリウムは1日で無くなってしまうと言っていた。) 本日は正月とあって、心なしか朝食は普段よりごうせいで、デザートにはぜんざいがついていた。(ささやかな正月気分といったところだろうか。そういえば、年末年始の準備を何もせず家を留守にしてきた。) 仕事先まではフロントにタクシーを頼んでもらうが、「すぐ来ます」と言われたが結局30分ほど待たされた。(雪の日はなかなかタクシーがつかまらないらしい) 仕事先は、以前とは違い人影もまばらだ。企業の設備保全投資も最小限で、この時勢を反映して、厳しい状況である。 ここに来る前、旬の松葉がにを楽しみにしていたが、残念ながら食べに行けそうもない。 最終日に関係者の慰労会にでて、明日帰路に着く。 なんとも、もの寂しい正月だった。 |
第一部「坂の上の雲」が第5回「留学生」で終わった。NHKが海外含む方々のロケを敢行し、この物語に対する熱の入れようが伺える。(非常に楽しみにしていた番組で、次作が1年先なのが残念だ。後日、録画映像をじっくり見ようと思う。) 余談だが、年甲斐もなく子規の妹役の菅野美穂に少し心がときめいてしまった。 第5回放送の中で途中、「アイススケート・メンバーの五輪決定」には水を注された。(速報で流すほどのことなのかと思いつつ) 物語に主人公の1人である正岡子規のほかに、明治の文豪の夏目漱石が登場する。 しかしこの作品では登場場面が極端に少ない。理由は、司馬が愚将と評した「乃木希典」の自殺を、漱石が後の「こころ」で賛辞したからだという話もある。真意は不明だが、司馬の性格からまんざら間違った指摘ではないと思う。 一方、子規は「写生」の精神で俳句に革新を与えた人物として登場する。物語の中でも子規の俳句が、たびたび詠まれる。死が近づくのを感じながらも、身近なものに美、生など現実描写に注力していたことにある種の共感、畏敬の念を持っていたのかもしれない。 話は変わるが、学生時分、「ファン」君という中国人留学生がいた。入学当時から同じ学科で、なんでも留学前に履修科目を日本語で再履修してから日本に来たらしい。2,3歳年上だったが同期なので「ファン」と呼んでいた。最初、日本語は覚束なかったが1年経った頃は冗談が言えるほど流暢になっていた。生真面目な性格で、数少ない楽しみの1つが松田聖子を聞くことだった。安易に中国の歴史を語ると、誤認識を指摘されよく怒られた。当時の閉鎖的な中国にあって国費留学していた優秀な学生だった。その彼も、少しずつ日本の習慣に馴染んでいった。 (帰国の後、自国のための仕事に就くといっていたが、いまどうしているのだろう?) 最近、変わった?とういか(本人に失礼)感激したものがある。 Misiaの「逢いたくて」を聴こうとYou tubeでPVを探していたところ、素人がカラオケBOXで歌う映像がヒットした。面白半分で聴いていると素人とは思えないほど歌が上手い。裏声など使わずに高音域まで声が伸びている。思わず2度も見てしまった。 (絶賛されたコメントも多く、世の中広いものだと感じた) 興味があればgoogleの検索で「youtube misia 「逢いたくて」を歌って見ました」で見れる。 |
久しぶりに実家の街を訪れると、未だ「D51」が市の空きスペースに飾られてた。子供の頃からあったもので、かなりの年月が経過している。記憶では2、3度とだんだん奥へ移動している。家から近かったせいか、良く運転室、車体上部に登ったりして遊んだものだ。 通称「デゴイチ」と言われ、戦時中大量生産されたものだ。なぜ、ぽつんと此処にあったのか分からない。市の誰かの提案で置くことになったのだろうか。国内向けに製造された1115台うちの1台だ。牽引車両に貨物車1台つながっている。現在の電車と比べ風貌は重厚(動力が大型ボイラーなので仕方ないか)、外装も黒一色で武骨そのものだ。 全車両の静態保存リストが明確になっており、この保存先の中に当該車両がでてない。どこからか譲り受けたのか、それとも後継のDD51機の思い違いなのか。 まあそれはそうとして、全国方々に保存されているので近くにあれば観賞できる。 日常、自家用車での移動が多い中、列車の旅でのんびりするのもいいかもしれない。事の他、目的地ばかりが目に行きがちだが、移動を楽しむのも案外いいだろう。時々雑誌に出る豪華列車などは常に予約で満杯ときく。(以前、定年退職した人がカシオペア:上野~札幌間を予約しようとしたがずっと予約が取れなかったらしい。) 航空機運賃と比べて割高となるが、快適さ、醍醐味などは代えがたいものだろう。一度は乗ってみたいものだ。 |